二章
「ただぁーいまー……」
花に似た
果たして居間のすぐ横の部屋には、正座している青磁と、その前に座る二人の少女の姿があった。
彼女たちは長い
特に会話に交ざるつもりはなかったのだが、青磁が、
「あれが私の
と
二人の少女は目を
「あなた様が、こちらの式神のご主人様でいらっしゃるのですね!」
「いらっしゃるのですね!」
美しいユニゾン。ひよりは慌てて、青磁の横に正座する。
強い意志を感じさせる太い
同じ顔が二つ並んでいる様は、どこかひな人形のような印象を
「私たちは
「お見知りおきのほどを」
「しかしあなた様の式神はご立派ですね。人型をしていらっしゃるし、特別な術を使わずとも、常人に見えるほど格が高い。何より縁切りという
「そ、そのようです……」
「
「用件は既に二人から聞いています。なんでも、式神を取り違えてしまったのだそうで」
「取り違えた?」
「そうなのです。未熟者ゆえ、
そう言って二人は
畳の上でゆらん、ゆらんと首を
だが片方の赤べこは真っ白だった。
「赤べこという名ですが、片方は白いものにしました。妹は白を好みますので」
「姉の式神と並べると、紅白の取り合わせが、何とも言えずおめでたいでしょう」
「ですが、私は赤色がいい」
「そして、私は白色がいい」
「だというのに、私が白べこの主となってしまっている!」
「とくれば私も、赤べこの主になってしまっているということ!」
「これではだめです。いけません。私は赤、妹は白、これは絶対の決まりなのです」
「決まりを破ってしまっては小関家の将来にも
「ゆえに縁切り屋の青磁
「えっと……主は違うけど、並べれば同じ紅白だからいいよね、っていう
「ありえません! 私は赤がよいのです!」
「そして私は白が!」
「は、はいっ! すみません!」
「しかし
「どうやらあなた様は、木よりも森を見、全体の調和を重んじる方のようだ。私たちも早くその域に達したいものです」
どうやらこの姉妹は、青磁とその主であるひよりを、
そもそも、陰陽師だの式神だのという言葉を知ったのだって、つい最近のことなのだ。
だから、縁切り屋を手伝うとは言ったものの、どうすれば青磁の助けになるのか──というよりもはや、どう反応すれば青磁に
その状態を見かねたのだろう、青磁が会話を先導してくれた。
「陰陽師が式神を従えるには、三つのやり方があります。一つ目は、もともといる
「ふむふむ」
「彼女たちは二つ目──一から式神を作り上げる方法を選びました。赤べこと白べこで式神を作る。だがそこで、取り違えが発生してしまった」
「それが解除できないから、青磁さんが縁を切って、いったん仕切り直しにするってことですね。理解しました」
「よろしい。では仕事にかかりましょう」
そう宣言した青磁が懐に手を入れた。
出てきたのは小さな糸切りばさみ。和裁に使う、今ではあまりお目にかかれない
持ち手のところに小さな
「
糸切りばさみがぐんと大きくなった。
あれに
氷山の
小関姉妹もそれを感じ取ったのだろう。ハッと息を
「やはり、
「しかしあれほどの
ちっぽけな赤べこと白べこも、心なしか首をひっきりなしに上下させて、うろたえている(ように見える)。
「その縁を見せよ。式神よ」
青磁の言葉に応じ、赤べこたちの背中から細い糸がゆるりと現れる。それは
姉が白べこ、妹が赤べこに繋がっているはずだが、何しろ同じ顔なので分からない。
ただ、会話を主導していた方に白べこの糸が繋がっていたので、
青磁はそれを
「あっ青磁さん、畳取り
式神は、のんきな主をきろりと
「畳の心配とは、大物ですね」
そうして青磁は、しゃきん、と音を立てて糸を切った。
はらりと落ちる
赤べこと白べこはがくりと
