第四話 坂本龍馬
八 薩長同盟
一
麟太郎(勝海舟)は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。
麟太郎は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。
「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。
国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」
幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。
そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。
「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」
二
久坂玄瑞は奮起した。
文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じゃっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
『二心殿』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。
久坂玄瑞は沈黙した。
頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は懸命に堪えた。
七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位
……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。
享年二十五 火は京中に広がった。その後、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
麟太郎の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、麟太郎は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
龍馬と麟太郎は有志たちの死を悼んだ。
三
そんな中、事件がおこる。
英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。
慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。
それに対応したのが、高杉晋作だった。
「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。
幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。
「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」
その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。
……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……
「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。
「これより、長州男児の意地をみせん!」
こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。
(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)
その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。
だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。
久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが龍馬であった。
「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」
大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。
京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。
結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
ここで夢を壊すようなことをいうが、薩長同盟を演出したのは坂本龍馬であった、というのは眉唾であるという。
三年前まで薩長は完全な敵対関係にあり、土佐を飛び出し、一介の素浪人の坂本が必死に東奔西走したところで、同盟が成功する訳がない。龍馬が頑張ったことは事実であるが、島津も毛利も名門の大大名であり坂本龍馬ごときで同盟がなるほど世の中は甘くない。
坂本龍馬は、使い走りの駒で、そのバックに大物の人物がいたのである。
それは誰か? 今の福岡県の領土を治めていた四十七万石の当主・黒田斉溥(なりひろ)である。
有名な蘭癖(らんぺき)大名(外国びいきで、西洋列強の優れているのを知っている)であり、島津から婿養子に迎えられた人物である。島津とも人脈があり、斉彬とも昵懇(じっこん)。毛利家とも関係が深い。龍馬のような素浪人がいくら動いたところで、ごまめの歯ぎしりだ。が、黒田が裏で動いたのなら「薩長同盟」も成りえる。斉彬の寵愛を受けたのが西郷だし、毛利家も、黒田が動いたのなら、話も聞くだろう。あくまでバックであるから、〝手柄〟は龍馬のようになっているが、これが偽らざる事実である。
四
龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が
「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。
龍馬は遅刻した。京都の薩摩藩邸に入ると
「いやいや、おくれたきに。げにまっこと、すまんちゃ。同盟はなったがきにか?」
龍馬は詫びた。
桂小五郎は「…いや。まだじゃ」と暗い顔していう。
「西郷さんが来てないんか?」
「いや。…西郷さんも大久保さんも小松さんもいる…」
「なら、なして?」
「長州藩は四面楚歌…じゃが、長州藩から薩摩藩に頭を下げるのは…無理…なんじゃ」
「じゃが、薩摩藩と同盟しなければ長州藩はおわりぜよ!」
「わかっている! だが、これじゃあ互角じゃない!」
「長州藩から話をする以外ないじゃっどん」
「長州藩は会津藩や薩摩藩のせいで朝敵にされ、幕府からもすべての藩から敵視され、屈辱を味わった。天子さまに弓をひいた朝敵にされた」
「なにを情けないことをいうちゅう? 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か? 長州藩か? 日本人だろう! こうしている間にも外国は涎を垂らして日本を植民地にしようとねらっているがじゃぞ。日本国が植民地にされたらおんしらは日本人らに何といってわびるがじゃ」
一同は沈黙した。一同は考えた。その後、歴史は動いた。
夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。「薩長同盟成立!」
龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、
「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬ずりじゃ。抱き合え」
「……頬ずり?」桂こと木戸は困惑した。
なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。
長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。
龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
……日本をいま一度洗濯いたし候事。
また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
五
「竜馬さん、表に捕り方たちが来てます。逃げてくだされ」
「おりょう、薩摩藩邸に人を呼んできてくれ」
「はい」
「三吉慎蔵さん。ここは暴れるしかないきに。おれは鉄砲で。三吉さんは得意の長槍で。いくぜよ!」
「おう! 生きて、逃げ切ろう、坂本さん!」
龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、射撃や合戦で、なんとか寺田屋から脱出。
龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。
この縁で龍馬とおりょうは結婚する。
数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。
グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。
晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。
当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。
でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。
