二章

「ただぁーいまー……」

 ろうかんただよあいさつをしながら、青いトルコタイルをめたげんかんくついでいると、家の中からいつもと少しちがう気配を感じた。

 花に似たかおりも漂っている。青磁が始めた、えんり屋とやらの客だろうか。


 果たして居間のすぐ横の部屋には、正座している青磁と、その前に座る二人の少女の姿があった。

 彼女たちは長いくろかみを白い紙で留め、ブレザーの制服をまとっていた。見覚えがないから、この辺りの学校ではないのだろう。白い靴下の足裏にはみ一つなく、それが二人のちようめんな性格をうかがわせた。

 特に会話に交ざるつもりはなかったのだが、青磁が、

「あれが私のあるじです」

 としようかいするので、ひよりは室内に入ってぺこりと頭を下げた。

 二人の少女は目をかがやかせ、

「あなた様が、こちらの式神のご主人様でいらっしゃるのですね!」

「いらっしゃるのですね!」

 美しいユニゾン。ひよりは慌てて、青磁の横に正座する。

 強い意志を感じさせる太いまゆ。きりりと引き結ばれた薄いくちびる。ふっくらと丸いほおが、きんちようのためかほんのわずか赤らんでいて、かわいらしい。

 同じ顔が二つ並んでいる様は、どこかひな人形のような印象をあたえた。

「私たちはせきまいと申しまする。小関家に名を連ねるおんみようはしくれなれば、どうぞお見知りおきのほどを」

「お見知りおきのほどを」

 ふたはちんまりとした指をたたみについて、深々とおをした。かえってひよりの方が慌ててしまう。

「しかしあなた様の式神はご立派ですね。人型をしていらっしゃるし、特別な術を使わずとも、常人に見えるほど格が高い。何より縁切りというらしい権能をお持ちだ。代々伝わる式神なのですか?」

「そ、そのようです……」

うらやましい。私たちも早くあなた様の式神のような、能力の高い式神を持ちたいものです!」

 めちぎられて、まんざらでもなさそうな青磁が、今までの会話を簡単に説明してくれた。

「用件は既に二人から聞いています。なんでも、式神を取り違えてしまったのだそうで」

「取り違えた?」

「そうなのです。未熟者ゆえ、はじも知らずにつまびらかにお話しさせていただきますが、先日私たちは、この赤べこを式神とすべく、術式を展開しました」

 そう言って二人はふところから、小さな赤べこの人形を取り出す。

 畳の上でゆらん、ゆらんと首をらして存在感を示す赤べこ。

 だが片方の赤べこは真っ白だった。

「赤べこという名ですが、片方は白いものにしました。妹は白を好みますので」

「姉の式神と並べると、紅白の取り合わせが、何とも言えずおめでたいでしょう」

「ですが、私は赤色がいい」

「そして、私は白色がいい」

「だというのに、私が白べこの主となってしまっている!」

「とくれば私も、赤べこの主になってしまっているということ!」

「これではだめです。いけません。私は赤、妹は白、これは絶対の決まりなのです」

「決まりを破ってしまっては小関家の将来にもかかわる。……しかし、未熟者の術ゆえか、けいやくを解除しようと思ってもできず」

「ゆえに縁切り屋の青磁殿どのに、縁切りをお願いしようと思った所存であります」

 たたみかけるような姉妹の言葉を、けんめいに頭の中で整理するひより。

「えっと……主は違うけど、並べれば同じ紅白だからいいよね、っていうかいしやくとかは」

「ありえません! 私は赤がよいのです!」

「そして私は白が!」

「は、はいっ! すみません!」

「しかしざんしんなご意見、感謝します。おつしやる通り、並べれば紅白になることに変わりはない」

「どうやらあなた様は、木よりも森を見、全体の調和を重んじる方のようだ。私たちも早くその域に達したいものです」

 どうやらこの姉妹は、青磁とその主であるひよりを、じやつかんあこがれの目で見ているふしがある。青磁の力は本物だろうが、ひよりは主としては無能もいいところ。

 そもそも、陰陽師だの式神だのという言葉を知ったのだって、つい最近のことなのだ。

 だから、縁切り屋を手伝うとは言ったものの、どうすれば青磁の助けになるのか──というよりもはや、どう反応すれば青磁にめいわくをかけないのか、かいもく見当がつかない。

 その状態を見かねたのだろう、青磁が会話を先導してくれた。

「陰陽師が式神を従えるには、三つのやり方があります。一つ目は、もともといるせいれいやあやかしを調ちようぶくし、おのれの指示に従うよう契約を結ぶ方法。そして二つ目は、しよくばいを元として、一から式神を作り上げる方法。三つ目は、すでに調伏された式神を買い取り、契約を結ぶ方法」