青磁はその糸の先を持つと、双子に
「縁切り屋再開第一号のお客様、ということで──。こちらはおまけです」
赤い糸がじわじわと姉妹の体に染み込んでゆく。
その温かな光に、ひよりはほうっとみとれた。
「あ……。私たちの、式神が!」
「姉さまは赤に、私は白に、繋がりました!」
赤べこと白べこが、元通りこっくりこっくり首を動かし始めた。
『
『ええ、とても』
その声は赤べこたちから聞こえてきたようだった。姉妹は
『この色がいい、と言って下さる
『わざわざ縁切り屋まで足を運び、縁を結び直そうとされる主も、なかなかおりませんぞ』
『
『ああ。
「ええ、私たちも」
「一層
赤べこたちも、小関姉妹も、嬉しそうに
その様にひよりも思わず嬉しくなって、はさみを懐にしまいこんでいる青磁の横に立った。
「すごいですね青磁さん! あのはさみ、大きくなったり小さくなったりして、それで縁の糸をぷつんって! すごいすごい!」
「五歳児のような感想、どうもありがとうございます」
と言いつつ、青磁もまんざらではなさそうに、喜ぶ少女たちを見つめている。
「青磁さんは、縁を繋ぐこともできるんですか」
「いいえ。あれは切ってすぐだったことと、次の主が確定していたからできたことです。私ほどの力を持つ式神であれば、
「そうですか?
「……再開してすぐのお客様だから、少し手厚くもてなしただけです。他意はない」
ひよりはにまにま笑いながら、青磁の顔を
いつも通りの無表情ではある。けれどひよりの目は、青磁の白い耳が、ほんの
いきなりひよりの前に現れた式神、青磁。
かつて
その中身は──案外人情味あふれるものなのかもしれない。
「青磁さんは、いいひとですね」
そう言ってひよりはにんまり笑った。
「お
青磁はどこか手持ち
ひよりはゆったりとした手つきで茶葉をすくい、大きなポットの中に二
小関姉妹は既に帰っていて、居間にいるのは青磁とひよりだけだ。時刻は八時で、ティータイムというよりは夕飯時に近い。
「……あの、別に私は」
「まあまあ。私、色々とどんくさいんですが、紅茶を淹れるのだけは
ポットの上に、真っ赤なティーコゼーを
白磁のシンプルなカップには、なみなみとお湯が注がれていた。シュガーポットもミルクピッチャーも、
「なるほど。道具たちも慣れていますね」
「慣れている?」
「お前の次の動きを待っています。訓練された犬のようだ」
ふふっと笑ってひよりは、砂時計をじっと見つめる。青磁もまた落ちてゆく金色の砂に視線を合わせた。
時間は不可逆だ。
青磁は顔を上げる。ひよりは過ぎる時間を
「紅茶を淹れたり、何か
「お前はぼーっとするのが
「青磁さんはぼーっとするのが
「……下手で悪いか」
「いえいえ。私が上手いから
砂時計が落ちきった。ひよりはカップの湯を捨て、茶こしの上から紅茶を注ぎ入れた。
「よい
「フレンチアールグレイ、っていうんですって。
うっとりと目を細めるひよりに対し、青磁は微かに
その
「ところで青磁さん。私も、
鼻息
「何ですか、さっきの姉妹に感化されましたか」
「はいっ。私が何かしなくても良いってことは分かってるんですけど、せめて青磁さんの足を引っ張らないくらいの知識は身に付けたく! 参考になる本とかありますか!」
「ない」
青磁はにべもなく言い放つ。
「才能がないんだから、陰陽師の
「で、でも、せめて主として
「お前が陰陽師として表に出ることはないのですから、
「じゃあ、ひいおじいちゃんが何か書き残しているものとかを参考に……」
「くどい」
ぴしゃりと言われて、ひよりは縮み上がる。
その様子に、青磁は言い過ぎたことに気づく。はあ、とため息をついて、
「……その気持ちだけ受け取っておきます。さあ、そろそろ夕食の