「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。
「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」
晋作はそういうのみである。
晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。
龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。
この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。
療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、
「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」
と志を叫んだ。
龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。
「すべては行動しだいじゃきに! わしは日本をもう一度洗濯するために行動し、薩長同盟で徳川幕府をなくし、日本の維新を動かす! 今、立ち上がらんと日本という国がおわってしまうき、行動するしかないがじゃ! わしが日本をひっぱるのじゃ! それを誓うぜよ!」
その後、龍馬は例の写真を撮った。
「ブーツですな?」上野彦馬は龍馬にきく。
「わしがこれからいく道は霧島山より険しい道じゃきい」
「はあ?」
「日本の夜明けに向けた戦いぜよ。」龍馬は決意した。
六
麟太郎はいよいよ忙しくなった。
幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周(にしあまね)くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
龍馬は笑いながらいった。
こののち龍馬は京の清風亭で、亀山社中の仲間とともに土佐の後藤象二郎と会談をして、龍馬は土佐藩をも薩長官軍への同調姿勢となすことに成功する。
坂本龍馬という名前が有名になって、龍馬は暗殺者から身を守る為に「才谷梅太郎」という仮名をつかうようになる。
長崎の貿易商トーマス・グラバー、長崎の豪商・大浦慶(女性)等と商談を成功させる。
この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。
後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。
当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでいる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えていませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」
徳川慶喜が会津藩主・松平容保らとともに大坂城から、江戸城に逃げ帰ってきたのは勝海舟や幕臣にとっても驚きであったに違いない。
まさか、である。
鳥羽伏見で戦闘状態になっているのに、部下らに何も告げず、黙って船に乗り〝逃げ帰る〝…常人の考える範疇を越えている。
勝は「逃げ帰った? はあ?」と深いため息をもらしたという。
榎本武揚も置いてきぼりを食らったのだ。
慶喜は〝錦旗〝錦の御旗を見て、敗北した。彼は言う。「余は戦争に負けたのではない。政治に負けたのだ。鳥羽伏見で薩長同盟軍が錦旗をあげたとき駄目じゃ、と思うたのじゃ」
勝は「しかし、将軍さま、ならばなぜせめて部下に幕臣に自らおっしゃらなかったのです?」
「言えるか、安房?」
もはや幕府は手負いの獅子、幕臣は蜂の巣をつついたような騒動である。
そんな中、小栗上野介忠順だけは毅然と『抗戦論』を唱えた。
「此の後に及んで何を迷いまするか? 殿!」
「錦旗じゃぞ?」
「大政奉還して白旗を挙げたのは幕府側です! なのに薩長は天子さまをかかげて官軍となり我らを攻めた。これはもはや国際法違反。
つまり、もはや薩長土肥同盟軍はもはや官軍にあらず! 恭順白旗をあげた組織に弓矢鉄砲大砲を撃ちかけるときはその軍は官軍にあらず。賊軍です」
慶喜は「しかし、勝てるか?」
「勝てまする! 幕府軍は艦隊も重火器も兵力もすべて薩長土肥同盟軍より勝っています。是非、抗戦を!」
「抗戦だけで済む話であろうか?」
「またお逃げになるのですか? 我らも薩長土肥同盟のように天子さまを掲げて官軍になるのです。徳川官軍で一戦を!」
慶喜は怒った。
「無礼な! それでは薩長と同じじゃ! もう余は決めておる。それ以上は申すな!」
小栗上野介は上座から立ち上がり去ろうとする慶喜の裾をつかんだ。
「お待ちくだされ! しばらくおまちを!」
「おのれ上野介! 余を愚弄するか?!」慶喜は扇子でバンと小栗の手を叩いた。
「小栗上野介! 蟄居を命ずる。下がりおろう。そのほうの顔などみとうもないわ!」
徳川慶喜は場を去った。愕然としてうなだれる小栗上野介。勝海舟は無言で小栗を睨んだ。
幕臣のお偉方が去ると、場は静まった。
徳川二百七十年の中で、将軍が一家臣をクビにする例はなかった。
七
幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。
長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかった。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。
麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。
「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。
ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」
止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。
「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」
……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。
幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。
だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。
「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」
虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。
薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。
麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。
慶喜の対応は冷たかった。
……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。
麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。
彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。
「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。
ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。
清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く繁栄したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。
わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。
西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。
諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。
そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」
麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。
麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことは いっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。
長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国が大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。
福沢諭吉もそのひとりだった。
横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。
……あれはもしかして英語か?