「ふむふむ」

「彼女たちは二つ目──一から式神を作り上げる方法を選びました。赤べこと白べこで式神を作る。だがそこで、取り違えが発生してしまった」

「それが解除できないから、青磁さんが縁を切って、いったん仕切り直しにするってことですね。理解しました」

「よろしい。では仕事にかかりましょう」

 そう宣言した青磁が懐に手を入れた。

 出てきたのは小さな糸切りばさみ。和裁に使う、今ではあまりお目にかかれないしろものだ。

 持ち手のところに小さなすずわえ付けられていて、りん、とかすかな音を立てる。

ち切ることこそ我が力。しき縁、悪きものをつなすべてをいつせんのもとにふくし、かいとうらんに縁を切る」

 糸切りばさみがぐんと大きくなった。さきが青磁のかたに届くまでにきよだい化したそれからは、何か神聖な、しんの気配が漂っている。

 あれにれれば、切られてしまう──。

 氷山のするどさ、絶海のさにも似て、たやすくがんに連れて行かれそうな気配が、そのはさみにはあった。

 小関姉妹もそれを感じ取ったのだろう。ハッと息をむ音がシンクロした。

「やはり、すさまじい権能です」

「しかしあれほどのりよくがあるのなら、私たちの式神なぞ、たやすくき飛んでしまわないでしょうか?」

 ちっぽけな赤べこと白べこも、心なしか首をひっきりなしに上下させて、うろたえている(ように見える)。

「その縁を見せよ。式神よ」

 青磁の言葉に応じ、赤べこたちの背中から細い糸がゆるりと現れる。それはぱらいのようにぐねぐねと揺らぎながら、小関姉妹の手に吸い込まれていった。

 姉が白べこ、妹が赤べこに繋がっているはずだが、何しろ同じ顔なので分からない。

 ただ、会話を主導していた方に白べこの糸が繋がっていたので、おそらく双子の説明通りの状態になっているのだろう。

 青磁はそれをいちべつすると、糸切りばさみをぐるんと回し、その切っ先を赤い糸に近づけた。ぎらりと光る刃先に、ひよりは思わずさけんでしまう。

「あっ青磁さん、畳取りえたばかりだそうなので、傷つけないように気をつけていただけるとありがたいです!」

 式神は、のんきな主をきろりとにらんだ。

「畳の心配とは、大物ですね」

 そうして青磁は、しゃきん、と音を立てて糸を切った。

 はらりと落ちるえんの糸。

 赤べこと白べこはがくりとこうべを垂らしたきり、動かなくなってしまった。

 青磁はその糸の先を持つと、双子にわたした。糸を交差させ、姉に赤べこが、妹に白べこが行くようにする。

「縁切り屋再開第一号のお客様、ということで──。こちらはおまけです」

 赤い糸がじわじわと姉妹の体に染み込んでゆく。

 その温かな光に、ひよりはほうっとみとれた。

「あ……。私たちの、式神が!」

「姉さまは赤に、私は白に、繋がりました!」

 赤べこと白べこが、元通りこっくりこっくり首を動かし始めた。

うれしゅうございますな』

『ええ、とても』

 その声は赤べこたちから聞こえてきたようだった。姉妹はかんせいを上げて、それぞれの式神を手のひらにき上げる。

『この色がいい、と言って下さるあるじはそういない』

『わざわざ縁切り屋まで足を運び、縁を結び直そうとされる主も、なかなかおりませんぞ』

がたい主じゃ』

『ああ。われら式神、お二方に末永くお仕えいたしまする』

「ええ、私たちも」

「一層しゆぎようはげみましょう!」

 赤べこたちも、小関姉妹も、嬉しそうにたがいを見つめている。

 その様にひよりも思わず嬉しくなって、はさみを懐にしまいこんでいる青磁の横に立った。

「すごいですね青磁さん! あのはさみ、大きくなったり小さくなったりして、それで縁の糸をぷつんって! すごいすごい!」

「五歳児のような感想、どうもありがとうございます」

 と言いつつ、青磁もまんざらではなさそうに、喜ぶ少女たちを見つめている。

「青磁さんは、縁を繋ぐこともできるんですか」

「いいえ。あれは切ってすぐだったことと、次の主が確定していたからできたことです。私ほどの力を持つ式神であれば、だれでもできると思いますよ」

「そうですか? やさしくないと、できないですよ」

「……再開してすぐのお客様だから、少し手厚くもてなしただけです。他意はない」

 ひよりはにまにま笑いながら、青磁の顔をのぞき込もうとする。ひょい、とかわされるのを、すかさず回り込んでみる。

 いつも通りの無表情ではある。けれどひよりの目は、青磁の白い耳が、ほんのわずか赤らんでいるのをのがさない。

 いきなりひよりの前に現れた式神、青磁。

 かつてそうに仕えていて、どくぜつで、大きなはさみを自在にあやつる式神。

 その中身は──案外人情味あふれるものなのかもしれない。

「青磁さんは、いいひとですね」

 そう言ってひよりはにんまり笑った。

「おつかれ様の紅茶をれましょう」


 青磁はどこか手持ちな様子で、テーブルの上に広げられた食器を見ている。

 ひよりはゆったりとした手つきで茶葉をすくい、大きなポットの中に二はい入れる。そして高い位置から勢いよく電気ケトルのお湯を注いだ。

 小関姉妹は既に帰っていて、居間にいるのは青磁とひよりだけだ。時刻は八時で、ティータイムというよりは夕飯時に近い。

「……あの、別に私は」

「まあまあ。私、色々とどんくさいんですが、紅茶を淹れるのだけはめられるんです」

 ポットの上に、真っ赤なティーコゼーをかぶせると、優美な手つきで砂時計をひっくり返す。白くて小さいひな人形のような指先が、今だけはよどみなくなめらかに動いている。

 白磁のシンプルなカップには、なみなみとお湯が注がれていた。シュガーポットもミルクピッチャーも、そろいの青いアラベスク模様が入っていて、ひよりの手にんでいる。

「なるほど。道具たちも慣れていますね」

「慣れている?」

「お前の次の動きを待っています。訓練された犬のようだ」

 ふふっと笑ってひよりは、砂時計をじっと見つめる。青磁もまた落ちてゆく金色の砂に視線を合わせた。

 時間は不可逆だ。もどらない。戻れない。七生のいたころには。

 青磁は顔を上げる。ひよりは過ぎる時間をいつくしむように、ティーコゼーの微かなほつれを指先でいじっている。ふさふさと生えたまつ毛が、まろいほおに微かなかげを落としていた。

「紅茶を淹れたり、何かんだり、ちやしぶを取るために、コップをひようはくざいけたりしてるときが好きなんですよね、私」

「お前はぼーっとするのが上手うまいですからね」

「青磁さんはぼーっとするのが下手へたそうですよね」

「……下手で悪いか」

「いえいえ。私が上手いからだいじようですよ」

 砂時計が落ちきった。ひよりはカップの湯を捨て、茶こしの上から紅茶を注ぎ入れた。

 がねいろたたえたカップが、そっと青磁の前に差し出される。砂糖もミルクも入れずに、青磁はそのカップを手に取る。

「よいかおりです」

「フレンチアールグレイ、っていうんですって。かんきつ系のいいにおいがしますよね。味もそんなに渋くなくて、何杯でも飲めちゃう」

 うっとりと目を細めるひよりに対し、青磁は微かにまゆを寄せる。主に気づかれない程度のその表情は、いつしゆんのちにすぐ無へと戻った。

 そのすきを見計らって、ひよりはこの間から気になっていたことを言ってみた。

「ところで青磁さん。私も、おんみようとして修行というのをしてみたいんですが!」

 鼻息あらく言うひよりに、青磁は白けた視線を送る。

「何ですか、さっきの姉妹に感化されましたか」

「はいっ。私が何かしなくても良いってことは分かってるんですけど、せめて青磁さんの足を引っ張らないくらいの知識は身に付けたく! 参考になる本とかありますか!」

「ない」

 青磁はにべもなく言い放つ。

「才能がないんだから、陰陽師のごとなどめておきなさい。お前は私の主としていればいいと前から言っているでしょう」

「で、でも、せめて主としてずかしくないくらいの知識は」

「お前が陰陽師として表に出ることはないのですから、はじをかくこともありません」

「じゃあ、ひいおじいちゃんが何か書き残しているものとかを参考に……」

「くどい」

 ぴしゃりと言われて、ひよりは縮み上がる。

 その様子に、青磁は言い過ぎたことに気づく。はあ、とため息をついて、

「……その気持ちだけ受け取っておきます。さあ、そろそろ夕食のたくを始めましょう」

 と、なつとくいかない様子のひよりを立ち上がらせるのだった。


 さて、どうやらえんり屋というのは、ゆいいつの仕事らしい。競合相手がいない、とでも言おうか。青磁がどくせんしている状態で、そのために客がえずやって来た。

 内容は様々だが、術をちがえて式神とのけいやく状態がからみ合ってしまったので、それを無効にしてほしいというらいが多かった。青磁に言わせれば『技術的なあやまちのしりぬぐい』だ。

