神ガチャ

佐野心眼

神ガチャ


                                   



 もう後がないのはわかっていた。


 病室のベッドの上で、俺は古くなった記憶のページをめくり始めた。

 その一ページには、今でも鮮烈に刻まれた思い出があった。武蔵野の片隅で起きたこの出来事を、全てが終わる前にもう一度振り返ってみようか。



◇ ◇ ◇



 埼玉県鶴瀬の夜はすっかり涼しくなり、虫たちは競うように演奏会を楽しんでいた。一軒一軒の家からは暖かそうな薄明かりがじんわりと漏れ出して、住宅街を見渡すと地面に敷き詰めた星座のようだった。

 屋根の上でがらにもなく感慨にふけっていると、下の家の中から何かが割れる音やドスンとぶつかる音に混ざって女の悲鳴が聞こえた。


「やれやれ、また始まったか」


 家に入ると、酔った正雄が宏美の頭をつかんでいた。次はどうするのかと見ていると、今度は宏美の顔面をテーブルのへりに叩きつけた。歯の折れた口からは、よだれのような血がだらりと垂れている。


「おい死神、宏美を殺す気か!」


「何だ、疫病神やくびょうがみお前が宏美にいているからこうなるんじゃないか? しかも正雄が妻子持ちなのを知ってて宏美を近づけたのはお前だろ。立派に役目を果たしたな、はっはっは」


「最初に口説いたのは正雄の方だ。それよりあんた正雄に取り憑いてるんだろ? さっさと正雄を葬っちまえよ」


「まあ、そうあわてるな。せっかく取り憑いたクズだ、たっぷり楽しませてもらうぜ」


 取り憑いているあんたもクズだと言いかけたが、言葉をぐっと飲み込んだ。俺自身もクズだと分かっているからだ。







 正雄と宏美が同居して三年が経つ。同居後間もなく、二人の間には陽介という男児が生まれていた。赤の他人からすれば、どこにでもあるごく普通の家庭に見えていただろう。

 だが、正雄の暴力は宏美だけでなく陽介にまで及んでいた。幼児であるにもかかわらず、少しでも気に入らないことがあると腹を殴ったり背中を蹴ったりした。無論、少しでも虐待を隠蔽いんぺいするためだ。陽介が泣き止まないときは冷たいシャワーを浴びせて黙らせることもあった。あるとき陽介を投げ飛ばして腕を骨折させたこともあったが、医者には階段から転げ落ちたということにした。

 一連の懲罰ちょうばつが終わると、いずれのときも正雄の表情は満足げだった。自分の気分を害する宏美と陽介が悪いというように、“正義”の旗はいつも正雄が握っていた。

 確かに宏美の苦難は疫病神冥利につきるが、このままでは俺の宿主がいつ死んでもおかしくない。俺は宏美を殺すために取り憑いているわけではないのだ。


 そこで、俺は宏美を新たな苦難へと導くことにした。


 ある日の宵の口、夕飯の片付けを済ませた宏美は急な買い物があるという口実で独り住まいの父の所へ向かおうとしていた。

 すると陽介に取り憑いている貧乏神が俺に話しかけてきた。


「あのぉ、疫病神さん、どちらへ行かれるんでしょうか?」


じいさんの所だ」


「……陽介は、どうするんでしょうか?」


「それは俺の管轄外だよ」


「このままだと、私の宿主が必ず命を落としてしまいます。お願いですから一緒に連れて行ってもらえませんかねぇ」


「疫病神と一緒だと、この子も苦難を味わうことになるぞ。それでも構わないのなら、一緒に来ればいい」


 宏美は玄関で靴を履くと、何の気なしに振り返った。そこにはいつの間にか陽介がぽつりとたたずんでいた。ただならぬ気配を感じたのだろうか、陽介は不安そうな顔で宏美を見つめている。


 宏美は少し躊躇ためらった後、「お前も来る?」と尋ねた。


 陽介は少し考えたが、上手く考えがまとまらず、最終的に自身の直感で「うん」とうなずいた。


「貧乏神さんよ、どうやらうまくいったみたいだな」


「へへへ、ありがとうございます」







 爺さんの住まいは鶴瀬からそれほど遠くない和光わこうだった。駅から三十分ほど歩いて武蔵野台地の縁を下った所に、そのボロ家はあった。

 玄関口のドアを開けると、どこにでもいそうなごく普通の老人がいた。しばらく見ない間に随分と老けたもんだ。実際は五十代半ばなのに、外見はどう見ても七十代だ。

 その爺さんの背後には、更に老けた人の良さそうな痩せた年寄りがにっこりと微笑んでいる。奇妙なのは首にしめ縄のような首飾りが巻かれていたことだ。

 色々疑問に思うことがあって、俺は背後の老人に尋ねた。


「宏美と爺さんが絶縁になってからだいぶ経つが、あんたいつから爺さんに取り憑いているんだい?」


「何、ここ数年のことじゃ」


「以前憑いてたあの酔っ払いの痺魔神ひまじんはどうした?」


はらい清めた」


「祓った⁉︎ 神を?」


「わしはの先祖でいにしえから代々宮司をしておった。お祓いなど朝飯前じゃ。こやつを天界から眺めておると毎日働きもせず酒ばかり飲み、宮司になろうともせず、狩猟などして道楽に明け暮れ、しまいには神社まで人手に渡ってしまいよった。わしは口惜しゅうてならん」