福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!
がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。
福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。
九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。
慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。
二十日には登営し、日記に記した。
「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」
二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。
江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。
品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。
麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に留学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。
オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。
麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。
麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。
イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」
と強くいった。
パークスは麟太郎の提言を承諾した。
麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。
「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。
彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」
麟太郎はするどく指摘していく。
「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」
麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?
八
江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。麟太郎は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。麟太郎はのちにいっている。
「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。
心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。
こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。
俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。
すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。
こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。
それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。
甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。
ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」
九
新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれたのである。
近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にしたのである。
〝困ったときの神だのみ〝……ではないが、事実はその通りだった。
薩長は徳川慶喜の追放について御所で密談した。しかし、そこは天皇の御前である。岩倉はしきりに徳川慶喜を死罪にし、幕府を解散させるべきだと息巻いた。その頃、幕府の重鎮・小栗上野介は「幕府から商社をつくろう」と画策していた。
慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走し出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうでもよかったのである。坂本龍馬は将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といった。 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。
麟太郎も〝慶喜嫌い〝であった。
麟太郎は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」というアイデアには反対だった。麟太郎は「インドの軼を踏む」といった。
そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。
慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周に『西洋の議会制度』『民主主義』などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。
慶喜は決心する。
慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。ここに至るまでに龍馬のいわゆる『船中八策』、後藤象二郎の慶喜への進言があったのだ。のちにゆう『大政奉還』である。
勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。
「公方様……ありがとうございます。これこそ、日本の夜明けぜよ!」
しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?
勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。
勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。
薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。
ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。『新官制議定書(新制度と閣僚名簿)』を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。
……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。
「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、
「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」といった。
「世界でごわすか?」
「そう世界じゃ。黒船を海に浮かべて世界の海援隊でもやりますかいろうかのう」
龍馬は遠くをみるような目でいった。艸風(そうふう)(草原の風)の如き英雄のすがたである。
龍馬暗殺まで数か月前………すべてを見通したような龍馬の顔で、あった。
慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だったという。
四月、新選組の近藤勇は官軍につかまり、その後処刑された。(沖田総司は病死、土方歳三は榎本武揚とともに北海道までいくも戦死している。それぞれ三十五歳であった)
京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。
………幕府の連中は負けなきゃ分からねぇんだ。こりゃ見守るしかねぇ。
麟太郎は単身、船で江戸へ戻った。
九 龍馬暗殺
一
旧・幕府軍は東北、会津、蝦夷までいったが瓦解……こうして薩摩長州土佐肥後などによる明治新政府ができた。
しかし、民主主義も経済発展も産業新興もおうおうにして進まない。
すべては金融システムのなさであるが誰も考えつかない。
しかし、それをわかっている人間がいた。
他ならぬ渋沢栄一である。
『戊辰戦争(いわゆる明治維新による官軍(薩摩長州軍)対徳川幕府軍による戦争)』後、桂小五郎改木戸孝允(木戸貫治)や大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、岩倉具視らが明治新政府の屋台骨になった。渋沢栄一も元・幕臣仲間の勝海舟(麟太郎)とともに役人となった。だが、枢軸は『維新三傑』といわれた西郷吉之助(隆盛)、木戸孝允(桂小五郎改)、大久保利通(一蔵)である。
三傑は日本国家の参謀であり、参与・大臣という存在である。
そんな中、渋沢の気に食わないのは大久保利通である。渋沢にとって大久保利通は「嫌いな人物」で、大久保も渋沢は「嫌いな人物」で、あった。
大久保は白亜の豪邸に住み、相当の贅沢な暮らしをしていた。どうも政党助成金や税金を着服・搾取していたようだが、生真面目な渋沢栄一にとっては「とんでもない事」と映る。
「貴公は贅沢が過ぎる! あの白亜の豪邸に毎日洋食フルコースを食っているそうだな?」
渋沢が苦い顔をしても、大久保は、
「おいどんは此の国の参与で働いて偉いのでごわす。少しばかり贅沢せてもバチは当たらんでごわすぞ」
「それは違う」渋沢栄一は言った。「人間はみな「誰よりも自分が偉い」と思っている。だが「誰よりも偉い」人間などいない」
「綺麗事じゃっとなあ」
「貴公は『ノブレス・オブリージュ』という言葉を知っているのか?」
「知りもさん」
「『ノブレス・オブリージュ』とは金持ちや社会的地位の高い者には『社会に貢献する責任』があるということじゃ。貴公は論語すら馬鹿にしてよまない。いずれバチがあたるぞ」
「ふん、なんとでもいえ渋沢どん。おいはおいの生き方があるでな」
「官僚などとしょうして宦官みたいな試験馬鹿の役人をつくる人生か?」
「なんとでもいわばよかじゃっどん。此の国はおいと官僚の頭脳でいきている」
「あんさんは呆れたひとじゃ」渋沢は呆れた。
まだ自分が偉い気になってやがる。救いようもない天狗だ。
しかし、大久保と渋沢は『水と油』のような関係である。交わることはない。それは『価値観の違い』でもある。『論語と算盤』の渋沢栄一と『権威と独裁』の大久保利通では土台合う筈はない。
二
龍馬は宵になると、後藤象二郎と話した。
場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。
本当なら後藤象二郎は土佐藩の上士で土佐藩の吉田東洋の甥っ子だから、龍馬とまるで友達のように話す訳はない。大河ドラマ『龍馬伝』では『清風亭会談』として描かれた。
事実はあちらのほうが正しい。後藤は芸子のお元と龍馬と、清風亭であった。
襖の奥で刀を構えている土佐上士らと、龍馬の海援隊(亀山社中)の連中が刀を抜いて激突しようとの一触即発で奇跡のシュエイクハンドをする。
「やめや! 刀をしまいなや!」
「後藤さん、土佐藩士も海援隊もシュエイクハンドをしませんか?」
「シュエイクハンド?」
「握手ですき! …外国では商談がまとまるとシュエイクハンドするぜよ」
「……く」
龍馬は手を前に出した。
後藤象二郎は握手した。「…これでええんか? 龍馬!」
「そうですろうのう後藤さま。後は土佐藩主容堂公に〝大政奉還〝の建白書を書いてもらいますかのう。」
「……調子に乗るな! 建白書とは受け入れられなければ藩主が切腹せねばならんもんじゃぞ! 誰がそれを幕府に差し出す? 山内容堂公を説得できるきにか?」
「それは後藤さま、容堂公の覚悟次第じゃ! もう侍の世はおわりじゃきに!」
「大政奉還など無理じゃきに。国に政権を還し奉る………大ぼら吹きめ!」
「無理ではないきに! すべては後藤さまや容堂公の覚悟次第! 今、行動せねば日本国がおわってしまうがじゃ。そうなれば土佐藩もおわりぜよ!」
「……貴様!…」こうして容堂公は幕府に〝大政奉還〝の建白書を書き、その書状を幕府の将軍徳川慶喜に上奏した。無論、龍馬は浪人なので上奏できない。それをしたのは烏帽子直垂の集団の中の平伏する城の後藤象二郎である。
その後、奇跡の〝大政奉還〝は成るのである。
「日本の夜明けぜよ!」龍馬は涙を流して朝日を拝み、奇跡の歴史が動いたのを感じた。
これが歴史的事実だ。だが、下記ではそうではないパターンの小説の仮説を載せる。
三日後に後藤は、
「いやあ、まいった。坂本さんはそれほど土佐藩に戻るものが嫌じゃきにか?」ときく。
「そうじゃきに」
龍馬は顎をなでながら苦笑した。
「世に浪人ほど楽な身分はない。後藤くんは浪人になったことがないからわからないきに」「かといって、あの同盟まで成立させたかのひとが、只の浪人で、新政府の中に名前すらないとはどげんことじゃきにか?」
「わしは役人になりとうて日本中を走りまわった訳じゃないきに」
「じゃきに…」
後藤は口をつぐんだ。こりゃあまいった、と思った。英雄とはこういうものなのか?
