第52話

 五島列島。ひばりさんがいつか朝焼けを撮りたいと言っていた場所だ。

 ひばりさんと離れてしまった後も、私はその土地のことをずっと覚えていていつか行きたいと考えていた。だけど、行けなかった。


 単純に時間がなかったということもあったし、ひとりでは行きたくなかった。ひばりさんと朝焼けを見るためにそこへ赴きたいと、叶うわけもないのにそんなことを考えてしまう。そういうわけで私の足は五島列島へ向くことはなく、こうやって年月だけが過ぎてしまった。


 ──ここへ行って朝焼けでも見れば、吹っ切れるかな。


 ふっとそんなことを思う。吹っ切れないからこの島へ行けない、ということは行けば何かが吹っ切れるのではないだろうか。この考え方は命題としては多分成立しないような気もするけど──今私の中ではそれ以外の正解はなかった。


 私はスマートフォンで五島列島への道筋を調べた。夜のうちにフェリーに乗れば寝ている間に到着する。宿も調べて、併せてレンタカーも予約を進めていた。ただ衝動に任せて、私の指はスマホの画面上を滑らかに動いていく。


「明日から五島列島行ってくるわ」


 そう告げると両親はえっ、と揃って目を丸くした。やっぱりこのふたりはペアで作られた人形だったんだな、と思った。


 翌日の晩、私はキーボードを背負いフェリーに乗り込むと、カプセルホテルのような形状になった寝台室へ直行する。風呂もご飯も家で済ませてきたし、あとは寝るだけの状態。


 朝には五島列島へ到着する。前情報などほとんどなしで、キーボードと必要最低限の荷物だけでやって来てしまった。とりあえずスマホでどんな場所くらいかは調べてみると、もう少し計画を立てるべきだったと後悔した。教会や灯台なんかもあるし、海も綺麗だし、ご飯も美味しいらしい。


 とはいえ、今回の目的は五島列島の海で朝焼けを見ることなので、観光はまたの機会にしておこう。せっかく綺麗な景色を見られるだろうし、人が少なければキーボードを演奏してライブ配信をしても面白いかもしれない。家を出る前に思いついてキーボードを背負ったのは正解だったと思う。


 目を閉じるとだんだんと微睡んでいく。次に目を開けたら、五島列島に到着しているんだろう。ひばりさんが見せてくれたあの海を、ひばりさんが撮りたいと言った朝焼けを、私はこの目で見ることが出来る。そうすることで私は吹っ切れるのか、それとも──。


 瞼の裏には風でそよぐあの黒髪が浮かんでいる。それなのにひばりさんの横顔はまったく思い出せない。


 あんなに好きだった横顔は、なぜか今見えないままだ。

 だんだんと目の前がかげっていって不安を覚えた。ここから抜け出したいけど、抜け出したくないような不思議な気分になった。そんな暗闇の中を走っている──と思いきや、スマホのアラームが鳴り、私は強制的に現実に引き戻された。


 目の上に腫れぼったさを感じながら、よいしょと身体を起こす。少し前までは身体を起こすときによいしょなんて言葉は使わなかったというのに、もうすぐ三十を迎えようとする身体はいつの間にかそんな声を上げるようになった。三十なんてまだ若いと言われるけども、高校生のときに比べればもう随分と大人の年齢というやつだし、汚い言葉で言うとババアの扱いをされ始める頃だ。


 そういう年齢に達するから、きっと央ちゃんはあんなプロポーズをしたんだろう。勿論、結婚だけが全てというわけではないけど。


 朝食を自販機で調達し椅子に腰掛ける。外はもう夜が明けていて、海面にきらきらと太陽が反射している。周囲は見事なまでに何もなく、この船は寂しい海の真ん中を悠然と進んでいるんだと思うと、ほんの少し口元が緩んだ。


 しかし、朝からポテトフライは選択を誤ったかもしれない。油まみれの手をウエットティッシュで拭きつつ、胃がもったりしてきて溜息をつく。昔は朝から唐揚げとか平気で食べていたのに、これも歳のせいなんだろうか──こんなところで年齢など感じたくはなかった。


 一応今回の旅行プラン──昨晩ざっくりと練ったものだけど──は、まずレンタカーを借り、とりあえず昼の海を見に行くことにする。明朝、迷って朝焼けが見られないなんてことがないように道順を下調べしておきたい。それから適当に時間を潰した宿にチェックインの予定だ。これをプランと呼んでいいものかは首を傾げるところだ。


 新鮮な海鮮物も食べられるらしいし、地酒なんかもあるそうだけど──今回はひとまずお預けだ。明日起きられなければ本末転倒だし、またの機会に堪能しよう。


 到着した福江港からレンタカー店まで歩いて数分。キーボードを背負ってふうふうと歩いてきた私を見つけると、たまたま外にいた男性の店員さんが駆け寄ってきてくれた。朝も早いというのに人のいい笑みで私を迎えてくれる。醤油をたっぷり塗りつけたお煎餅みたいな肌に真っ白な歯がよく映えているのを見ると、特に理由はないけど胸が軽くなった。


「あの、高浜海水浴場ってここから遠いですかね?」

「ああ、車なら一時間もかからんですよ。しかし、泳ぐにはまだ寒かと思いますが……」

「いえいえ、泳がないです。明日、朝焼けを見ようと思って」


 やや白んだ眼鏡の奥で「物好きだなあ」という思考がちらりと見える。

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