第55話

 翌朝、私は五時に起床する。ひとまず顔だけ洗って、財布とスマホとキーボードを持って車に乗り込む。目指すは昨日行ったあの海だ。まだ陽も昇らない真っ暗な中、車をぶっ飛ばした。頬をちくちくと刺すような冷たい空気で寝ぼけていた意識もしゃっきりと叩き起こされる。


 スマホで調べたところ、朝焼けが見られるのは六時過ぎくらい。配信の準備もしなくてはいけないので少し早めに到着しておき、余裕を持って朝焼けを見たい。


 ──やっぱり昨日、行き方を確認しておいてよかった。


 今はまだ夜道と呼べるくらいには暗いし、そんな中慣れない道を走るのはさすがの私でも少し怖いところではある。


 カフェしおさいを通り過ぎ、トンネルを過ぎれば紺色の海とグレーの砂浜がフロントガラスいっぱいに映る。昨日の一面ブルーにも心を動かされたけども、夜の海も嫌いではなかった。ただ休む間もなく砂浜に向かう波は昼間よりも勢いがあるように見えて、近づくにはほんの少し勇気が要りそう。足をつければさらわれかねない雰囲気がある。


 海へ到着して、私は昨日宿の近くのホームセンターで購入したブルーシートを砂浜の乾いたところに広げた。その上にキーボードを置いて重石がわりにして、試しに鍵盤に指を乗せてみる。静かな海には不似合いな電子音が辺りに響き渡った。


 当たり前だけど、こんな暗い中に人などいるはずもない。まるで私は別世界にぽんと放り込まれてしまったようだった。いや、自分で車を運転してやって来たのだから、放り込まれたと言うとなんだか人聞きが悪い気がする。


 撮影用のスマホスタンドを砂浜に埋め込むようにして設置する。少し離れたところに置いて、私の姿と地平線が映るようにアングルを合わせる。私が少し見切れるけども、今回のメインは演奏と朝焼けなので問題はない。


 思いの外すんなりと準備ができたので、私は砂の上に直接腰を下ろし、胡座をかいて昨日と同じように地平線を見ていた。終わりのない地平線を目で追いながら、昨日お兄さんが言っていたことをなんとなく理解した。自分は小さい生き物なんだ、と嫌でも思い知る。


 ──でも、小さいなりに必死には生きてんだけどね。


 黙って座り続けるのも退屈なので、海辺まで足を進める。波が寄せては返し、風に揺れるカーテンのように柔らかい曲線を砂浜に描いていく。そこに手を伸ばして、海水に触れると当然に冷たい。


 濁りひとつない海水の中で何かがキラキラと光っていた。目を凝らすと小さい魚が一匹ですいすいとマイペースに泳いでいて、ときどき止まってはまた動き、なんだかその様がコミカルだ。どこを目指すわけでもなさそうで、進んではくるりと転回したり、また止まったり。自由で羨ましい。


 立ち上がると既に空がオレンジ色に染まりかけていた。それは夜の紺色の中に滲み、二色の境目付近は紫色にぼやけている。対極にあるような色彩が自然と折り混ざる様に、私は意識を奪われた。


「……綺麗」


 私はスマホをカメラモードにして一枚写真を撮った。まだ夜の割合が多いけども、少し明るくなったそれは確かに美しい。


 ──さて、そろそろ。


 私はライブ配信を開始する。その瞬間に映画のエンドロールみたいに視聴者のコメントがゆっくりと流れた。こんな朝早いにも関わらず、リアルタイムで見てくれている方がいることにまずは感謝したい。

 スッピン失礼、と先に謝っておく。


「今日はとある島にて、即興ライブやります。朝焼けとともに、即興で弾きますのでお楽しみくださいね。アーカイブも残しますので何度でも見てください。ああ、ちなみにモノマネは封印ですのでご了承くださいねえ」


 私はスマホの画面に向かって手を振る。そしてキーボードの前で胡座をかき、指を解してからいくつかの音を出す。指を鳴らすためにワンフレーズだけ弾いて、ふうと息を吐き出した。

 だんだんオレンジ色の面積が広がっていく。その中をゆらりと流れる薄い紫色の雲。透き通る海は空を素直に映し出す鏡のようで、紫色に近い紺色をしていた。


 海が、こんな色になるなんて知らなかった。

 鍵盤に指先をつけたまま私はその空と海に意識の全てを包まれていて、動けなかった。今ここに、朝焼けに向かってカメラを構えるあなたがいたらどんなによかっただろう。あなたは、どういう風に笑ったのかな。


 ──だけどね。


 私はゆっくりと鍵盤に力を込めて、身体中に流れていく音をただ放出した。もう何を弾いているのかも分からないし、きっともうこの曲は再現できっこない。

 曲を重ねるたびに空は明るくなり、少しずつ青みを増していく。冷たい夜が明けて、朝を迎え、新しい一日が始まるように。


 指が一度ったところで、私は演奏を止めてスマホの画面に顔を近づける。コメントや絵文字が先ほどよりも早く流れていき、その全てを目で追うことができなかった。


「ご覧いただいた皆様、ありがとうございました。またねえ」


 両手を振って配信終了のボタンを押す。画面がぷつりと切れた瞬間に私の瞳はついに我慢をやめたようで、目の前がぼやけるくらいに濡れていた。


 ──幸せって何?


 あの日の私が問いかけてくる。私はひばりさんにその答えを求めたけど、ひばりさんは答えをくれなかった。それがもどかしくて、そしてすごく無責任だと感じたけど、今にして思えば致し方なかったんだろう。幸せの形なんていうのはひばりさんにさえ分からなかったんだ。


 分からなくて、不安で仕方ない。そんな不安の中を生きているのに私達は極力見ないようにしている。ふと、それを考えだすとはっきりした答えなんてないことに嫌でも気づいてしまう。


「……幸せって何だろうねえ、ほんと」


 今の私が、その答えをあのときの私に伝えるのならば。

 ──どこかであなたが、この動画を見てくれていますように。私はそれだけで十分だ。


 鍵盤の上にぽたぽたと落ちた粒が、陽の光を吸い込んで宝石みたいにきらきらしていた。

 途切れることのない地平線を見ながら、私はただただひばりさんの幸せを祈った。それがどんな形かは知らないけども、ひばりさんが毎日を笑って生きていればそれでいい。


 そして、私も。どうかこの先、幸せでありますように。


 ──正解は分からない、けど。


 海面からとぽん、と音がしたので顔を上げる。

 一匹の魚が海面を破るようにして、跳ねた。

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