第136話さるは、宮の御心あかぬところなく(4)斎院と中宮御所の女房の違いについて

斎院などやうの所にて、月をも見、花をも愛づる、ひたぶるの艶なることは、おのづからもとめ、思ひても言ふらむ。朝夕たちまじり、ゆかしげなきわたりに、ただことをも聞き寄せ、うち言ひ、もしは、をかしきことをも言ひかけられて、いらへ恥なからずすべき人なむ、世にかたくなりにたるをぞ、人びとは言ひはべるめる。みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかし。


賀茂の斎院のような場所では、月を見て、花を愛でる、そのような風流を極めることなど、全く自然に思えるでしょうし、それだから風情のある言葉も出て来ることでありましょう。

(それを感じ取っているお方が(殿上人たちか?))、朝晩出入りしているけれど、何の風流じみたこともなく、もはや見飽きてしまった内裏には、

「普段の会話でも、小耳に挟んで、こちらが面白いと思うような反応をするとか、風情のある言葉をかけたら、立派な教養ある返事ができる女房が実に少なくなった」と噂しているようです。

この私は、そんな昔のことは、見ても知ってもおりませんので、それが事実かどうか、わかりませんが。


おそらく殿上人たちは、過去の内裏(中宮定子と清少納言の時代)と、現在の(中宮彰子と紫式部の時代)と比較し、残念がっているのだと思う。

(そうでなければ、比較の対象にはならない)


才気煥発、当意即妙の清少納言と、人前に出ることを恥じてしまう紫式部の違いと言っても間違いはない。

紫式部も、それを理解していたかもしれない。

ただ、もって生まれた「ひきこもり性格」は、簡単に変わらない。

「この私は、そんな昔のことは、見ても知ってもおりませんので、それが事実かどうか、わかりませんが」と、抵抗を見せているが、ある意味「清少納言への敗北感」が、この文に見られている。


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