8 こおりついた心

第44話

 時計は八時半を指している。本当ならあたしは今頃眠気と戦いながらホームルームで先生の話を聞いているはずなのに、自宅のリビングでぼんやりと朝ごはんを食べている。食パンと目玉焼き、そしてほどよく焦げ目がついたベーコン。それをヤギみたいにゆっくりと咀嚼している。


 昨日、あたしは初対面の人間に手を上げた。

 そのときは頭に血が上ってわけが分からず、気づけば手はびりびりと痺れを伴っていた。食パンを奥歯ですり潰しながら記憶をたどっていく。


 ひばりさんを疫病神と呼んだあの女の顔を思い出すと、鏡を覗かなくとも自分の顔が歪むのが分かった。それほど強い力で叩いていないのに、大袈裟に床に転げて被害者面をした、あの女──先に仕掛けたのはあっちなのに。


 ひばりさんと梨沙子が止めてくれなかったらあと三発くらいはその顔を叩いて、おまけに蹴りを入れていたかもしれない。そうすればあたしはたった一週間の謹慎では済まなかっただろう。


 ──あんたもそのうち死ぬんじゃないの。


 あの女の言葉の意味は未だに分からないままだ。ひばりさんに訊けば分かるんだろうけど、あたしはそこに踏み込む勇気がなかった。正確に言えば踏み込んで、ひばりさんに逃げられてしまうことが、もう二度とあたしに向かって微笑んでくれなくなることが、怖い。


 ひとりで留守番をする家は、やけに静かだ。学校から出された課題をしたり、ピアノを弾いたりして時間を潰す。音楽室のグランドピアノの方が恋しくなってきた。学校に行きたいだなんてこのあたしが思う日が来るとは、自分史上ベストスリーに入るくらいの驚きだ。


 ひばりさんはちゃんと学校に行って、ご飯を食べて、写真を撮って、静かに過ごせているんだろうか。またあの女にいじめられていないだろうか。何をしていてもひばりさんの青い顔が常に頭のどこかに浮かんで、ひばりさんの心配ばかりをしている。


 ひばりさんは優しい人だからあたしの謹慎を自分のせいだと思っているかもしれない。それは絶対に違う。あたしがただ単に野蛮なだけだ。どうかあたしの考えすぎであることを祈る。


 ソファに寝転がって、目を閉じてまた開いて。思い出したように水を飲んで食事をして、ピアノを弾いて課題をして、そんなことを繰り返す。意外と時間というものは勝手に過ぎてくれるもので、気づけば窓の外は赤く染まっている。


 お母さんに頼まれていたので洗濯物を取り込んで、お風呂の掃除をして、あと夕飯の仕込みをしておいた。米を洗って、味噌汁を作った。そんなときでも、ひばりさんはきちんと食べているのかと田舎のお母さんみたいなことを思っている。


 ──ひばりさん、元気ですか。


 メールを送ってみたものの返事は来ない。三通くらい送ってみたけど、夕陽に向かってひとりでボールを投げるみたいに、ただ送りっぱなしの状況が続く。

 ひばりさんは暴力沙汰を起こしたあたしに呆れ返ってしまったんだろうか。今にして思えば、いくらカッとなったからって暴力はよくない──子どもではないんだから。


 ひばりさんが言う、大人になるとはこういうことなんだろうか。振り上げた右手を左手で押さえつけて、唇を噛み締めて黙ること。


 もし、それが正解なら──ひばりさんが大人になりたくないと悲哀の滲む笑みを浮かべるのも頷ける。だけど当のひばりさんはなりたくないものにもう既になっている。

 大人になっちゃいけない、というのはひばりさんの願いだったんだろうか。それはあたしに対してか、ひばりさん自身に対してなのか──。


 宇宙に渦巻いていく星のくずのように目の前が回る。気分が悪くなって顔を顰めると同時に、お母さんの顔がにゅっと視界に割って入る。穏やかな目尻は宇宙の救世主のそれに見えた。──宇宙の救世主って何だ。


「夕飯の仕込み、ありがとうね。今日は鶏もも肉が安かったから唐揚げにしようと思ってるの。梅、食べるよね?」

「うん、手伝う」


 昨日、お母さんは学校まであたしを迎えにきてくれた。それまではひばりさんが隣にいてくれて手をずっと握ってくれていた。お母さんはあたしとひばりさんを見た瞬間に、安堵の表情を浮かべながらふたりまとめて抱きしめてくれた。


 お母さんにだけはひばりさんとのことを話しておいた。さすがにこんなことにまでなって、秘密を貫くのはあたしもひばりさんも出来なかった。でもお母さんは「辛かったね」とやっぱり抱きしめるだけ。そこでようやくあたしは、とんでもないことをしたんだなということが理解できた。


 生姜を擦りおろして調味液の中に投入し、その中で鶏もも肉をよくよく揉みほぐす。少しだけ冷蔵庫で寝かせて、その間に衣用の粉を作る。

 うちの唐揚げは小麦粉と片栗粉を半々で合わせて衣にする。こうするとカリッとした歯応えとジューシーさを兼ね備えた唐揚げに仕上がる、とお母さんが言っていた。

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