第54話
カフェの建物の前には『カフェしおさい』と書かれた控えめな看板が立ててある。家も人通りも車通りもほとんどなく、その名の通り潮騒の音が響いてくる。今日は比較的暖かいからか、全面ガラス張りの窓を半分ほど開放していた。
店のドアを開けると二十代半ばくらいの華奢な男性がこちらをちらりと見やり、穏やかな笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。男の人にしては少し声が高く、見ようによっては女の人にも見える。
ここはどうやら島民の憩いの場らしく、テーブル席は満席だしカウンター席も四席あるうち二席は埋まっていた。
一番右端のカウンター席に座ると、泥でも毎日塗りたくっているのかと思うほど焼けた肌のおばさんがお冷を置いた。焼けている──いや、これは地黒かもしれない。化粧っ気はまったくないのに頬は磨き上げた石みたいにつやつやと輝いていた。
「ここん人じゃなかごたね。観光ね?」
──えっ、何? 観光しか聞き取れなかった。
黒いおばさんの言葉に何も反応できずにいたら、近くにいた女性の店員さんが苦笑いしながら「五島の方じゃないですよね?」と通訳してくれたので、私はそれにこっくりと頷く。
先ほどのお兄さんが私の前にコーヒーと薄茶色の物体を長方形の皿に並べて置いた。その物体にはきつね色の焦げ目が薄くついているが──一体これは何だろうか。皿の上に載っていた竹製のフォークでつんつんと突くと柔らかい。まるで餅みたいだ。
お兄さんは「かんころ餅です」とにこやかに言う。おそらく食べても問題ないものだろうけど、私はおそるおそるそれを口にする。芋ようかんのような甘さが口いっぱいに広がり、和菓子のようだけどこれまでに食べたことがない食感だった。直径五センチくらいの楕円型のかんころ餅が四切れほど並んでいたが、私はそれを掃除機で吸い込むような勢いで食べてしまった。
しっかり食べ終わった後で、かんころ餅とは干し芋とお餅を練って作る、五島列島では割とポピュラーな食べ物なのだとお兄さんが教えてくれた。
どうやらその家庭によって味が変わるらしく、今食べたのは黒いおばさんの家で作られたものだそうだ。「うんまかろ」と黒いおばさんが言うと、優しい女性店員さんは「美味しいでしょう?」とまた通訳してくれたので、私はまた頷く。
「こんな時期に珍しかですね。どちらから?」
「ああ、東京です」
「そうですか。何か目的でも?」
「……あの、朝焼けを見たくて」
お兄さんはぽかんとしたけども、顎に手を当てながら「ああ」と何か納得したような声を出す。わざわざ朝焼けを見るがためだけにこんな島まで来るなんて、と言いたげではあった。レンタカー店のおじさんとまったく同じだったし、私もお兄さんの立場だったらそう思うだろう。
「確かに朝焼けは
「お兄さんのお墨付きなら期待大ですね」
「はい。初めて見たときは自分の小ささを感じました。まあ、母なる海は偉大やなあ、と」
このお兄さんはどんな気分で朝焼けを見ていたんだろう。きっと、純粋に綺麗な景色を見たいとか、海が好きとか、サーフィンが趣味とか、そういう前向きな理由があって、私みたいにもやもやした気分で、ぼんやりした可能性を追い求めるようなことはしないんだろう。
そこでしばらく時間を潰し、店内で販売されていたかんころ餅を大量に購入して店を出た。お兄さんはわざわざ外に出てお見送りをしてくれる。
「よかったらまた遊びに来てください」
「ぜひ。コーヒーもすごく美味しかったです。ごちそうさまです」
「よかった。また遊びに来てください」
一礼して車に乗り込む。お兄さんの微笑みは控えめではあったけど、嘘偽りないことがよく分かるものだった。往路では緊張感が車内を占めていたけども、それもすっかり薄まっていた。
──明日、早朝インスタライブやります。
その晩、宿の個室で海の写真と共にSNSでそう呟くや否や、央ちゃんから電話がかかってきて、「今どこにいるんだ?」と訊かれた。五島列島と答えたら、電話の向こうで首を傾げている──多分。見えないから分からないけど、うーん、という央ちゃんの声からそう感じた。
長崎県の島だよ、と補足してあげたら知ってると返ってきたので、どうやら私は余計なお節介をしたのだと気づく。そういうことを訊きたいわけではなさそうだ。
「なんでまた、そんなところに? 結婚式で実家に帰ったんじゃなかったのか」
「昨日テレビで五島列島を見たら行きたくなって」
「……いくら梅でも、それは急すぎだろ」
「まあ、一度行ってみたいって思ってたし。あの、央ちゃん、返事はこの旅行が終わってからでもいいかな」
「……待つのは得意だって言っただろ。梅が納得いくまで考えて」
央ちゃんの優しさがスマホを通してじんわりと耳の奥まで広がっていく。私はそれに全身を預けるわけにはいかないと、きゅっと身体に力が入った。
央ちゃんは私への初恋をもう吹っ切ろうとしている。私が央ちゃんに甘えて返事を長引かせれば長引かせるほど、央ちゃんはまた苦しむ。それは考えるまでもなく、分かる。
どんどん増えていくSNSの「いいね」の数字を眺め、それからベッドの上に四肢を投げ出す。明日、何を弾こうか。これまで弾いてきた曲が浮かんでくるけど、眠りにつくまで決められなかった。もう、朝焼けを見てから考えることにしようと諦めて目を閉じた。
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