と、
さて、どうやら
内容は様々だが、術を
「昨今の陰陽師は
「ま、まあまあ……。今日は新たまねぎのポタージュにしますから、
そう言いながら、刻んだたまねぎとバジル、セロリをミキサーに入れてスイッチを押す。
ミキサーのけたたましい音がキッチン中にこだました瞬間。
「っ、敵か!」
「うわあ青磁さん何するんですかー!」
稼働し始めたばかりのミキサーを、青磁の手刀が
青磁は目を見開いてミキサーを指さす。
「ものすごい音がしましたよこれ!?」
「そ、そういうものなんですよミキサーは! わああ大変、青磁さん
半分ほどは救出できたが、半分ほどは
「あのですね青磁さん、台所にあるものは基本的に無害ですから、そこまで反応してもらわなくても大丈夫だと思います……」
「ま、万が一ということもあるでしょう。
大げさに反応しすぎたのが恥ずかしかったのか、
だからひよりは「この間もパクチーを毒だと間違えてゴミ箱にダンクシュートしてましたよね」とは言わないでおいた。
こんな日々を共にしてゆくうちに、青磁という存在に慣れてきた。
けれど、
どうして青磁はあんな
あの大きなはさみ──まるで神さまの持ち物のような気配を放っていたあれは、いったいどこから来たのだろう、とか。
自分は陰陽師として、主として、どれだけ青磁を助けられるのだろう、とか。
「うーん……」
授業中ずっとそのことを考えていたひよりは、放課後になっていることに気づかなかった。
「野見山さん」
「ネットで調べても分かるようなことじゃないもんね。石蕗さんに聞いてみる、とか?」
「野見山さんってば」
「ん? わあっ、す、
ひよりに話しかけていたのは、杉山
転校生の面倒を見ろとでも言われているのだろう。小夜子はよくひよりに話しかけてきたが、それは事務的な内容にとどまるものだった。
それでもひよりにとっては、貴重な話し相手である。
「読書ノート、まとめて私が持ってくんだけどさ。野見山さんまだ提出してないよね?」
「あっ、ご、ごめん……!」
ひよりは
「サンキュ」
「あ……ノート、いっぱいある? 良ければ半分持とうか」
断られるかも、と身構えるひよりだったが、小夜子はにこっと笑って、
「ほんと? そうしてもらえると助かる! やー、気が
と申し出を受け入れてくれた。
ひよりはノートの半分を
「てか、何であんなに
「うーん……。気になること? っていうか、知りたいことがあって」
「何の?」
「えっと、最近仲良くなった人の、個人情報?」
「へー、それって男の子? あっ彼氏とか?」
式神です、と言えるはずもなく、ひよりはもごもごと口の中でごまかす。
けれど小夜子の
「彼氏でしょ。彼氏がちょっと心変わりしちゃってて、気になる……とか?」
「そ、そういうんじゃないよ。でも、私のことどう思ってるかは、ちょっと気になるかな」
そう言うと、小夜子はあっさり言った。
「本人に聞いたら? そういうのってさ、外野がごちゃごちゃ言うより、本人に
「……そっか! 聞いちゃえばいいのか」
悩んでいても分からない。青磁本人に聞くのが、確かに一番楽だろう。
どうしてそんな簡単なことに思い当たらなかったのか、今にして思えば
「そうだね、ありがと杉山さん」
「どーいたしまして。小夜子でいいよ。私も適当に、ひよりんって呼ぶし」
快活に笑う小夜子に、ひよりはおずおずと
今度は
帰宅したひよりは、小夜子のアドバイス通り、青磁に色々聞いてみようと意気込んでいたが、
書置きによると、別の県まで縁切り屋の仕事をしに遠出しているらしい。今晩は
のんき者の悲しい
一人きりの夕飯は、野見山家特製オムライスにした。牛ひき肉だけで作る簡単なケチャップライスに、冷蔵庫の残り野菜を刻んで混ぜたオムレツを