龍馬と社中を土佐藩にくみいれて、土佐の一翼を担ってもらう気だったが……
龍馬からすれば、なにをいまさらいってんだ、というところだろう。
「藩士は御免じゃきに」
龍馬ははっきり言った。龍馬は私立軍艦隊をつくり、天下に名を馳せると野望を語った。そのうえ貿易もする。後藤は、
「坂本さんは日本の政権に野望をもっとるですがか?」と尋ねた。
「いや」
龍馬は後藤をみた。この男はそんな推測までするのか。
「わしの野望は政ではない。貿易でこの日本を『貿易立国』とするんぜよ」
「貿易?」
「そうじゃ。日本の乱が片付けば、この国を去り、船を太平洋や大西洋に浮かべて、世界を相手に商いがしたいきに」
後藤は驚いて目を丸くした。こんな大法螺を夢見ている男が日本にいるとは思わなかったからだという。この壮大な夢の前では、壤夷や佐幕や薩長連合などちっぽけなものに見えてきた。ましてや土佐藩士にもどれ……などというのはまさにちっぽけだ。
「後藤さん。これはどうじゃ?」
龍馬は紙に墨で書いた。
『海援隊』……
「は?」
「意味は、海から土佐藩を援ける、ということじゃ。海とは、海軍、貿易じゃき。海援隊は土佐藩を援けるが、土佐藩も海援隊を援けるがぜよ」
「つまり同格ということじゃきにか?」
「ああ、そうじゃ」
「じゃきに、藩主とおんしが同格なのか?」
「あたりまえだ。アメリカでは身分制度などない。大名も殿様もない」
「声が大きい! 危険な思想じゃきに」
「その為には倒幕し、大名もそののちなくす」
「大名を? 藩をなくすちゅうがか?」
「時期がくれば……大名も藩もなくす。皆が平等な日本にしたい」
「おのれは……すると龍馬。おんしの勤王は嘘か? 天子さまもいらんと?」
「そげんこついうとらん。天子さまは別じゃ」
後藤は龍馬という男が怖くなってきた。
意見があわない筈だ。
後藤は龍馬のいう『海援隊』を土佐藩の支配下におこうとし、龍馬は藩と同格のかたちでいこうとしている。
「まんじゅうの形はどうでもいいき。舌を出して餡がなめられればいいんじゃきにな」
龍馬はいった。餡とは本質であり、利益のことだ。
後藤とは会ったが、多くは語らず、龍馬は去った。そんな龍馬に、浅黒い顔の中岡慎太郎というやつが訪ねてきた。
(いいやつがきたきに)
中岡慎太郎は「海援隊じゃけでは片落ちじゃ。陸援隊もつくるべきじゃ」といった。
「それはいいきにな」
龍馬は頷いた。その陸援隊の隊長をこの中岡慎太郎にさせればよい。
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