第56話
しばらくその場から動けなくて朝焼けが消えるまで海を眺めていたけど、さすがにお尻が痛くなって私はよっこらせと立ち上がる。ひとまず全ての持ち物を車へ運び、車の後部座席を倒して、収納部分を広げる。
そこにキーボードを寝かせて湿らせた布で丁寧に吹きあげた。鍵盤部分もクリーナーを使って丁寧に磨き、砂浜なんて場所にさらしてしまったことを心から謝った。潮風に吹かれて、今後錆びたりしないことを切に祈る。
車を発進させて宿へ戻ろうとすると、カフェしおさいの前でお兄さんが掃除をしているのが見えた。私はそのまま駐車場に車を乗り入れ、お兄さんに声をかける。
「あ、昨日の……。朝焼け見てきたんですか?」
「はい」
「
「はい、とても」
「……ふふ、今日はえらく早起きやったとですね。目が少し腫れとる。よかったら眠気覚ましにコーヒーでも飲んでいきませんか?」
「あ……はは、お恥ずかしいです。ちょうど喉も乾いたので、ぜひ」
車を降りた瞬間に私のお腹がぎゅうと鳴った。そういえば早朝から何も食べておらず、出発前に水を飲んだくらいだったことを思い出す。私の腹の虫に対してお兄さんは慈悲深い笑みを向けてくれた。
──いやはや……お恥ずかしい。
昨日と同じカウンター席に座り、コーヒーとチーズトーストを出してもらった。すっからかんのお腹に、チーズトーストがどっかりと居座ってくれたおかげかお腹もどうやら安心したらしい。よし、と言わんばかりに黙り込んだ。
「いやあ、お姉さんが生きとってよかったです」
「え?」
「こんな時期に、こんなところにやって来るなんて、もしかして自殺でもするんじゃなかかなって、あの後話しよったとですよ。僕、そのまま帰してしまったからちょっと心配で」
──それは悪いことをした。
確かに妙齢の女が特段観光シーズンでもない時期にたったひとりでこんなところへやって来れば、不審極まりない。しかし自殺というのは飛躍しすぎな気もするけど、たった一度会ったばかりの店員さん達にそこまで心配してもらえたのはちょっと嬉しい。
「私は死なないですよ。きちんと幸せに生きますって」
「そいならよかったです。死なれたら、僕達も後悔する」
お兄さんはおまけですと言いながらキャンディ型のチョコレートを三つくれた。
静かなコーヒーブレイクを楽しむ。お兄さんは開店の準備のために店内を掃除したり、窓を開けたりしている。邪魔かと思って席を立とうとしたら、「気にせんでゆっくりどうぞ」と控えめな笑みで言われたので、お言葉に甘えることにした。
そういえば先ほどの写真をSNSに投稿するのを忘れていた。夜の比率が高い空と、朝の比率が高い空、両方を撮っていたので二枚とも載せておく。いつもは私の写真も添えるところだけど、今回はスッピンだったし演奏後は泣いてしまったので何も残していない。『ご視聴ありがとうございました! 出張ライブ、またいつかやりたい』という言葉を添えて世に流す。
コーヒーを飲んでいるうちにコメントや『いいね』がどんどんついていく。スマホの画面を弾くようにしてコメントをひとつひとつ確認していくと、どれもこれも視聴者の愛に溢れるコメントばかりだ。人気が出ると心ないコメントを寄せる輩がいるという話を聞くが、私はそれほどの人気もなく、かといって閑古鳥でもないので程よく居心地のいいSNSライフを送れている。
──海、綺麗でした! どこですか?
──熱のこもった演奏に朝から泣きました。
──アーカイブで見ました! 次はもう少し遅い時間がいいです。
ふむふむ、と頷きながらコメントを読んでいく。もうこんな早朝ライブをやるつもりはない。もう私はあれ以上の朝焼けを見る気もないし、早起きは正直辛かったから。
ふと、ひとつのアイコンが目についた。桜の花びらが水面に浮いている写真のアイコンだ。この人はいつも私の投稿に『いいね』をくれるが、今日は珍しくコメントまで送ってくれている。
──
私は吸い寄せられるようにそのアイコンを押して、初めて本人のページを見てみた。いつもはアカウント名しか見ていなかったけど、名前はサクラさんというらしい。
風景から動物、植物の写真がずらりと並んでおり、プロフィールには『カメラマンです。お仕事はこちらまで』という簡素な一言にメールアドレスが添えられている。フォロワーも多いし、プロのカメラマンなのかもしれない。写真を見る限りではこの人の性別は分からないけど、おそらく文章が苦手か、もしくは多くを語らない人なのだろうと察する。
ところで、霞彩って何ぞ。こんな難しい単語は知らないので私はすぐに文明の力を借りる。どうやら朝焼けや夕焼けが空を彩ることをそう呼ぶらしい。
「お姉さんは本当にただ朝焼けを見に来ただけやったとですね」
準備を終えたお兄さんが不思議そうな顔を私に向けた。朝焼けを見に来ただけ、と問われると違うわけでもないけど、そうですとも言いたくない。
「そうですねえ、まあ……自分探しってところですかね」
「ほお。で、見つかりました?」
「うーん……まあ、とりあえず。気持ちは少しだけすっきりしましたね」
「よかった。今日はもう五島を出るんですか?」
「そうですね。夕方の船に乗る予定です」
時計を見ると、もうすぐ十一時を回ろうとしていた。せっかくここまで来たので少しドライブをしてから、福江港に行こうと考えている。長居しすぎるのも申し訳ないので、お店が混み合う前に私は店を出ることにした。
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