第36話

 ひばりさんもその魚をぼんやりと眺めながら、唇を軽く結んでいた。


「あの一番後ろの魚って、優雅じゃないですか?」

「え、優雅?」


 ひばりさんは巾着の紐を緩めたように口をぽかんと開く。


「だって群れなくて一匹だけでも、あんなに綺麗に光りながら泳いでるんですよ。優雅って感じしません? 『あたしはあたしですが何か?』みたいに言ってそうですよね」


 一匹群れから離れたとて、その身体の色だとか光だとかは申し分なく美しい。ヒレをゆらゆらと動かしながら青い世界の中で泳ぐ魚は、あたしには優雅でそして愛おしく見えてしまった。


「……でも、ああいう魚って群れの中でいじめられちゃうんだよ」

「そうなんですか? ゆっくり泳いでるだけで、別に迷惑かけてないのに! ひどいなあ」

「……そう、だね。ふふ、梅ちゃんってやっぱり面白い」


 ひばりさんはポニーテールにした髪の毛の先を左手で撫でて、しばらく笑っていた。あたしとしては面白いことを言ったつもりはないけど、きっとひばりさんのツボに入ってしまったんだろう。やっぱりこの人は笑いのツボが浅いんだ。


 どうして少し泳ぐのが苦手なだけでいじめられなければならないんだろうか。助けてあげろとは言わないから、せめて放っておいてあげればいいのに。

 あたしはその優雅な魚をじっと目で追う。あなたのことはあたしが見ているからとエールを送った。


「……って、魚って日本語通じるんですかね?」

「……どう、なのかな。でもあの魚は嬉しいと思う」


 ──だといいな。


 あたしは先輩の手を掴んでラッコがいるプールへ引っ張る。ラッコは水面から顔を出して黒いボタンのような眼を向けてくる。ちょうど子どものラッコがお披露目になったばかりらしく、小さなラッコが親の後を追いかけていく。まだ泳ぎが下手だけど、それはそれで愛くるしいし癒された。


 そこを出て、海の中を模したスペースへと進んでいく。薄暗くなった室内を青とグリーンが混ざったような色のライトでぼんやりと照らしている。壁は全面水槽になっていてそこには鮫や小さな魚がゆらりと泳いでいた。海の底って本当にこんな感じなのかも、と思わせる。


 細長い円柱型の水槽の中をクラゲが漂っていて、ここでも彼らの個体差を感じてしまった。のんびり屋のクラゲもいれば、かさを慌ただしく動かして水の中を揺らめくクラゲもいる。


 群青色のライトに照らされて踊るようなクラゲは神秘的で綺麗だ。ひばりさんはすぐさまカメラを構えてシャッターを切る。その横顔を見ながら、あたしの好きな顔だと再認識した。


 クラゲをバックにツーショットを撮りたいとおねだりしたら、ひばりさんはこの前のコンクールのときみたいにカメラを持ったまま腕を上にあげる。上手く撮れるかなとはしゃいでいたら、近くを通った水族館のスタッフさんが写真を撮ってくれた。


 少し薄暗くなった水族館の中はあたし達にとって都合がいい空間だった。ただの仲良しな女子同士のものとは違う、簡単に離れてしまわないような繋ぎ方に変えて順路を進む。

 あたし達は普通の男の子と女の子のようにお日様の下で手を繋いではいけないと、ひばりさんは言っていた。


 だからこうやって暗い場所だとか、誰もいないところだとか、ふたりきりのときだけ特別な繋ぎ方をする。なぜそうなのかは分からないけど、ひばりさんはそういうものだと思っているらしい。


 あたしはひばりさんにその理由を深く問い詰められなかった。同性愛なんて気持ち悪いだけ、とひばりさんが放ったひと言に既に集約している気がしたから。

 あたしを否定しているだとかそういうわけではなく、ひばりさんは気持ち悪い存在になりたくないんだろう。だけどあたしの気持ちにも応えようとしてくれている。──と、これはあたしの妄想でしかないけど。


 ──でもそれって、ちょっと寂しいな。


 外に出ると空にはいくつか星が煌めいていて、周りも真っ暗だ。混み合うバスに揺られながらあたし達は駅前まで移動する。


「ひばりさん、今日楽しかったですか?」

「うん、すごく楽しかった」

「よかった! あたしもです」

「写真もたくさん撮れたし。また現像できたらあげるね」


 バスは渋滞に捕まってのんびりと進んでいく。遅れており申し訳ございません、と運転手が機械的にアナウンスするけど、あたしはむしろそれでいい。もうしばらく到着しなくていいんじゃないか。

 混んでてよかった、と小さく漏らすとひばりさんは目尻を下げて「同じく」と返してきた。

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