第39話
頬に添えていた手を離して、ひばりさんはあたしの腕を掴んだ。やや乱暴に空けられたその距離であたしはとんでもないことをしたんだと思い知る。反省はしているけど、ひばりさんのバラ色の頬を見ていたら頭がくらくらしてまた同じことをしそうだった。
「……梅ちゃん、ごめんね」
「どうしてひばりさんが謝るんですか。今のは……あたしが……」
「ううん。もうこんなこと、しちゃだめだよ」
やんわりとした拒否に聞こえて、胸の奥がずんと重くなる。もしかして、あたしはひばりさんのことを大切にしていないとでも思われたんだろうか。違う、違う。だけど言い訳ひとつ思いつかない。
「……どうして?」
「無理して大人になんかなっちゃ、ダメだよ」
「……どうして、大人になっちゃいけないの」
「辛いことばかりだから」
大人になっちゃいけないと言う割には何かを悟ったような、一度大人になってしまったような口ぶりで、あたしとは立っている場所が違うということを突きつけられたようだ。ひばりさんはその細い腕であたしを確かに包んでいるはずなのに、あたしはひとりぼっちみたいだった。
「……だけど、嬉しかった」
ひばりさんの声はあたしを惑わすように耳元で響いて、桜の香りを残していく。
結局ひばりさんはいつものひばりさんに戻って、追試の勉強を教えてくれた。あたしがしたことはなかったようにされていて、それが不満だけども一方で安心もしていた。よくドラマや映画なんかで見る、拒絶の言葉を吐かれて逃げられるという派手な展開にはならなかったから。
途中でお母さんが帰ってきて少しだけ気まずくなった。全国の恋人がいる高校生というのはこんな空気を経験するのだろうか。
ひばりさんのことをどう紹介すればいいのか分からなかった。先ほどのことがなければ、あたしは元気いっぱいにお付き合いをしていることを告白したかもしれないが、とてもそんな気分にはなれない。まるでいたずらを誤魔化す子どものようにもじもじしながら「学校の先輩」とだけ伝えた。
空がすっかり暗くなって、ひばりさんはバスで帰ろうとしたけどお母さんが車を出して送ってくれた。後部座席に並んで他愛もない話をしていたせいで、あたしは肝心なことをきちんと伝えられなかった。
──謝らなくちゃいけないのに。
謝るタイミングを探っていたけど、結局見つけられなかった。テレパシーでも使えたらいいのに、残念ながらあたしにそんな能力はない。ただ座席の布地の上で指をしゃくとり虫みたいに動かして、先輩の細い指にちょんと触れるだけ。
「どうしたの?」
「いえ、あの……今日はごめんなさい」
「ああ、うん、いいの。追試、頑張って」
ひばりさんは広々とした駐車場があるコンビニの方を指差した。お母さんからメールでお使いを頼まれたらしい。コンビニでひばりさんを降ろして、あたし達に向かってずっと手を振るひばりさんを見続けていた。明日も会えるはずなのに、なんだか永遠の別れみたいな気分だ。
「綺麗な子ねえ。高校生じゃないみたい、大人っぽいよね」
なんてことないお母さんの言葉が一本の弓矢みたいに胸にとすんと突き刺さる。
──ひばりさんは大人で、あたしは子ども。どうしたら、あたしはひばりさんの隣に並べるんだろう。
キスひとつでは大人にはなれなかった。でもあたしがまた同じことをしようとしても、ひばりさんはあたしを大人にはしてくれない。
対向車のハイビームに目を細め、それが通り過ぎてからもあたしの目の前はチカチカと光が舞っていて落ち着かなかった。
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