「昨今の陰陽師はうでが落ちましたね。昔ならばあんな初歩的な誤りはしなかった。この業界の先行きがあやぶまれるというものです!」

 ふんまんやるかたない様子の青磁をなだめつつ、夕飯の準備をする。主ぎようも楽ではない。

「ま、まあまあ……。今日は新たまねぎのポタージュにしますから、げん直してください」

 そう言いながら、刻んだたまねぎとバジル、セロリをミキサーに入れてスイッチを押す。

 ミキサーのけたたましい音がキッチン中にこだました瞬間。

「っ、敵か!」

「うわあ青磁さん何するんですかー!」

 稼働し始めたばかりのミキサーを、青磁の手刀がいつせんする。ひよりお気に入りのミキサーは、式神パワーで真っ二つになり、その中身を無残にさらけ出していた。

 青磁は目を見開いてミキサーを指さす。

「ものすごい音がしましたよこれ!?」

「そ、そういうものなんですよミキサーは! わああ大変、青磁さんゆかいて下さい床」

 半分ほどは救出できたが、半分ほどはせいになってしまった。新たまねぎは甘くておいしいのに。食材をにするのが何よりつらいひよりは、ひっそりかたを落とす。

「あのですね青磁さん、台所にあるものは基本的に無害ですから、そこまで反応してもらわなくても大丈夫だと思います……」

「ま、万が一ということもあるでしょう。くりやというところは、毒を盛られる可能性がある危険な場所なんですからね」

 大げさに反応しすぎたのが恥ずかしかったのか、ました顔で言う青磁の耳は、少しだけ赤く染まっている。

 だからひよりは「この間もパクチーを毒だと間違えてゴミ箱にダンクシュートしてましたよね」とは言わないでおいた。あるじとしての、ほんの優しさである。


 こんな日々を共にしてゆくうちに、青磁という存在に慣れてきた。

 けれど、じようきようすべて受け入れられているわけではなかった。いくら何もしなくて良いとは言え、あっさりと陰陽師になったことや、青磁、石蕗のような存在があることについて、疑問がないわけではない。

 どうして青磁はあんなに閉じ込められていたんだろう、とか。

 あの大きなはさみ──まるで神さまの持ち物のような気配を放っていたあれは、いったいどこから来たのだろう、とか。

 自分は陰陽師として、主として、どれだけ青磁を助けられるのだろう、とか。


「うーん……」

 授業中ずっとそのことを考えていたひよりは、放課後になっていることに気づかなかった。

「野見山さん」

「ネットで調べても分かるようなことじゃないもんね。石蕗さんに聞いてみる、とか?」

「野見山さんってば」

「ん? わあっ、す、すぎやまさん」

 ひよりに話しかけていたのは、杉山というとなりの席の生徒だった。緑色の眼鏡がトレードマークで、委員長という役職がとてもよく似合う。めんどうがよく、だれとでも楽しそうに話しているところをよく見かけた。

 転校生の面倒を見ろとでも言われているのだろう。小夜子はよくひよりに話しかけてきたが、それは事務的な内容にとどまるものだった。

 それでもひよりにとっては、貴重な話し相手である。

「読書ノート、まとめて私が持ってくんだけどさ。野見山さんまだ提出してないよね?」

「あっ、ご、ごめん……!」

 ひよりはあわててかばんの中からノートを引っ張り出し、小夜子にわたした。

「サンキュ」

「あ……ノート、いっぱいある? 良ければ半分持とうか」

 きようたくの上のノートは、一人で運ぶには少し多すぎるように思えて、そう言ってみる。

 断られるかも、と身構えるひよりだったが、小夜子はにこっと笑って、

「ほんと? そうしてもらえると助かる! やー、気がくわ野見山さん」

 と申し出を受け入れてくれた。

 ひよりはノートの半分をかかえ、小夜子と共に職員室へ向かう。

「てか、何であんなになやんでたの」

「うーん……。気になること? っていうか、知りたいことがあって」

「何の?」

「えっと、最近仲良くなった人の、個人情報?」

「へー、それって男の子? あっ彼氏とか?」

 式神です、と言えるはずもなく、ひよりはもごもごと口の中でごまかす。

 けれど小夜子のついきゆうゆるまない。彼女はずばりと言い切った。

「彼氏でしょ。彼氏がちょっと心変わりしちゃってて、気になる……とか?」

「そ、そういうんじゃないよ。でも、私のことどう思ってるかは、ちょっと気になるかな」

 そう言うと、小夜子はあっさり言った。

「本人に聞いたら? そういうのってさ、外野がごちゃごちゃ言うより、本人にかくにんしたらあっさり分かったりするもんだよ」

「……そっか! 聞いちゃえばいいのか」

 悩んでいても分からない。青磁本人に聞くのが、確かに一番楽だろう。

 どうしてそんな簡単なことに思い当たらなかったのか、今にして思えばなぞである。

「そうだね、ありがと杉山さん」

「どーいたしまして。小夜子でいいよ。私も適当に、ひよりんって呼ぶし」

 快活に笑う小夜子に、ひよりはおずおずとみを返した。

 今度は上手うまくやっていけるかもという希望が、ひよりの胸の中にそっとともった。


 帰宅したひよりは、小夜子のアドバイス通り、青磁に色々聞いてみようと意気込んでいたが、かんじんの式神の姿はなかった。

 書置きによると、別の県まで縁切り屋の仕事をしに遠出しているらしい。今晩はおそくなるそうだ。

 のんき者の悲しいさがで、やる気が持続しない。色々聞くぞと身構えていたのに、青磁の不在で、ひよりはすっかり炭酸のけたジュースのようになってしまった。

 一人きりの夕飯は、野見山家特製オムライスにした。牛ひき肉だけで作る簡単なケチャップライスに、冷蔵庫の残り野菜を刻んで混ぜたオムレツをせるという、ちょっぴりずぼらなメニューだ。