それを平らげてしまうと、もうすることがなくなってしまう。一人だとやっぱり手持ち
「まだ早いけど、
ひよりの
新生活の
青磁ならこんなに足音を殺さない。
こみあげてくる
その
寝室のふすまがさっと開き、視界の
「あ──」
敵意のない光だと思った
誰かがチッと舌打ちする音が聞こえる。と同時に、光がさっと遠ざかってゆく。
「誰だ! 顔を見せよ!」
青磁の声がすぐ上から
ぱっと明かりがつく。青磁の巻き起こした風は、明かりのスイッチを入れるついでに、
「ぷぎゃ!」
青磁はひよりのベッドの上で
「青磁さん!」
「遅くなってすみません。間に合って良かった」
その声に
十代前半ほどだろうか。金色に近いとび色の目が、活発な印象を
髪を
「あたしの
「なら深夜に窓から入るな、私の主を
「襲ってなんかない! ただちょっと声をかけようか迷ってただけ!」
「どうだか。結界を
耳慣れない言葉にひよりが首を
「結界ですか? うちにそんなものありましたっけ」
「私が作りました。商売をやるからには、防犯もしっかりしなければ」
「色々と考えているんですねえ」
「お前が考えなさすぎなだけです。今までよくそれで生き延びられましたね」
「悪運と体力には自信がありますからね!」
むんっ、と
「こら、ちょっと、あたしの話を聞きなさいよね!? こっちはこんなに困ってるんだから、だって、ばあちゃんが死んでから、家から少し離れた場所までしか行けてないの! このままじゃ
少女はいつの間にか立ち上がって、
少しどきっとするような
「不法侵入しておいて、話を聞けとは。しつけのなっていない
「でも、話くらいは聞いてあげましょうよ、青磁さん」
「は?
「そ、そうかもですけど! 消滅しちゃうって言ってますし」
消滅とは
「青磁さん、ここで彼女の話を無視したら、彼女はいなくなっちゃうかもしれないんですよ? 話だけでも聞いてみましょうよ、ね?」
そう青磁に
と、
「……分かりました」
そうしてひよりを腕の中から解放し、部屋の真ん中で立っている少女に向き直る。
「事情を話しなさい。縁切りできるかどうかは、それから判断します」
「うん、うん! あのねあたしね、
それでねそれでね、と少女はいとけない口調で続ける。
「きっとそれってあたしの縁が複雑に絡み合っちゃってるからだと思うの。そういうことって、たまにあるんでしょ? だからその縁を切ってもらいたいの! そしたらあたし、どこへでも行けるし、自由になれるでしょ!」
青磁はじっと少女の顔を見つめている。
「……あなたの望みは、家から出ることでしょうか」
「うん! なるべく早くね、そうじゃないと消滅しちゃうから!」
「分かりました。ではあなたの家に行ってみましょう」
「えっ? ってことは、縁切りをやってくれるってことね!? なんだもう、そうならそうと言いなさいよ、もったいぶってないで!」
先ほどまでの
猫のような
「ただしそれは今日ではない。──今週土曜日にあなたの家に行きます」
「ええー!? 今すぐじゃないの?」
「縁切りにも時流というものがあります。今はその時ではない」
にべもなく言い放つ青磁に、少女も言葉を詰まらせる。
「……っ、分かったわよ。今週土曜ね、絶対よ。ちゃんと来なかったら
そう言うと少女は
「あ、言い忘れてた。あたしは
「かわいらしいお名前ですね」
思ったことを口にすると、百は満足そうに、にっこり笑って言った。
「あたしもそう思う!」
中庭の引き戸が開き、勢いよく閉じられる音が聞こえた。すごい場所から出て行くんだなあ、とひよりはぼんやり思った。
はあ、と青磁のこれ見よがしなため息。
