第45話

「……お母さん、ごめんね。昨日は」

「そうねえ、暴力はよくないよね」

「……うん、もうやらないよ」

「お願いね。でも、好きな人のために拳を振るうなんて梅もなかなか情熱的ねえ」

「拳って大袈裟だよお……正確にはビンタだよ」


 お母さんはキャベツを千切りしながらけらけらと笑った。それは悪うございました、とお母さんはおどけた口調だけど、拳とビンタに大きな違いはない気もしてきた。何にせよ暴力に違いはないし、こうやって謹慎になっているわけだし。


「そうそう、さっき久しぶりに央ちゃんに会ったの。なんか身長伸びて、すっかり見違えた」

「ああ……確かに。そうだ、央ちゃん、彼女ができたんだよ。だから男らしくなったのかも」

「ええっ、そうなの? 昔は梅の後ばかり追いかけてきてた子が彼女……ふふ、野良さんに今度聞いてみようっと」


 お母さんは弾むようにキャベツを刻む。いくつになっても恋愛の話というのは楽しむものなんだとぼんやり思った。

 

 夕飯を食べ終えて部屋で課題をしていると、遠慮がちなノックと共に央ちゃんが部屋に入ってきた。


「あれ、央ちゃん! どうしたの?」

「いや、おばさんから謹慎してるって聞いたから……心配で」

「メールか電話でもいいのに」

「顔見ないと様子分かんないだろ。でも、思ったより元気そうでよかった」


 央ちゃんの顔から少しだけ力が抜けた。ただでさえ人のよさそうな八の字眉毛が更に垂れて、それに安心感を覚える。央ちゃんは近くにあった五十センチくらいのクマのぬいぐるみを引き寄せて、ベッドを背もたれにゆったりと腰を下ろす。


 央ちゃんは昔からこのぬいぐるみが好きで、あたしの家でよく遊んでいた頃には必ずこのぬいぐるみを抱っこしていたものだ。昔はもっと大きく見えていたぬいぐるみが、なんだか可愛いというか小さく感じる。


「暴力沙汰で謹慎って聞いた」

「暴力沙汰って……まあ、間違っていなくもないけど」


 そう言われると不良映画の主人公みたいであまりいい気分はしない。でも、しっかりと否定できるほどの説得力も今のあたしには備わっていない。胸の辺りでぶすぶすと燻る感情をどこへも投げられずにいたら、央ちゃんはそんなあたしを笑い飛ばしてくれた。


「何があった?」


 柔らかい央ちゃんの声は昔のままだ。あたしが先生やお母さんに怒られたり、ピアノを小夜に取られたり、お姉ちゃんと喧嘩したり、そんなときはいつも央ちゃんがこうやって声をかけてくれていた。ただ昔はもっと情けない表情もついていたけど、今はそれがない。それだけが昔と違う。


 あたしは胸の中にあるものを全部央ちゃんに差し出す。

 話を聞き終えたら、央ちゃんは「大変だったなあ」と自分が泣きそうな顔をするのだろう、と想像していたが、それは裏切られた。今日はあたしの頭を撫でながら「辛かったなあ」と目を細めている。


「……なんかさあ、梅って変わんないよな」

「え?」

「俺が小学生の頃、クラスのボスみたいな奴にいじめられてたら、梅が走ってきてくれてさ、そいつにタックルした上に馬乗りになってぼこぼこにしただろ」

「ああ、あったねえ。央ちゃん気が弱くて小さかったからいじめの標的になってたもんね」


 あたしは記憶の糸を手繰り寄せて、一年生のくせに周りの子たちよりひと回りは大きい、ゴリラみたいな男の子を思い浮かべた。いつも給食を人の分まで食べ、気が弱そうな子を見つけては理不尽な暴力を振るっていた。大人しい央ちゃんがそいつのターゲットになるのは必然だった。


「そりゃあ親友の央ちゃんがぽこぽこ叩かれてるんだよ。黙って見てられるわけないじゃん」

「そうそう、そういうとこ。梅だって別に身体でかいわけじゃないし、強いわけじゃないのにさあ、躊躇うことなく捨て身でタックルしただろ。俺……あのときから梅のこと……」


 央ちゃんは一度唇を噛んでから、綺麗に生えそろった歯をにっと見せた。


「……やっベえ奴だなって思ってた」

「何それ! じゃあ今回も同じようなことしたあたしって……」

「今も変わらずやっべえ奴ってことだな」

「もお、励ましにきたんじゃないの? 央ちゃんって嫌な奴だなあ」


 嫌な奴、と央ちゃんはクマを抱えたまま足をばたつかせながら、遠慮のかけらもなく笑う。あたしが今日一日どんな気分で過ごしたと思っているんだろうか。

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