 それを平らげてしまうと、もうすることがなくなってしまう。一人だとやっぱり手持ちだ。

「まだ早いけど、ちゃおうかな」

 ひよりのしんしつは、居間に近い八じようほどの部屋だった。ちようめんに制服がかけられ、少ない私物もきちんと整えられている。


 新生活のつかれもあったのだろう。ベッドにもぐりこんだひよりは、すぐにうつらうつらし始めたが──。

 ねむりに半ばひたった耳が、小さな足音を拾う。しのび足のつもりだったのだろうが、野見山家のろうは古くて歩くときゅうきゅう鳴るのだ。

 青磁ならこんなに足音を殺さない。たんに頭がかくせいする。

 こみあげてくるきようを飲み下し、高鳴る心臓の音をどこか他人ひとごとのように聞きながら、ひよりはゆっくりと起き上がる。

 そのしゆんかん

 寝室のふすまがさっと開き、視界のはしでぎらりと何かが光る。それが何なのか考えるより前に、金色の光を帯びたそれが急接近してくる。

「あ──」

 敵意のない光だと思ったせつ、ひよりの体をき寄せる強いうでを感じた。

 誰かがチッと舌打ちする音が聞こえる。と同時に、光がさっと遠ざかってゆく。

「誰だ! 顔を見せよ!」

 青磁の声がすぐ上からひびいてくる。ならば、後ろから自分をしっかりと抱いてはなさないこの腕は。

 ぱっと明かりがつく。青磁の巻き起こした風は、明かりのスイッチを入れるついでに、げようとしたしんにゆう者の足元にからみついた。

「ぷぎゃ!」

 ねこのくしゃみのような声を上げて、部屋の真ん中で転んだ少女は、こげ茶色のふわふわとしたかみをしていた。

 青磁はひよりのベッドの上でひざちになり、自分のあるじいだいている。

「青磁さん!」

「遅くなってすみません。間に合って良かった」

 その声ににじあんは本物だ。青磁の存在に元気づけられたひよりは、ぶすっとした表情でこちらをにらみつけてくる少女に視線を移した。

 十代前半ほどだろうか。金色に近いとび色の目が、活発な印象をあたえる。

 髪をわえた赤いリボンをひょこんとらし、少女はさけんだ。

「あたしのえんりをやってほしいの!」

「なら深夜に窓から入るな、私の主をおそうな」

「襲ってなんかない! ただちょっと声をかけようか迷ってただけ!」

「どうだか。結界をえられた以上、悪意があったわけではないようですが」

 耳慣れない言葉にひよりが首をかしげる。

「結界ですか? うちにそんなものありましたっけ」

「私が作りました。商売をやるからには、防犯もしっかりしなければ」

「色々と考えているんですねえ」

「お前が考えなさすぎなだけです。今までよくそれで生き延びられましたね」

「悪運と体力には自信がありますからね!」

 むんっ、とこぶしを作ってみせるひより。と、それをあきれたように見下ろす青磁。

 ちんみような主と式神を見て、少女はまゆをひそめた。

「こら、ちょっと、あたしの話を聞きなさいよね!? こっちはこんなに困ってるんだから、だって、ばあちゃんが死んでから、家から少し離れた場所までしか行けてないの! このままじゃしようめつしちゃうんだから!」

 少女はいつの間にか立ち上がって、だんんでおこっている。髪の毛が逆立って、赤いスカートがぶわりと揺れた。

 少しどきっとするようなだが、青磁はそよ風でもいているような顔で、

「不法侵入しておいて、話を聞けとは。しつけのなっていないやつだ」

「でも、話くらいは聞いてあげましょうよ、青磁さん」

「は? 鹿ですかお前、ぜん事業じゃないんですよ。何が悲しくて夜中に侵入してきた奴の話を聞いてやらねばならないのか」

「そ、そうかもですけど! 消滅しちゃうって言ってますし」

 消滅とはおだやかではない。こんなに愛らしい少女の存在がかかっているというのに、青磁はそのらいを断ろうとしているのだろうか。

「青磁さん、ここで彼女の話を無視したら、彼女はいなくなっちゃうかもしれないんですよ? 話だけでも聞いてみましょうよ、ね?」

 そう青磁にうつたえると、彼は苦々しい顔で少女を睨んでいた。

 と、めていた息をはあっといて一言。

「……分かりました」

 そうしてひよりを腕の中から解放し、部屋の真ん中で立っている少女に向き直る。

「事情を話しなさい。縁切りできるかどうかは、それから判断します」

「うん、うん! あのねあたしね、たきみやのおうちの式神なの。それでね、ばあちゃんが死んじゃってから、どこにも行けなくなったの! ここに来るのが精いっぱいって感じ?」

 それでねそれでね、と少女はいとけない口調で続ける。

「きっとそれってあたしの縁が複雑に絡み合っちゃってるからだと思うの。そういうことって、たまにあるんでしょ? だからその縁を切ってもらいたいの! そしたらあたし、どこへでも行けるし、自由になれるでしょ!」