「あまりただ働きはしたくないのですが、仕方がない。どうやら私の主は、私のことを
「そ、そんなことはないですけど」
ちょっぴり図星だ。顔に出ていないといいがと思いつつ、ひよりは、頭のどこかで何かが引っかかっていることに気づいた。
瀧宮のお家。そうだ、あの百という子は、瀧宮家から来たと言った。
「あれ? 瀧宮家の、おばあちゃん?」
ひよりは二週間ほど前に回ってきた回覧板を思い出す。春の
『瀧宮リツ
瀧宮リツ子殿 八十九歳 三月二十九日に
書かれていた文言を思い出したひよりは、首を傾げながら、
「瀧宮さん
「……」
青磁は答えず、
「
そう
「
「あ、えっと。焼きおにぎりのお
「献立の栄養価はよろしいようですね。明日は私も手伝いましょう」
「ありがとうございます。あ、煮卵はレンジでチンしちゃだめですからね」
「……分かっています。早く休みなさい」
つい先日、慣れない電子レンジで煮卵を
〇 〇 〇
そうしてどうにか平日を乗り切り、ほうほうのていで家に帰り着いたひよりは、金曜日の
「そういえば、明日瀧宮さん家の式神に会いに行くんですよね。それ、私もついて行ってもいいですか?」
「そう言うだろうと思って、お前が休みの土曜日を指定したのです」
「あ、そうなんですね。ありがとうございます」
青磁は最初、百の
「ちょうどいい。また石蕗が来るので、
「この間のたけのこご飯みたいな? そうですね、今日買ってきた材料はサーモンパイ用なんですけれど、それでもいいですか?」
「なんでも食べますよ、あれは
そう言って青磁は、
「学校はどうですか。勉学に
「はい、まあ、そこそこに」
「
友人。その言葉で反射的に、小夜子の顔を思い出す。
けれど同時に、彼女を友人と思うのはおこがましいだろうと思う。
ひよりはふっと笑って、静かに
「大丈夫です。ちゃんとやってますよ」
その
ひよりに学校のことを
彼女が青磁に決して見せない一面。それを
「……そうですか。なら、良いんですけど」
それ以上は
翌日、ひよりが卵を
「ありゃ、土地神さまがそんな場所から来るなんて」
「俺くらいにもなれば、どこから入っても様になるからな。
そう言って石蕗はふらりと台所を出た。
「おい青磁。今日の飯も美味そうだぞ」
「あなたはどうしてここにいるのです。現地集合と言ったでしょう」
「君たちが住んでいる家を見てみたくて。風通しのいい家だな。古いがよく手入れされている。
「ひよりがきちんと
「学生なんだろう? 大変だな」
石蕗は、ひよりが居間の
代わりに、新しい
「しかしまあ、悪くはない
「なんですか。ずいぶんと持ち上げますね」
「まあな。気に入っているんだ。何とも言えず図太そうじゃないか?」
「図太い……。まあ、
「あはは、いちいち
そう言って石蕗は、
やがて台所の方から、パイ
「お昼、ここで食べて行きますか」
「もちろん。ピクニックには少し天気が悪いからな」
「はーい。今用意しますね」
そう言ってひよりは、
型から出された香ばしいパイ、あっさりとしたコンソメスープに、トマトサラダがずらりと並ぶのを見、石蕗はいそいそと席についた。
どうやら今日は、お
ひよりが人数分のカトラリーを用意すると、石蕗は少し不思議そうに青磁を見た。
「……ああ、そういうことか」
「やかましいですよ石蕗。口を閉じていなさい」
「はいはい。さて、いただこうか」
さっくりと切り分けられたパイの断面から、ほわりと立ち上るサーモンの
「うん、美味い! しかし君は料理が
そう言うとひよりは
「実は私のお母さん、料理があんまり得意じゃなくって……。生煮えだったり
「なるほど。食い意地が張っているゆえに、まずい飯に
ぽつぽつと皿を
「えへへ、いっぱい食べて
「そうだろうとも!
