第57話

 車に乗り込もうとしたところで、頭上からピーチュルピー、と軽快な鳴き声が聞こえる。カフェの屋根に向かって一羽の鳥が翼を広げて飛んでいくところだった。


「お、ヒバリだ」

「えっ、今のヒバリなんですか?」

「そうですね。この鳴き声は多分ヒバリと思います。いやあ、春やねえ」

「……ヒバリって春の鳥なんですか?」

「はい。春の訪れを告げる鳥らしかです。僕も人から聞いたので、詳しくはなかですけど」


 お兄さんは若いのにそんなことを知っているのか。おそらく私の方が長く生きているであろうに、無知で恥ずかしい限りだ。まあ、知識に年齢は関係ない──と自分をこっそりと慰めた。

 また、ピチュルッと頭上で声がする。急かすように何回も何回もヒバリは私達の頭上で声を上げていた。


 ──春を告げる鳥か。


 重くて冷たい雪が溶けて、びしょびしょに濡れたまま明るい日差しを浴びるのを夢見る者にとっては、ヒバリの鳴き声は希望の鐘の音と等しく感じられるんだろうか。


 それならば、どうか私ではなくひばりさんの元で鳴いてあげてほしい。もう十年以上も会っていないし、今どうしているかは分からないけど、もしもひばりさんが春を迎えられていないのならばどうか知らせてあげてくれ。あなたにも、ちゃんと春は来るんだと。


「ヒバリの鳴き声ってなんだか耳に残りますね」

「ああ、確かに」

「……今日はありがとうございました。開店前から居座ってすみません」

「いいえ。よかったらまた来てください。お待ちしてます。ここ、よか島でしょ?」


 お兄さんが右手を差し出したので、私はその手を握った。思っていたよりも柔らかくて、華奢な手だ。お兄さんと呼ぶにはあまりに弱々しくて、手のひらはぽかぽかしているけど指先は氷柱つららみたいに冷たい。

 手を握ったままお兄さんの顔を見ると、お兄さんはほんの数ミリほど口角を上げた。


 店を出てから大瀬崎展望台を目指す。眺めがいいし観光地としても割と有名な場所だとお兄さんが教えてくれたので、行ってみることにした。車を停めて、あとは徒歩で展望台を目指して進んでいく。今日はとにかく天気が良くて日差しも強い。


 展望所と書かれた看板が示す方向へ進んでいくと、女神像があった。くっきりと絵の具で描かれたような海と山をバックに佇む女神像は、人々の希望の象徴のように思えた。風雨に晒されながらも、穏やかな顔で見下ろす彼女に私はなぜか一礼する。


 あの朝焼けには劣るけども、そこから眺める景色も見事なものだ。心を鷲掴みにしてくるような壮大な力を感じる。


 ──本当に人間って小さい。


 普段呑気に生きている私が、こんな哲学的なことを思うくらいにここの自然は雄大だ。

 ひとしきりマイナスイオンを浴びた私は肩を回しながら車へ戻る。自然に癒され、創造力も刺激されている──はずだ。


 レンタカー店へ車を返却しに行く。先日と同じ男性の店員だったので、妙に安堵しつつ私は鍵を手渡した。愛想のいい笑みを向けられて、私の五島列島への旅は締められた。


 とりあえずターミナルの化粧室で眉毛だけ描いて、顔の半分はマスクで隠しておいた。この時期は花粉症やら黄砂やらがあるのでマスクをしていてもなんら不思議ではない。

 ターミナル内でも連発でくしゃみが響いている。今日は比較的暖かいので花粉の飛散量が多いんだろう。しかし、くしゃみ五連発はさすがに激しすぎる。どこの人か知らないけども、お大事にしてください。


 一度、長崎市へ船で向かいそこから実家へ戻ることにした。フェリーで帰ってもよかったけど、早朝出発の船しかなかったので諦めた。あと一日滞在して五島列島をもっと堪能してもよかったけど、明日出発の東京行きの飛行機のチケットも取ってしまっていたのでそれはまたの機会に取っておくことにした。


 乗船まで少し時間があったので土産屋を見てみる。きな粉餅のようなひと口サイズのお菓子だとか、乾物、あとは昨日教えてもらったかんころ餅も並んでいる。テレビで見たつばきねこの商品もあったので、手のひらサイズのぬいぐるみを買うことにした。央ちゃんにも買ってあげようと、手にしたけどやめてひとつを陳列していたカゴに戻す。


 五島うどんと書かれた乾麺も売っていた。普通のうどんと何が違うんだろうとお店の人に尋ねるとなんだかいきいきとして説明してくれた。


「普通のおうどんよりも、少し細かっですよ。椿油を練り込んで、しっかりコシもあってうまかとですよ」

「へえ、食べたことないです。じゃあそれを三つもらいます」


 土産屋というのはどうしてこうも財布の紐が緩くなるのか。五島うどんとつばきねこのぬいぐるみ、それから船の中で食べるお菓子を袋に詰めてもらったところで、ちょうど乗船開始のアナウンスが流れた。

 ジェットフォイルに乗船して、ひと眠りしようと目を閉じかけたところで握りしめていたスマホがぶるっと震えた。央ちゃんからラインが入っていたので、通知をタップする。


 ──今朝の配信、よかった。


 たったそのひと言だけだった。何がいいとか、どうよかったとかそういうことは一切書かれていなくて、だけど私はそれだけで今回の旅にきちんと大きな意味を持てたんだと思えた。


 ひとまずお礼のスタンプだけを返信しておいて、私は眠気に抗えず目を閉じた。なんといっても今朝は五時起きだ、こうなるのも致し方あるまい。ごお、と船が進みだす音が振動とともに伝わってくる。ほどなくして私の意識はダイビングでもするかのように沈んでいった。

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