 青磁はじっと少女の顔を見つめている。

「……あなたの望みは、家から出ることでしょうか」

「うん! なるべく早くね、そうじゃないと消滅しちゃうから!」

「分かりました。ではあなたの家に行ってみましょう」

「えっ? ってことは、縁切りをやってくれるってことね!? なんだもう、そうならそうと言いなさいよ、もったいぶってないで!」

 先ほどまでのげんうそのように、にっこりと晴れやかなみをかべる少女。

 猫のようなしゆんびんさで部屋を出て行こうとする彼女の背中に、青磁が冷たく言葉を投げる。

「ただしそれは今日ではない。──今週土曜日にあなたの家に行きます」

「ええー!? 今すぐじゃないの?」

「縁切りにも時流というものがあります。今はその時ではない」

 にべもなく言い放つ青磁に、少女も言葉を詰まらせる。

「……っ、分かったわよ。今週土曜ね、絶対よ。ちゃんと来なかったらのろってやる!」

 そう言うと少女はかろやかな足音を立て、部屋を出ようとする。だが急に思い出したようにくるりとり返るなり、ひよりに名乗りを上げた。

「あ、言い忘れてた。あたしはもも。ばあちゃんの専属式神! ……厳密に言えば、元・専属式神だけど」

「かわいらしいお名前ですね」

 思ったことを口にすると、百は満足そうに、にっこり笑って言った。

「あたしもそう思う!」

 中庭の引き戸が開き、勢いよく閉じられる音が聞こえた。すごい場所から出て行くんだなあ、とひよりはぼんやり思った。

 はあ、と青磁のこれ見よがしなため息。

「あまりただ働きはしたくないのですが、仕方がない。どうやら私の主は、私のことをれいこく無比な式神だと思っているようですからね」

「そ、そんなことはないですけど」

 ちょっぴり図星だ。顔に出ていないといいがと思いつつ、ひよりは、頭のどこかで何かが引っかかっていることに気づいた。

 瀧宮のお家。そうだ、あの百という子は、瀧宮家から来たと言った。

「あれ? 瀧宮家の、おばあちゃん?」

 ひよりは二週間ほど前に回ってきた回覧板を思い出す。春のもよおしのお知らせとは別に、素っ気なく回ってきたその紙には、黒いふちりがされていて。

『瀧宮リツ殿どの ごせいきよのごれんらく

 瀧宮リツ子殿 八十九歳 三月二十九日にえいみんされました』

 書かれていた文言を思い出したひよりは、首を傾げながら、

「瀧宮さんにも、式神がいたんですねえ」

「……」

 青磁は答えず、おもしろくなさそうに少女が去った方を見つめている。

つう、主が死んだら式神とのけいやくは切れるものなんですがね」

 そうつぶやいた青磁は、すっくと立ち上がると、部屋を出ようとする。

明日あしたの朝のこんだては」

「あ、えっと。焼きおにぎりのおちやけと、さわらにしようかなって。あとたまごの残りと、ひじきですかね」

「献立の栄養価はよろしいようですね。明日は私も手伝いましょう」

「ありがとうございます。あ、煮卵はレンジでチンしちゃだめですからね」

「……分かっています。早く休みなさい」

 つい先日、慣れない電子レンジで煮卵をばくはつさせた苦い経験のある青磁は、少しばかり照れくさそうに部屋を出て行った。


    〇 〇 〇


 そうしてどうにか平日を乗り切り、ほうほうのていで家に帰り着いたひよりは、金曜日のうれしさをみしめながら、買ってきたものを冷蔵庫に詰めていた。

「そういえば、明日瀧宮さん家の式神に会いに行くんですよね。それ、私もついて行ってもいいですか?」

「そう言うだろうと思って、お前が休みの土曜日を指定したのです」

「あ、そうなんですね。ありがとうございます」

 青磁は最初、百のえんりをしぶっていた。それを押し通したのはひよりである。ならば、せめてそれを見届けなければ。

「ちょうどいい。また石蕗が来るので、土産みやげ物を用意したかったのです」

「この間のたけのこご飯みたいな? そうですね、今日買ってきた材料はサーモンパイ用なんですけれど、それでもいいですか?」

「なんでも食べますよ、あれはあくじきですから」

 そう言って青磁は、たなからフライパンを取り出しながら、

「学校はどうですか。勉学にはげんでいるのですか」

「はい、まあ、そこそこに」

だいじようですか? お前はどこか間のけたところがあるから、心配です。友人はちゃんとできましたか?」

 友人。その言葉で反射的に、小夜子の顔を思い出す。

 けれど同時に、彼女を友人と思うのはおこがましいだろうと思う。

 ひよりはふっと笑って、静かにうなずく。

「大丈夫です。ちゃんとやってますよ」

 そのこわいろはどこかき放すようにひびく。よそ行きの、本音が見えないよう何重にも包まれたかのような、見慣れぬ表情がひよりの顔に表れた。

 ひよりに学校のことをたずねると、いつもこういう顔をすることに、青磁は気づき始めていた。

 彼女が青磁に決して見せない一面。それをてきし、り下げることは、式神として正しいことなのか。青磁には分からなかった。

「……そうですか。なら、良いんですけど」

 それ以上はみ込まず、青磁はそっと視線をらした。


 翌日、ひよりが卵をでていると、勝手口からひょっこり石蕗が現れた。この間見かけた時と同じで立ちだ。だとすればさぞや衆目を集めたことだろう。

「ありゃ、土地神さまがそんな場所から来るなんて」

「俺くらいにもなれば、どこから入っても様になるからな。美味うまい飯をたのむぞ」

 そう言って石蕗はふらりと台所を出た。

「おい青磁。今日の飯も美味そうだぞ」

「あなたはどうしてここにいるのです。現地集合と言ったでしょう」

「君たちが住んでいる家を見てみたくて。風通しのいい家だな。古いがよく手入れされている。ごこがいい」

「ひよりがきちんとそうをしていますから。もっとも平日は、帰ってくると勉強ばかりのようですが」

「学生なんだろう? 大変だな」

 石蕗は、ひよりが居間のすみに積んでいた参考書をぺらぺらとめくり、やがて興味を失ったようにゆかほうった。

 代わりに、新しいかんきようぎまわる動物のように、部屋をぐるりと見回した。

「しかしまあ、悪くはないあるじだ。空気が良い。たたずまいも良い。のんきすぎるきらいはあるが、お前がせっかちすぎるのを考えればちょうど良いだろう」

「なんですか。ずいぶんと持ち上げますね」

「まあな。気に入っているんだ。何とも言えず図太そうじゃないか?」

「図太い……。まあ、せんさいではなさそうです。何があってもぐーぐーいびきをかいてていますし、家にどんな式神が来ても顔色一つ変えない」

「あはは、いちいちおびえられるよりはいいじゃないか。主というのはどっしりと構えていなければな」

 そう言って石蕗は、ぎよう悪くあぐらをかくと、青磁のお茶を横取りして飲んだ。

 やがて台所の方から、パイの焼けるこうばしいにおいがただよってくる。サーモンの美味おいしそうなにおいに石蕗が舌なめずりしていると、ひよりがフライ返しを持ったまま現れた。

