第14話十一日の暁に、北の御障子、二間はなちて、

(原文)

十一日の暁に、北の御障子、二間はなちて、廂に移らせたまふ。

御簾などもえかけあへねば、御几帳をおし重ねておはします。

僧正、定澄僧都、法務僧都などさぶらひて加持まゐる。

院源僧都、昨日書かせたまひし御願書に、いみじきことども書き加へて、読み上げ続けたる言の葉のあはれに尊く、頼もしげなること限りなきに、殿のうち添へて、仏念じきこえたまふほどの頼もしく、さりともとは思ひながら、いみじう悲しきに、みな人涙をえおし入れず、

 「ゆゆしう、かうな」

など、かたみに言ひながらぞ、えせきあへざりける。


※廂に移らせたまふ:道長の自筆日記「御堂関白記」による、産児を嫌うと言われる日遊神が母屋に宿ったため、緊急の措置として、北廂の間に、中宮を移された。

※僧正:雅慶僧正(道長の正妻倫子の叔父)、あるいは権僧正勝算説もある。

※定澄僧都:奈良興福寺別当権僧都定澄。

※法務僧都;「法務」は緒大寺で僧綱とは別に密教僧尼を統括する僧官。

※院源僧都:法性寺座主で後に天台座主。道長の信任が厚く、土御門殿法華三十講で講師を務めた。

※昨日書かせたまひし御願書:道長が昨日に書いた安産祈願の漢文による願文。

※「ゆゆしう」:縁起が悪い。

※「かうな」:「こうな泣きそ」の略。「こんなに涙を流してはいけません」の意味。


(舞夢訳)

11日の明け方に、御帳台の北側の襖障子を二間分取り払い、中宮様は北廂にお移りになられました。

御簾については、かけることができないので、御几帳を二十二立て直して、中宮様はその中に、おられます。

僧正、定澄僧都、法務僧都たちが、お側にお仕えして、お加持申し上げています。

院源僧都が、道長様が昨日お書きになられた願文に、さらに有難く厳かな言葉を書き加えて読み続けられます。

その言葉の一つ一つが、しみじみと気高く、心強い限りです。

それに加えて、道長様が念仏なされる様子も、実に頼もしいのです。

ここまでのご尽力と思うので、いかなる難産であったとしても、万が一のことはあるまいと思うけれど、何とも気が高ぶってしまい、全員が涙をおさえられません。

「こんな時に涙など、縁起でもありません」

「こんなに涙を流してはいけません」

と、お互いに言い合うのですが、やはり涙を抑えることが、できません。



中宮彰子のご出産を控え、数か月前からの懸命な準備。

それから、ここ数日、最高位の僧侶たちの読経、陰陽師のお祓いが続き、仕える女房達も、疲労しているし、その上で緊張も高まっている。

また密集しているので、集団心理も強くなる。

誰かが不安を感じれば、すぐに広まるし、また誰かが泣き出すと、つられて泣き出してしまう。

「縁起でもない、泣くのはよしましょう」と言い合ったところで、簡単におさまるものではない。





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