 先祖神は怒っているように、悔やんでいるように、また悲しんでいるように眉間にしわを寄せた。

 それを聞いて、俺は背筋に冷たいものを感じた。


「……そうだったのか。俺のことは祓わないでくれよ」


「天界とは違ってな、一度人に取り憑くと力が弱まるのじゃ。こやつの命と引き換えなければ他の神を祓うことはできまい。それにおぬしは疫病神じゃが、そもそも人に苦難を与えるのが役目じゃろう。その苦難をどうするかはお主が決めることではないし、わしの務めでもない」


「それを聞いて一安心だ。ところで、その首に巻いているのは?」


「これか? これはあるものを封印しておる」


「あるもの?」


「ふふふ、あるものじゃよ」








 それから数ヶ月が経ったある日の昼下がり、宏美の居所いどころを突き止めた正雄が爺さんのボロ家にやって来た。

 正雄は宏美の名を叫びながら何度も戸を叩いた。宏美の顔は不安と恐怖でゆがんでいる。

 

「これが疫病神ってもんよ。なぁ、貧乏神」


「わ、私達は、一体どうなるんでしょう……」


 おびえた貧乏神がすがるように先祖神を見つめた。


「是非もない」


 先祖神がらすように言うと、爺さんは押し入れから猟銃を取り出して弾を込めた。そして玄関横の居間に立ってガラス戸越しに正雄の位置を確認した。玄関先にいた正雄が爺さんの存在に気付くと、正雄はふらふらと居間のガラス戸の前にいざなわれた。

 二人が真正面に対峙たいじすると、爺さんは獲物を狙うように銃を構えた。


「おい、死神! 何用じゃ‼︎」


「いやいや、そう怖い顔をしないでくださいよ。俺はただ正雄の家族を連れ戻しに来ただけですから」


「家族じゃと⁉︎ 妻子を捨てて宏美をたぶらかしおって、挙げ句の果てには暴力三昧。これ以上人を苦しめるな!」


「心を入れ替えます。誠心誠意尽くしますから、宏美を返してください」


「ならぬ!」


「お願いですから」


「帰れ!」


 そう言われると、今まで哀願していた死神の顔がふっと素に戻り、にわかに不敵な笑みを浮かべた。


「へっへっへ、ならばここでお前らを道連れにするまでよ!」


 そう言うと正雄の頭から真っ黒い煙が立ち昇り始めた。そして黒煙は見る見る大きくなり、あっという間にボロ家を飲み込んだ。やがて黒い煙は家の中まで入って来て、俺たちの視界をじ曲げるようになった。

 重苦しくまとわりつく煙を吸い込むと、突然体が重くなって一気に邪悪な感情に満たされるのを感じた。懸命に目をこらして見ると、宏美は陽介の頭をぎゅっと抱えてかばうように床にうずくまっている。貧乏神も俺も、もはや立つことができない。


 ——視界が歪む。


 ——意識が歪む。


 ——空間が歪む。


 ——波動が歪む。


 ——磁場が歪む。


 そして全てが混沌の渦に巻き込まれていく……。


 このままではみんな地獄の底に引っ張られてしまいそうだ。


 俺がもう限界だと心に思った時、先祖神は首に巻かれていた縄を引きちぎった。すると先祖神の首がにわかに大きく膨らみ始め、次第に天を仰ぎだした。やがてその首は膨張しきった風船のようになり、先祖神は堪えきれずに口を開けた。次の瞬間、三尺玉の花火が炸裂するように口から裂けて砕け散り、中から大きな赤黒い鬼神が現れた。


 

 




 あっけないほど、は一瞬で終わった。


 


 ふと気づくと黒い煙はもうどこにもなかった。視線を移すとガラス戸は粉々に破れ、その向こうには割れた柘榴ざくろのようになった正雄が倒れていた。


 その数ヶ月後、急な病を患った爺さんは戻らぬ人となった。




       ◇ ◇ ◇




「残念ですが、もうこれ以上の延命は無理です」

 そう言って形式的に一礼すると、医者は宏美から人工呼吸器を取り外した。

 最期は正雄に呼ばれたのだろうか、この病院の所在地は鶴瀬だった。


 俺が言うのも何だが、宏美は浮き沈みの多い七十二年の生涯だった。

 あの事件の後、結婚と離婚を数回繰り返しながら自分で商売を始め、精神を患いながらも何とか陽介を一人前に育て上げた。陽介が結婚して独立すると、孫にも恵まれた。

 だが、陽介の妻との折り合いが悪く、いつの間にか陽介とは疎遠になってしまった。最後の夫にも愛人ができて晩年も辛く孤独な日々を送った。


 ——ともかく宏美は立派に生き抜いたのだ。




 さて、次は誰に取り憑こうか……。
















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