「お昼、ここで食べて行きますか」

「もちろん。ピクニックには少し天気が悪いからな」

「はーい。今用意しますね」

 そう言ってひよりは、だんののろのろとした動きからは想像もつかないほど手早く、居間のローテーブルに皿を並べてゆく。

 型から出された香ばしいパイ、あっさりとしたコンソメスープに、トマトサラダがずらりと並ぶのを見、石蕗はいそいそと席についた。

 どうやら今日は、おなかからぞぶりと食べる神様の作法ではなく、食器を用いた人間の作法で食べる気らしい。

 ひよりが人数分のカトラリーを用意すると、石蕗は少し不思議そうに青磁を見た。

「……ああ、そういうことか」

「やかましいですよ石蕗。口を閉じていなさい」

「はいはい。さて、いただこうか」

 さっくりと切り分けられたパイの断面から、ほわりと立ち上るサーモンのかおり。

「うん、美味い! しかし君は料理が上手うまいな。ぎわも良いし、どこで覚えたんだ?」

 そう言うとひよりはしようしながら、

「実は私のお母さん、料理があんまり得意じゃなくって……。生煮えだったりみようなアレンジを加えたりするので、三年くらい前から、私がご飯を作ることになったんです」

「なるほど。食い意地が張っているゆえに、まずい飯にまんならなかったというわけか」

 ぽつぽつと皿をつつくだけの青磁とは異なり、石蕗の食欲はおうせいだった。コンソメスープをうすあじだなと言って平らげ、トマトサラダをあおくさいと言いながら完食する。

「えへへ、いっぱい食べてもらえて、嬉しいです」

「そうだろうとも! おとが手ずから作ったものを食わずして何が土地神か! それにこれなら俺も存分に力をるえるというものだ」

「力?」

「ああ。百とかいうむすめを救うには、青磁だけでは力不足ということさ」

「やかましい男ですね。だれが力不足か。私の縁切りの力は、神たるあなたにもおとることはないと自負しています」

「まあ、縁切りの分野で言えばね」

 意味深なみをかべる石蕗は、食後のコーヒーまでゆったりと楽しんでから、青磁にせっつかれて、ようやく野見山家を出発したのだった。


    〇 〇 〇


 瀧宮家は、野見山家と同じくらい広い。

 ただし野見山家よりもだいぶにぎやかだ。リツ子の五人の子どものうち、二人が住んでいる。しかもどちらも五人家族なので、いつも子どもが泣く声が聞こえていた。

「来たわね」

 門の前には百が立っている。ふふんと得意げに笑って、ひよりたちを家の中へと案内した。げんかんをからりと開けると、奥から瀧宮家の奥さん──リツ子の娘が出てきた。

「まあ、野見山さんとこのお孫さん! もしかして、母にお線香をあげに来てくれたの?」

「は、はいっ。おそくなりまして、申し訳ありません」

「いいのよ。上がってちょうだい。その後ろのお二方は、お友達かしら?」

 ひよりは青磁と石蕗を見て言い訳にきゆうする。友人というにはあまりにも顔が整いすぎていたので。

「ええっと、はい、友人です。ぞろぞろとすみません」

 そう、と言ってリツ子の娘はうつろに笑う。それ以上ついきゆうすることなく、三人分のスリッパを用意して、奥へよろよろと去って行った。

 少しおかしな態度だった。ひよりがしんに思っていると、石蕗がふふんと笑う。

「神なれば、このていどの目くらましはお手の物」

「石蕗さん、オレオレとかやったら百発百中ですね」

「ひより……お前の想像する悪だくみは、何というか、ささやかですねえ」

「ささやかじゃないですよ! リツ子おばあちゃんもいつしゆん引っかかりそうになって、五百万円持って行かれそうになったんですからね」

 その時は、急いでたんの中の五百万円を持って待ち合わせ場所に向かおうとするリツ子の前で、飼いねこかばんの上に毛玉をき、その後始末をしている最中に家族が帰宅して、事なきを得たそうだ。

「犯罪ですからね、オレオレ詐欺は」

「そう、ですね。前言てつかいです」

 めずらしくやり込められたかたちの青磁に、石蕗がくつくつとおもしろそうに笑った。


 三人が通された和室の、日当たりのいい場所にぶつだんはあった。

 びやくだんしらぎくの強いにおいが重なり合って、むっとする。ひよりは線香をあげ、しばし故人に思いをはせた。石蕗は興味がなさそうにとんに座っているが、青磁はやけにしんけんな顔で線香をあげていた。

 百はそれをうずうずしながら待っていて、ひよりたちが顔を上げると、待ちかねたようにぴょんとねた。

「さ、さ! 早くえんを切って、あたしをここから自由にしてよね!」

「──その前に。式神というもののおさらいをしましょうか」

 青磁の落ち着いた言葉に、百は口をとんがらせてこうした。

「えー!? 何よう、一体いつになったら……」

「式神とは、人の生み出したけんぞくのことを指す。ていぞくなものはしつぷうていどにしか身をやつせず、少し高位になるとちくしようの姿を取る。そして最も位が高いのは人間の姿をした式神です」

「つまりあたしやあんたってことね」

「いいえ。私は式神ですが、あなたはそうではありません」

 ひよりはおどろいて百を見る。

「式神じゃ、ない……?」

「し、失礼ね! あたしは式神よ、ばあちゃんとこの家を守護していた、立派な式神だわ! ていせいしなさい!」

「守護していたという点については疑っていません。ですが式神ではない。瀧宮リツ子は、式神を生み出し、あやつるだけの力を持っていなかった」

 もっと言うなら、と青磁はたんたんと言葉をぐ。

「式神とけいやくできるほどのじゆりよくの持ち主ではなかった」

 百のまなじりがぎゅうっとり上がり、かみが静電気を帯びたように逆立つ。かわいらしいさくらんぼのようなくちびるからは、一ついするどい犬歯がちらりとのぞいた。

「ばあちゃんを鹿にする気!? ならあたしもようしやしないわ」

「ではしようをお見せしましょう」

 すっくと立ち上がる青磁は、そのふところに手を入れる。

 出てきたのはあの小さな糸切りばさみ。持ち手のすずかすかに鳴る。

ち切ることこそ我が力。しき縁、悪きものをつなすべてをいつせんのもとにふくし、かいとうらんに縁を切る」

 糸切りばさみがぐんと大きくなった。

 りん、という鈴の音が、水面にできたもんのように、重なり合って広がってゆく。

「……百よ。お前の縁を見せてみよ」

 いつの間にか百の細い首筋からは、赤い糸がつんとびていた。それは水の中にたゆたうインクのように、空中をゆらりとれている。

 そのせんたんはどこにも繋がっていない。まるで飼い主のいないリードのように。

「分かるでしょう。お前の縁はどこにも繋がっていない。お前ははじめから、瀧宮リツ子の式神などではなかったのです」

「……うそ」

 百は泣きそうになりながら、自分の首筋の糸をたぐる。

「ばあちゃんがここにいないから、この先はどこにも繋がっていないのよ、それだけのことでしょ!」

「いいえ。そもそもあるじが死ねば、式神も死ぬものなのです。よほどの例外でなければね」

 主──七生が死んでもなお、ふうじられて生き延びてしまった青磁。

 望んでもいなかったのに「よほどの例外」になってしまった彼は、どこか悲しげな顔で百を見つめている。

「よほどの例外というのは、お前がどこかに封じ込められていたり、主がその力を分けあたえた場合です。ですが」

「その様子はないな。お前自身は何の加護も受けていない、無力な存在だ」

 石蕗がそう言うと、百の顔がくしゃりとゆがんだ。

「あたしは……式神じゃなかったの? ばあちゃんのことを守るために生まれてきた存在じゃなかったわけ?」

「はい」

「じゃあどうしてこの家からはなれられないの? あたしはいつもばあちゃんの行くところについて行くのよ、そういう決まりになってるんだから。なのにばあちゃんはそうってところに連れて行かれて、そのまま帰ってきてないの。むかえに行ってあげなくちゃ。ご飯も食べていないんじゃ、消えてなくなっちゃうもの。あたしの兄弟みたいに」

