第41話

 ひばりさんはアルバムの最後のページを広げて、朝焼けの写真を見せてくれた。藤の花びらを散らしたような色の海に太陽のオレンジ色が織り込まれていた。まだ残る夜の色と、新しくやってくる朝の色。青白い雲を巻き込みながら、何の不自然さもなく全てが溶け合っている。


 ──すごい、真逆の色って感じなのにどうして綺麗に混ざり合うんだろう。


 この写真はひばりさんのお父さんが五島列島ではない別の場所で撮ったものらしい。


「車の免許を取って、いつかもう一度五島列島に行って自分の目で見た朝焼けを切り取るのが今の夢なの」

「わあ、それいいですね。でも五島列島ってどうやって行くんですか?」

「うーん……確か私は大きな船に乗って行ったかな。夜に船に乗って、次の日の朝に到着するんだよ」


 ひばりさんとの船旅をあたしは当然のように想像した。夜の海を眺めながら、ひばりさんと遅くまで話をして、それから朝起きて、ひばりさんの運転で海を目指す。


「じゃあ、そのときはあたしも連れて行ってください」

「え?」


 ひばりさんは困ったように瞳を揺らしていた。そのわずかな揺れさえ見逃すことは出来なくて、あたしの指先も震えた。マグカップの持ち手に通していた指から一瞬だけ骨が抜けてしまったように、バランスを崩しかける。


「……梅ちゃん、早起きできる? 朝焼けは陽が登る前からスタンバイしてないといけないんだよ」

「そ、そこの心配ですか……」

「だって梅ちゃんって早起き出来そうなイメージないんだもん」


 ──そ、そんなことは……。


 毎朝目覚まし時計の上に手を置いたまま、枕に顔を埋めて動けない自分を思い出す。だめだ、あたしはひばりさんに何も反論ができない。


 ひばりさんはあたしの手の下からするりと抜け出すと、利き手でフォークを持ち直してまたシフォンケーキを食べ始める。結局、五島列島へ行く約束はできなかった。


 カフェを出た後はモール内を当てもなくうろうろした。雑貨屋でアクセサリーを見たり、輸入食品のお店で買い物をしたり。あたし達は普通の女子高生みたいに振る舞って、陳列棚の陰でときどき小指を絡めた。


「ひばりさんが今日使ってるリップってどこのですか?」

「これ? えーっと、あそこのお店で売ってるやつだよ」


 ひばりさんはモール内にあるコスメショップを指さした。壁や陳列棚はピンク系で統一されていて、お客さんも若い女の子ばかりだ。その中にひとつ、まるでパステルカラーのマカロンに誤って醤油でも一滴落としてしまったような異質なシルエットがあった。


 そのシルエットはここが自分の場所じゃないと分かっているような素振りで、あまりに気の毒だった。放っておけずあたしは思わず駆け寄る。


「何やってるの、央ちゃん」

「うわあっ! う、梅かよ……はあ、びっくりした」


 央ちゃんの手にはアプリコットカラーのリップグロスが握られていた。央ちゃんが使うのかと思ったけど、そんなわけないだろとすぐに否定される。ふと、先日の不自然な毛束を作っていた央ちゃんの姿が浮かび、合点がいく。


「ははん、彼女へのプレゼントだなあ」

「うん……でもどれがいいのか分からない。梅はどれが……あっ」


 央ちゃんはあたしから少し離れて後ろに立っていたひばりさんに気づく。央ちゃんとひばりさんは初対面のはずだけど、あたしがひばりさんの話ばかりしていたせいか央ちゃんはすぐに分かってくれた。央ちゃんがぺこりと頭を下げると、ひばりさんは警戒を解いた野生動物みたいにゆっくりと近寄ってきた。


「ひばりさん、あの、幼馴染の央ちゃんです」

「あっ、梅からいつもお話は聞いてます。野良央太郎っていいます……あっ、そ、その……梅のこと、よろしくお願いしま……す」


 央ちゃんは消え入りそうな声と共に頭を深々と下げる。さすがは野球部だ、先輩に対しての接し方というものが身体の隅々にまで行き渡っているように見受けられた。しかし娘を嫁にやるお父さんのように振る舞う央ちゃんが恥ずかしくも、なんだか可愛く見えてしまった。


 ひばりさんは「頭を上げて」と生まれたばかりの小鳥みたいに弱々しく言った。様子を伺いながら央ちゃんが頭を上げる。


「……すごい、マジで綺麗な人だな。びっくりした」

「だから言ったじゃん」

「梅がって言ってると思ってたんだ。……こんなに綺麗なら仕方ないなあ」


 央ちゃんは手に持っていたリップグロスを陳列棚に戻した。それからまた腕を組んで考え込んでしまう。同じピンクでも赤みが強いものや、オレンジ色を含んだもの、少し青みがあるもの──と種類が多すぎて、央ちゃんはなかなか決められないようだ。


 あたしはひばりさんの唇をちらりと見て、ひばりさんが使っているものと同じ色のものを手に取る。ひばりさんの唇に乗っているそれとは色味がやや異なる気がした。


「……梅はその色が好きなの?」

「え? うん、そうだね」

「じゃあ、それにしようかな」


 央ちゃんはチェリーブロッサムと書かれたリップを手にしてレジへ向かう。しばらくして店内と同じピンク色の紙袋を下げた央ちゃんが戻ってきた。


「彼女さん、喜ぶといいね。でもその色で本当によかったの?」

「うん。梅が……一応、女の子が好きだって言う色なら間違いないだろ」

「一応ってどういう意味?」

「ははは、意味はないよ。じゃあ、俺はここで。ひばりさん、梅のことよろしくお願いします」


 先ほどと同じようにして央ちゃんは深々と頭を下げ、紙袋をぶんぶんと振りながら三つ先のスポーツショップの中へ消えた。

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