第38話

 降り積もったばかりの雪の上に苺のシロップでもぶちまけたみたいに、ひばりさんの顔が赤くなる。そして弱々しい声で「ああもう」と子どもみたいに言い放った。ひばりさんとしては思い出したくないことなんだろうか、これは悪いことをしてしまった。


「それは……ああ言えば梅ちゃんも引いてくれるかと思ったから」

「そうだったんですね。でもあたしは引かなかった、と」

「……だから、我慢できなくなっちゃった。私も誰かを好きになってもいいんだって思っちゃった」

「そうですよお。ひばりさんに嫌いって言われてたら、あたしはしつこくひばりさんに付きまとって、何がなんでも好きって言わせようとしましたよ、多分」


 ひばりさんは「それは困るなあ」と苦笑する。だけど、今はお互いを好きだからあたし達はこうやって並んで歩けているわけで、それにはひばりさんと神様に感謝しかない。

 ふと、ひばりさんがあっ、と足を止める。そして鞄の中をガサゴソとかき回しながら、ほうっと息を吐いた。


「どうしたんですか?」

「あ、いや……この前の試験の復習用のノートを忘れたと思ったんだけど、入ってた。今日、必要だったから」

「ああ、この前の試験ですねえ。あたしボロボロでしたよ。赤点がひとつあって、追試なんですよね。あっはっは」

「えっ? 赤点……追試……?」


 つい今しがたまで楽しそうだったひばりさんの顔が凍っている。『赤点と追試ってあの伝説の妖怪?』とでも言いたげな顔をしていた。あたしにとっては試験の度にあたしの命を狙ってくるモンスターのようなものだけど、ひばりさんにとってはそうではないらしい。


 ──こうしてあたしがバカであることが今頃になってひばりさんに知られることとなった。

 追試を来週に控えながらあたしは「あっはっは」などと漫画のキャラクターのような笑い方をしたことを恥じた。背中が情けなく丸まっていく中、ひばりさんはあたしに勉強を教えてくれると提案してくれた。その申し出だけで追試への憂慮など吹っ飛んでしまう。いや、吹っ飛ばしてはいけないけども。


 ひばりさんは家が逆方向であるにも関わらずあたしの家へついてきてくれた。ひばりさんを招くんだったらもう少し部屋を片付けておくんだった。普段からやっておけばいいと言うお父さんの顔が浮かんで、鍵穴に鍵を入れ損なった。ガチッ、という金属同士が要らぬ衝突をする音がして、誤魔化すように「すみません」と咄嗟に放つ。


 家の中には誰もいない。両親とも今日は仕事で遅くなるらしいし、小夜はピアノのレッスン。このマンションの一室の中にあたしとひばりさんは、今たったふたりきりだ。暖房のスイッチを入れるまで、この部屋にはあたしとひばりさんの話し声、それと足音しか響いていないことに気づくとこの部屋が自宅でないように感じた。


 ──ここはどこだ?


 記憶喪失の人みたいな台詞を頭の中で三回ほど繰り返しながらお湯を沸かした。ひばりさんをリビングの椅子に座らせて、台所でお茶の支度をしながら大きめの独り言を言う。そうでもしていないと、あたしはお茶すらまともに入れられない気がしていた。


 お母さんが先日買っていたバタークッキーも取り出して、お茶と併せて置く。ひばりさんは申し訳なさそうに眉毛を下げていたけどバタークッキーは好きらしく、口の端にかけらがついていることも気にせずに食べていた。


「あはは、ひばりさん。クッキーついてます」

「え? どこ?」


 桜色のリップで染まっている唇にぺたっとクッキーのかけらが貼りついて、ひばりさんが指で撫でても取れない。


「取れた?」

「まだついてますよ、えーっと……」


 あたしはひばりさんの右の口角辺りを右の親指で少し強めに擦った。リップとお茶のせいで潤いを持った唇が、採れたてのフルーツみたいだ。美味しそう、だなんて言ってしまえば変態だと思われるだろうか。


 禁断の実に惹かれた某有名男女はきっとこんな気分だったかもしれない。ダメだと分かっていながらも、一度でも味わってみたいという欲求を抑えられなかったんだろう。

 梨沙子の彼氏はよくできた人間だ。本当に梨沙子のことが今でも大好きならば、きちんと我慢が出来ている。あたしはその欲望にいとも簡単に伏してしまう。


 ──そんなの、やったこともないのに。


 わずかに開いたひばりさんの唇から戸惑いが漏れでた。暖房の機械音だけが響く部屋に、三回ほどあたし達の柔らかい音が乗っかる。どうしていいか分からなくて、行方を見失った左手はとりあえずテーブルに置いたけど、ひばりさんの唇に添えた右手はどうにも移動出来なかった。


 初めて出会った犬に触る小さい子のような手つきで、ひばりさんの右手があたしの頬に触れた。

 赤ちゃんが誰にも教えられていないのにおっぱいを飲むときに、手を添えるのと同じく、あたしは気づくと目を閉じていた。ふっと薄目を開けたら、ひばりさんも同じように目を閉じていた。まつ毛の一本一本が密集してお行儀よく並んでいることまで見えてしまう。

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