 その言葉にひよりははっと顔を上げた。

 百は不安げにスカートをもじもじといじりながら、

「死ぬっていうの、よく分かんないんだけど、家に帰ってこられないってことよね? だったらあたしが迎えに行ってあげなきゃいけないんだから、こんなところでじっとしていられないの」

「百さん、あなた……」

 ひよりは少しずつ気づき始めていた。

 初めて会った時、百は「このままではしようめつする」と言った。けれどそれは百自身のことではなく、火葬場から帰ってこられないリツ子のことを指していたのだ。

 それに彼女はずっと「縁を切る」と言っていたが、それはリツ子との縁ではなく、百をこの家にしばり付けている何かとの縁、を断ち切りたかったのだろう。

 百の心はずっと一つだった。

 この家から断ち切られて、ばあちゃんのもとへ飛んでいきたい。

「分かったわ、あたしが式神じゃないってんならそれでもいい。ともかく、なんでもいいからあたしの縁を切って、あたしをここから自由にして。そうじゃなきゃばあちゃんが」

「おばあちゃんは、もういません」

「そうよ。この家にはいないわ、だけど火葬場ってとこにはいるんでしょ」

「そこにもいません。この世のどこにもいないんです。百さん。あなたのばあちゃん……飼い主は、もう帰ってこないんです」

 ひよりは泣き出しそうになるのをこらえ、百の顔を見る。

「あなたは、おばあちゃんの飼い猫なんですね」

「──猫?」

 そうつぶやいた瞬間、少女の姿がするりとほどけた。

 何度かのまたたきののち、百はちんまりとした三毛猫の姿に変化していた。赤いリボンを首輪代わりに結ばれたその猫は、まあるいひとみでひよりを見上げる。

「いいわ、そうよ、あたしは猫よ。でも猫だからなに? あたし、ばあちゃんに会いたいの」

「っ、もう会えないんです。リツ子さんは死んじゃって、二度と会えない場所に行っちゃったんです。あなたの兄弟みたいに」

「消滅、しちゃったの?」

「……はい」

 百はうつむいた。そうかあ、というたよりない呟きが聞こえる。

「じゃあ、切らなきゃいけない縁なんて、ないんだね」

 猫はへへっと笑った。

「なーんだ。ばあちゃんてばおっちょこちょいよね、あたしのこと、ばあちゃんを守る式神様だねって言うんだもん。だからあたしかんちがいしちゃった。やだ……」

 声が微かにふるえている。百はねこだから泣かない。

 泣かないが、泣きたい気持ちになるときくらい、ある。

「ばあちゃんは、二度と会えないとこにいっちゃったんだね。もっかいでいいから、会いたかったなあ」

「死んだ人間には二度と会えません」

 ぴしゃりと言い放ったのは青磁だ。

 彼は小さな猫を上から見下ろして、ですが、と続ける。

「この家で式神のごとをすることはできます」

「……どういうこと?」

「お前は長年瀧宮リツ子にかわいがられ、お前もまたその人間をしたい続けた。その上、主人がだまされそうになったところを救ってみせた。そのことで半ばせいれい化しているのです」

「精霊化?」

「呪力を持つようになってきている、ということです。大事にされた猫はねこまたになり、その家を守ると言いますが、それに近い現象が起きているのです。そもそも、人の姿を取って、野見山の家まで来られた時点で、ほとんど猫又みたいなものですが」

「すごく上手にしやべれていますもんね!」

 百の場合、あまりにもリツ子に入れ込みすぎたため、その思いが彼女を瀧宮家に物理的に縛り付けているのだと青磁は言った。だから、百が家から遠く離れたくても、できなかったのだと。

「ですがこの石蕗がいれば、お前の中に芽生え始めた呪力を上手うまあやつる方法を教えてくれます。遠くへも行けますよ」

「えっと?」

 混乱する百に、石蕗が悪戯いたずらっぽく笑って言う。

「つまりだな、猫。君がかつて瀧宮リツ子にしたように、今度はこの家の人々を──リツ子がのこし、はぐくんだ人々を守ってはどうか、と言っているんだよこのいけ好かない式神は」

だれがいけ好かない武神だこの女好きの土地神め」

「女好きとはずいぶんな物言いだな。こんなにしん的な土地神もいないぞ」

「神社で猫に化ければ、若い女性にっこされやすいからおすすめだぞ、とか言って鼻の下を伸ばしていたのはどこの誰でしたっけね」

「そのていどで目くじらを立てるとは! 青磁よ、君は西洋の神話を読んだ方がいいぞ。俺なんてまだまだかわいい方だ」

「あ、あのう、百さんの話がまだ終わってませんよー……」

 百は前足でちょいちょいと顔を洗った。

「あたし、式神なんかじゃない、ただの猫だけど。猫又になったら、この家の人たちの──ばあちゃんが好きだった人たちの助けになれる?」

「なれるとも。しゆうねんぶかい猫又はいい猫又だ」

「えへ。じゃあ、なっていいかな? なれるかな?」

 うなずいた石蕗は、百の頭を三度でた。すると百の、かわいらしい三毛しつが、するんと二本に分かれた。

 ひよりは思わず声を上げる。

「わあっ! すごい、尻尾が二本になった!」

「ほんとだー! あたし、すっごくかわいくない?」

「かわいいです!」

 勢いよく頷くひよりに、百は満足げに二本のった。

 いきなり飼い猫の尾が二本に分かれたら、瀧宮家の人は心配しないだろうか。そうひよりが口にすると、青磁はふっと鹿にするようなみをかべた。

だんから二本目の尻尾を現すわけがないでしょう。普通の人間には、一本の尻尾にしか見えませんよ」

「そ、そっか。良かったあ」

 ほっと胸を撫で下ろす。

「百さんが猫又になれて、新しい目標が見つかって、良かった」

 心底うれしそうなその言葉に、青磁は不思議そうな顔をする。

「ずいぶん喜ぶのですね。猫又に恩を売ったって大した利益にはなりませんよ」

「うーん、恩を売るとかそういう話じゃなくって。単純に、百さんが消えずに済んで良かったなあって思うんです。しかも、猫又っていう新しい在り方も見つけられた」

「……ですが、その新しい在り方が、瀧宮リツ子をくした悲しみをめ合わせてくれるわけではありませんよ」

「そうですね」

 ひよりがあっさりとそれを認めたので、青磁はかたまゆを上げた。

「猫又になったからっておばあちゃんがもどってくるわけじゃないし、お別れが悲しいのは変わらないです。でも、少なくとも百さんの新しいお役目は、新しい居場所を作ってくれるでしょう?」