「力?」
「ああ。百とかいう
「やかましい男ですね。
「まあ、縁切りの分野で言えばね」
意味深な
〇 〇 〇
瀧宮家は、野見山家と同じくらい広い。
ただし野見山家よりもだいぶ
「来たわね」
門の前には百が立っている。ふふんと得意げに笑って、ひよりたちを家の中へと案内した。
「まあ、野見山さんとこのお孫さん! もしかして、母にお線香をあげに来てくれたの?」
「は、はいっ。
「いいのよ。上がってちょうだい。その後ろのお二方は、お友達かしら?」
ひよりは青磁と石蕗を見て言い訳に
「ええっと、はい、友人です。ぞろぞろとすみません」
そう、と言ってリツ子の娘はうつろに笑う。それ以上
少しおかしな態度だった。ひよりが
「神なれば、このていどの目くらましはお手の物」
「石蕗さん、オレオレ
「ひより……お前の想像する悪だくみは、何というか、ささやかですねえ」
「ささやかじゃないですよ! リツ子おばあちゃんも
その時は、急いで
「犯罪ですからね、オレオレ詐欺は」
「そう、ですね。前言
三人が通された和室の、日当たりのいい場所に
百はそれをうずうずしながら待っていて、ひよりたちが顔を上げると、待ちかねたようにぴょんと
「さ、さ! 早く
「──その前に。式神というもののおさらいをしましょうか」
青磁の落ち着いた言葉に、百は口をとんがらせて
「えー!? 何よう、一体いつになったら……」
「式神とは、人の生み出した
「つまりあたしやあんたってことね」
「いいえ。私は式神ですが、あなたはそうではありません」
ひよりは
「式神じゃ、ない……?」
「し、失礼ね! あたしは式神よ、ばあちゃんとこの家を守護していた、立派な式神だわ!
「守護していたという点については疑っていません。ですが式神ではない。瀧宮リツ子は、式神を生み出し、
もっと言うなら、と青磁は
「式神と
百のまなじりがぎゅうっと
「ばあちゃんを
「では
すっくと立ち上がる青磁は、その
出てきたのはあの小さな糸切りばさみ。持ち手の
「
糸切りばさみがぐんと大きくなった。
りん、という鈴の音が、水面にできた
「……百よ。お前の縁を見せてみよ」
いつの間にか百の細い首筋からは、赤い糸がつんと
その
「分かるでしょう。お前の縁はどこにも繋がっていない。お前ははじめから、瀧宮リツ子の式神などではなかったのです」
「……うそ」
百は泣きそうになりながら、自分の首筋の糸をたぐる。
「ばあちゃんがここにいないから、この先はどこにも繋がっていないのよ、それだけのことでしょ!」
「いいえ。そもそも
主──七生が死んでもなお、
望んでもいなかったのに「よほどの例外」になってしまった彼は、どこか悲しげな顔で百を見つめている。
「よほどの例外というのは、お前がどこかに封じ込められていたり、主がその力を分け
「その様子はないな。お前自身は何の加護も受けていない、無力な存在だ」
石蕗がそう言うと、百の顔がくしゃりと
「あたしは……式神じゃなかったの? ばあちゃんのことを守るために生まれてきた存在じゃなかったわけ?」
「はい」
「じゃあどうしてこの家から
その言葉にひよりははっと顔を上げた。
百は不安げにスカートをもじもじといじりながら、
「死ぬっていうの、よく分かんないんだけど、家に帰ってこられないってことよね? だったらあたしが迎えに行ってあげなきゃいけないんだから、こんなところでじっとしていられないの」
「百さん、あなた……」
ひよりは少しずつ気づき始めていた。
初めて会った時、百は「このままでは
それに彼女はずっと「縁を切る」と言っていたが、それはリツ子との縁ではなく、百をこの家に
百の心はずっと一つだった。
この家から断ち切られて、ばあちゃんのもとへ飛んでいきたい。
「分かったわ、あたしが式神じゃないってんならそれでもいい。ともかく、なんでもいいからあたしの縁を切って、あたしをここから自由にして。そうじゃなきゃばあちゃんが」
