第6話しめやかなる夕暮に、

(原文)

しめやかなる夕暮に、宰相の君と二人、物語してゐたるに、殿の三位の君、簾のつま引き上げてゐたまふ。

年のほどよりはいと大人しく、心にくきさまして、

 「人はなほ心ばへこそ、難きものなめれ」

など、世の物語、しめじめとしておはするけはひ、幼しと人のあなづりきこゆるこそ悪しけれと、恥づかしげに見ゆ。

うちとけぬほどにて、

 「多かる野辺に」

とうち誦じて、立ちたまひにしさまこそ、物語にほめたる男の心地しはべりしか。

 かばかりなる事の、うち思ひ出でらるるもあり、その折はをかしきことの、過ぎぬれば忘るるもあるは、いかなるぞ。


※宰相の君:道長の異母兄道綱の娘豊子。紫式部と親しい中宮の女房。年も若く、これから生まれる中宮の子の乳母になる。

※殿の三位の君:道長の長男。藤原頼道。母は中宮彰子と同じ源倫子。この時17歳。後に宇治平等院を建立。

※多かる野辺に:古今和歌集秋歌上229から

女郎花 多かる野辺に 宿りせば あやなくあだの 名をや立ちなむ(小野美材)

女郎花が咲き乱れる野辺に宿を取るなどすれば、本当はそうではないのに、女好きで浮気者の噂が立ってしまうでしょう、の意味。(宰相の君と紫式部を美しい女郎花に見立ている。ほぼお世辞)

※物語にほめたる男:物語の中に出て来る素敵で賞賛される男性。光源氏が、その代表格。タイミングを外さず、古歌で教養やセンスを披露することは、物語世界で風雅であるとされていた。


(舞夢訳)

しっとりとして静かな夕暮れ時に、宰相の君と二人で話をしていると、殿の三位の君がお越しになられ、簾の裾を持ち上げ、局の上り口に腰をおかけになりました。

ご年齢のわりには、かなり大人びた、奥ゆかしい雰囲気で、

「やはり女性は、その性格が一番大切と思うのですが、それに問題が無い人を見つけるなど、難しいことなのでしょうね」

と、恋の話らしきことを、しっとりとお話になられるようです。

そのお姿を見ると、世間の人が「まだ子供のようで」と侮って噂をしていることが、ありえない間違いと思いますし、私も気恥ずかしくなるほどに、ご立派と思うのです。

長く無駄に居座ることもなく、さらりと

「多かる野辺に」

と口ずさんで席をお立ちになられた姿は、まるで物語で人気が出てほめられる男君のような雰囲気なのです。

このような、ささいなやり取りなのですが、後になってから、ふと思い出すこともあり、その反対に、その時は面白い、と思っていても、いつの間にか忘れてしまうことがあるのは、いったいどういうことなのでしょうか。



当時17歳の藤原頼道。

女房達の噂では「子供っぽい」「幼い」と、軽く見られていたようだ。

ただ、宰相の君と紫式部の前では、大人びて「女性論」を語り、「多かる野辺に」を口ずさんで、あっさりと立ち去る。

宰相の君と紫式部は、年下の貴公子に、「美しい女郎花」の花にたとえられて、うれしかったのかもしれない。

だから「物語にほめたる男」のように素晴らしいと、賛辞まで書き記す。













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