 瀧宮家の飼い猫から、猫又へ。家を守るための存在に変化した百は、これから瀧宮家の人々と新しく関係を築いてゆくのだ。

「それは良いことだと、私は思います」

「やけに言い切りますね」

「えへへ。まあ、半分うらやましいなって気持ちも入ってるんですけどね。私はおんみようになったって言われても、何をしたらいいか分からないままだから」

 呟いたひよりは、ふと疑問に思ったことをたずねた。

「陰陽師と言えば、どうしてリツ子さんは、百さんのことを式神様って呼んでいたんでしょう? 陰陽師じゃないのに」

「瀧宮家は七生と面識があったからでしょう。瀧宮リツ子には、式神が見えるていどの力はありました。だから、式神は家を守護するもの、という印象があったのでしょうね」

「そうなんですね。……って青磁さん、リツ子さんと面識あったんですね!」

「まあ、ほんの一言二言言葉をわしただけですけれど」

 だからやけにしんけんな顔でせんこうをあげていたのか、とひよりはなつとくした。

 仕事を終えたひよりたちがげんかんの方に向かうと、奥の方から制服姿の少年が現れた。リツ子の末の孫で、確か今年高校へ入学したと聞いた。

 彼は青磁を見て、ぺこりと頭を下げた。

「百を楽にしてくれて、ありがとうございました。それにすごくかっこよくしてもらって」

「じゃああなたは……二本目の尻尾が見えるんですね」

 頷く少年は、石蕗にも礼を言った。

「ここのところ、ばあちゃんをさがしてずっと鳴いてたんです。ほんとに、このままばあちゃんのところへ行っちゃうんじゃないかって、みんな心配してた。だけどあの子がこのまま家にいてくれるんなら、それが一番嬉しいです」

「私にとってはただ働きでしたけどね」

 青磁が無愛想にそう言うと、少年は少し笑った。

「あの、お名前は。えんり屋って言ってましたけど」

「青磁と申します。式神専門の縁切り屋ですので、あしからず」

「分かってます、青磁さん。今日はありがとうございました」

 やけに大人びた口調で言うと、少年はまた頭を下げた。


    〇 〇 〇


 並んで洗い物をしながら、春の夕暮れにしずむ竹林をながめる。入り込んでくる風は少し冷たく、青磁がそっと窓を閉めた。

「世の中には、土地神さまや、猫又……動物の精霊っていう存在があるんですねえ。青磁さんと会ってから初めて知りました」

「見えなければ存在しないのと同じことですからね。私とけいやくしたので、お前にもそういったものがはっきりと見えるようになったのでしょう」

「青磁さんは、最初から百さんが猫だって、分かってたんですか?」

「一目見れば分かります。あれは、人に愛されたから、人の形をしているいきものでした。最初から人の形に作られた式神とは由来がちがいます」

「じゃあ石蕗さんを連れて行ったのは……ねこまたにしてあげるため?」

「ええ。ったく、ただ働きだというのに」

「そ、そこまでくやしそうな顔をしなくても……。なら、どうしてわざわざそうしたんですか?」

 すると青磁は少し顔を赤くしながら、らしからぬ大声で、

「お前が道ばたに捨てられた子犬のような目で私を見るからだ! それに、式神はあるじの命令に従うものですからね」

「ありゃ。……ありがとうございます」

 ひよりはにっこり笑った。いかにも冷たそうな青磁という式神の、ほんとうの心が分かってきたような気がした。

 無表情もつっけんどんな物言いも、すべてはせんさいな本心をかくすためのものなのだ。

 だからこそ、気になることがある。

「百さんの話聞いてたら、ちょっと泣きそうになっちゃいました。ほんとにおばあちゃんに会いたかったんだなあって」

 ひよりはちらりと横目で青磁を見る。

「青磁さんも、ひいおじいちゃんに会いたいですか」

「馬鹿な質問を。会いたいに決まっています。会って、よくもまあ私をあんな暗くて湿しめってくさい場所に七十年も閉じ込めたなと問いめてやりたい」

 ですが、と青磁は素っ気なく言う。

「その機会は二度とありません。七生は死にました。本来なら道連れになるはずの私を、の中にふういんして」

 ひよりはその横顔を見る。どんなに取りつくろっても、そのせいひつな顔には、置いて行かれた者のさびしさがにじんでいた。

 かける言葉を必死に探してみるけれど、ひよりのつたない言葉では、きっと青磁の悲しみをすくい上げることはできない。彼の悲しみをいやすには至らない。

 そのまどいを察したのだろう。青磁が笑みを浮かべて見せる。

「別に今のじようきよういやというわけじゃないんですよ。井戸の中にいるよりは、お前のような主でもいてくれた方が良い。式神には、仕える主が必要ですからね」

 それに、と青磁は独り言のように言う。

「新しい居場所があることは良いことだ、と言い切ったのはお前ですから」

「ほんとう……ですか? 少しでも青磁さんの役に立てているなら、良いんですけど」

「たまには陰陽師以外の人種と接するのも悪くないですね。何しろ生き馬の目をく世界ですから、お前のように、損得かんじようを考えないで人助けしようとする人間はめずらしい」

「損得勘定……ですか」

「はい。お前はじゆんすいに、あの百という猫を助けたくて、行動したのでしょう。見返りは何もないのに。それは何というか、とても……善良で、貴重なものだと思います」

 青磁はひよりの反応を予測する。照れるだろうか、それとも上ずった声で、そんなことはないと言うだろうか。

 けれど、予想に反して、ひよりは困ったように笑うだけだった。

「青磁さん、一つ誤解があります。あのね、私って、そんなにやさしい人間じゃないんです」

「どういうことですか」

「聖人君子じゃないってことです。それどころか、むしろ」

「むしろ?」

 損得勘定を考えないとか、善良とか。ひよりはそんな人間ではない。

 そんな人間だったら、げなくて済んだはずだ。あそこにとどまってたたかえていただろう。信念を持って立ち向かえていたと思う。

 でも、そうじゃないから、今ここにいる。

「……むしろ、それとは正反対の、ただのおくびよう者なんです。だからそんなふうに言ってもらうのは、何だかもったいないみたい」

「そうですか。私にはそう見えますけどね」

「そんな、ことは……」

 二人の間にちんもくが下りる。春の夜のやみく、思い出ばかりがしっとりとかび上がるようだ。

 それをするように、ひよりは流しのすいてきをぬぐい取った。

「紅茶、飲みます?」

「……頂きます」

 ひよりはうなずいて、使い慣れたカップをだなから取り出した。

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あやかし専門縁切り屋 鏡の守り手とすずめの式神 雨宮いろり/角川ビーンズ文庫 @beans

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