「おばあちゃんは、もういません」
「そうよ。この家にはいないわ、だけど火葬場ってとこにはいるんでしょ」
「そこにもいません。この世のどこにもいないんです。百さん。あなたのばあちゃん……飼い主は、もう帰ってこないんです」
ひよりは泣き出しそうになるのをこらえ、百の顔を見る。
「あなたは、おばあちゃんの飼い猫なんですね」
「──猫?」
そう
何度かの
「いいわ、そうよ、あたしは猫よ。でも猫だからなに? あたし、ばあちゃんに会いたいの」
「っ、もう会えないんです。リツ子さんは死んじゃって、二度と会えない場所に行っちゃったんです。あなたの兄弟みたいに」
「消滅、しちゃったの?」
「……はい」
百はうつむいた。そうかあ、という
「じゃあ、切らなきゃいけない縁なんて、ないんだね」
猫はへへっと笑った。
「なーんだ。ばあちゃんてばおっちょこちょいよね、あたしのこと、ばあちゃんを守る式神様だねって言うんだもん。だからあたし
声が微かに
泣かないが、泣きたい気持ちになるときくらい、ある。
「ばあちゃんは、二度と会えないとこにいっちゃったんだね。もっかいでいいから、会いたかったなあ」
「死んだ人間には二度と会えません」
ぴしゃりと言い放ったのは青磁だ。
彼は小さな猫を上から見下ろして、ですが、と続ける。
「この家で式神の
「……どういうこと?」
「お前は長年瀧宮リツ子にかわいがられ、お前もまたその人間を
「精霊化?」
「呪力を持つようになってきている、ということです。大事にされた猫は
「すごく上手に
百の場合、あまりにもリツ子に入れ込みすぎたため、その思いが彼女を瀧宮家に物理的に縛り付けているのだと青磁は言った。だから、百が家から遠く離れたくても、できなかったのだと。
「ですがこの石蕗がいれば、お前の中に芽生え始めた呪力を
「えっと?」
混乱する百に、石蕗が
「つまりだな、猫。君がかつて瀧宮リツ子にしたように、今度はこの家の人々を──リツ子が
「
「女好きとはずいぶんな物言いだな。こんなに
「神社で猫に化ければ、若い女性に
「そのていどで目くじらを立てるとは! 青磁よ、君は西洋の神話を読んだ方がいいぞ。俺なんてまだまだかわいい方だ」
「あ、あのう、百さんの話がまだ終わってませんよー……」
百は前足でちょいちょいと顔を洗った。
「あたし、式神なんかじゃない、ただの猫だけど。猫又になったら、この家の人たちの──ばあちゃんが好きだった人たちの助けになれる?」
「なれるとも。
「えへ。じゃあ、なっていいかな? なれるかな?」
ひよりは思わず声を上げる。
「わあっ! すごい、尻尾が二本になった!」
「ほんとだー! あたし、すっごくかわいくない?」
「かわいいです!」
勢いよく頷くひよりに、百は満足げに二本の
いきなり飼い猫の尾が二本に分かれたら、瀧宮家の人は心配しないだろうか。そうひよりが口にすると、青磁はふっと
「
「そ、そっか。良かったあ」
ほっと胸を撫で下ろす。
「百さんが猫又になれて、新しい目標が見つかって、良かった」
心底
「ずいぶん喜ぶのですね。猫又に恩を売ったって大した利益にはなりませんよ」
「うーん、恩を売るとかそういう話じゃなくって。単純に、百さんが消えずに済んで良かったなあって思うんです。しかも、猫又っていう新しい在り方も見つけられた」
「……ですが、その新しい在り方が、瀧宮リツ子を
「そうですね」
ひよりがあっさりとそれを認めたので、青磁は
「猫又になったからっておばあちゃんが
瀧宮家の飼い猫から、猫又へ。家を守るための存在に変化した百は、これから瀧宮家の人々と新しく関係を築いてゆくのだ。
「それは良いことだと、私は思います」
「やけに言い切りますね」
「えへへ。まあ、半分
呟いたひよりは、ふと疑問に思ったことを
「陰陽師と言えば、どうしてリツ子さんは、百さんのことを式神様って呼んでいたんでしょう? 陰陽師じゃないのに」
