第46話

 だけど、少しばかり楽になった気がした。あたしは今日こんなにも大きな声を出してもいないし、涙が出るほど笑ってもいない。央ちゃんがこの部屋に来なければあたしはこのまま眠りについて、また明日も同じような一日を過ごしていたことだろう。


 素直にお礼を言うのもなんだか癪だけど、あたしは唇と尖らせながらありがとうと伝えておいた。


「でも……今一緒にいたいのはひばりさんだよな、俺でごめん」

「うん……でも、来てくれて嬉しかった。元気出た」

「へへ、ならよかった」

「でもやっべえ奴って思われてたのは心外だったなあ」


 央ちゃんはばつが悪そうに頭を掻いた。だけど『やっべえ奴』を訂正する素振りもないので、あたしはこれからもずっと央ちゃんにとってやっべえ奴でい続けるんだろう。それはそれで、別にいいけど。


「ひばりさんには敵わないけど、俺だって梅の力になりたいよ」


 央ちゃんは親友だから、と付け添えた。央ちゃんは大切にその言葉を口にしているように聞こえた。こんなにもあたしを大切にしてくれる友達を持てて幸せだ。梨沙子も央ちゃんも、得することなんてひとつもないのに。


 央ちゃんが帰ってから、もう一度ひばりさんにメールを送って電話もかけてみた。だけどひばりさんからの返事はない。

 不安で、不安で、今隣にいてほしい人なのに。あたし達を繋いでいたものの脆さを思い知る。糸をハサミでぷつんと断つように、あたし達は引き離されてしまった。


 ──どうしてこうなるんだろう、あたしはただあなたを好きなだけなのに。



 謹慎生活も残り二日。短かったようで長かった──本当に長かった。このあたしが、謹慎が明けるよりも早く課題を終わらせてしまうほどには時間があり余っていたし、おまけにピアノの練習までみっちり出来てしまった。


 というより、そうせざるをえなかった。何かしていないとあたしはどうにかなりそうだった。ひばりさんからの返事はなく、あたしはもう嫌われてしまったんだと自暴自棄にな利かけていたので、意識を逸らすための何かを探して打ち込むようにした。


 それももう何もない。あたしはぎっしりと書き込みが終わったプリント類をぱらぱらとめくり、ベッドの上に大の字に寝転んだ。


 ──学校に行けば会えるんだろうか。


 ふと浮かんだ考えに、あたしは勢いよく起き上がる。そうだ、学校へ行けばここで燻るよりも幾分かマシだ。


 クローゼットの中の制服を取り出しかけたところで、インターホンの音がした。あたしを現実へ引き込む音に聞こえて、がくりと肩を落とす。久しぶりに日の目を見た紺色のブレザーは心なしか影を落としながらクローゼットの奥へ戻される。


 上下グレーのスウェットに身を包んで、足裏で床をベタベタと叩きながら進む。背中は丸まりすっかりやる気が削がれた姿を、全身鏡でちらっと見てからインターホンに出る。


「あの、梅ちゃん。ひばりです」

「ひ、ひばりさん! あれっ、学校は……」


 そういえば三年生は仮卒期間に入るという話をつい最近にひばりさんから聞いたばかりだった。もうそんな期間なのか。あたしがこの家で時間の進むスピードを嘆いている間に、外では光のように過ぎていたらしい。時間の進み方のギャップに戸惑いながらも、あたしはひばりさんを招き入れた。


 玄関の扉ががちゃりと閉まる音がした瞬間、まだひばりさんは靴も脱いでいないのにあたしはひばりさんに抱きついてしまった。


「……ひばりさんは大丈夫でした?」

「私のことなんて心配しなくていいのに……もう、決心が鈍る」


 ──決心?


 嫌な予感がしてひばりさんから離れると、ひばりさんのまつ毛は濡れていくつかの束になっていた。その先には雫が光っていて、ひばりさんがそれを拭う。


「メールや電話を無視してごめん。心の整理がつくのに時間がかかった」

「……さっきから何ですか? 決心とか、心の整理とか、そんなのまるで……」


 ──別れ話でもされる直前みたいだ。


 ひばりさんはこくりと頷いて、あたしは首を横に振る。この数日あたしがどんな気持ちでいたと思うんだろう。あたしはひばりさんに会いたくて、どうしているのかを気にして、嫌われているんじゃないかと不安になって。


「……ひばりさんは、もうあたしが嫌になった?」

「違うよ。大好き。大好きだからこそ、決心したい」


 ひばりさんは、なっちゃいけない大人の目をしている。子どものあたしなんかが手を伸ばしても届かないところにいるし、ふたりの間には真っ白な線が引かれていて、あたしはそこを乗り越えられない。


「梅ちゃん、私の話を少しだけ聞いてくれる?」


 かまちの部分にふたり並んで腰掛けた。ひばりさんが靴を脱ごうとしなかったからだ。その時点であたしはひばりさんの決心とやらを揺さぶれずに、距離を詰めて隣に座るだけで精一杯だった。

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