「瀧宮家は七生と面識があったからでしょう。瀧宮リツ子には、式神が見えるていどの力はありました。だから、式神は家を守護するもの、という印象があったのでしょうね」
「そうなんですね。……って青磁さん、リツ子さんと面識あったんですね!」
「まあ、ほんの一言二言言葉を
だからやけに
仕事を終えたひよりたちが
彼は青磁を見て、ぺこりと頭を下げた。
「百を楽にしてくれて、ありがとうございました。それにすごくかっこよくしてもらって」
「じゃああなたは……二本目の尻尾が見えるんですね」
頷く少年は、石蕗にも礼を言った。
「ここのところ、ばあちゃんを
「私にとってはただ働きでしたけどね」
青磁が無愛想にそう言うと、少年は少し笑った。
「あの、お名前は。
「青磁と申します。式神専門の縁切り屋ですので、あしからず」
「分かってます、青磁さん。今日はありがとうございました」
やけに大人びた口調で言うと、少年はまた頭を下げた。
〇 〇 〇
並んで洗い物をしながら、春の夕暮れに
「世の中には、土地神さまや、猫又……動物の精霊っていう存在があるんですねえ。青磁さんと会ってから初めて知りました」
「見えなければ存在しないのと同じことですからね。私と
「青磁さんは、最初から百さんが猫だって、分かってたんですか?」
「一目見れば分かります。あれは、人に愛されたから、人の形をしているいきものでした。最初から人の形に作られた式神とは由来が
「じゃあ石蕗さんを連れて行ったのは……
「ええ。ったく、ただ働きだというのに」
「そ、そこまで
すると青磁は少し顔を赤くしながら、らしからぬ大声で、
「お前が道ばたに捨てられた子犬のような目で私を見るからだ! それに、式神は
「ありゃ。……ありがとうございます」
ひよりはにっこり笑った。いかにも冷たそうな青磁という式神の、ほんとうの心が分かってきたような気がした。
無表情もつっけんどんな物言いも、
だからこそ、気になることがある。
「百さんの話聞いてたら、ちょっと泣きそうになっちゃいました。ほんとにおばあちゃんに会いたかったんだなあって」
ひよりはちらりと横目で青磁を見る。
「青磁さんも、ひいおじいちゃんに会いたいですか」
「馬鹿な質問を。会いたいに決まっています。会って、よくもまあ私をあんな暗くて
ですが、と青磁は素っ気なく言う。
「その機会は二度とありません。七生は死にました。本来なら道連れになるはずの私を、
ひよりはその横顔を見る。どんなに取り
かける言葉を必死に探してみるけれど、ひよりのつたない言葉では、きっと青磁の悲しみをすくい上げることはできない。彼の悲しみを
その
「別に今の
それに、と青磁は独り言のように言う。
「新しい居場所があることは良いことだ、と言い切ったのはお前ですから」
「ほんとう……ですか? 少しでも青磁さんの役に立てているなら、良いんですけど」
「たまには陰陽師以外の人種と接するのも悪くないですね。何しろ生き馬の目を
「損得勘定……ですか」
「はい。お前は
青磁はひよりの反応を予測する。照れるだろうか、それとも上ずった声で、そんなことはないと言うだろうか。
けれど、予想に反して、ひよりは困ったように笑うだけだった。
「青磁さん、一つ誤解があります。あのね、私って、そんなに
「どういうことですか」
「聖人君子じゃないってことです。それどころか、むしろ」
「むしろ?」
損得勘定を考えないとか、善良とか。ひよりはそんな人間ではない。
そんな人間だったら、
でも、そうじゃないから、今ここにいる。
「……むしろ、それとは正反対の、ただの
「そうですか。私にはそう見えますけどね」
「そんな、ことは……」
二人の間に
それを
「紅茶、飲みます?」
「……頂きます」
ひよりは
あやかし専門縁切り屋 鏡の守り手とすずめの式神 雨宮いろり/角川ビーンズ文庫 @beans
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