第33話
その数日後にひばりさんと会って、一緒に昼ご飯を食べた。ふたりきりの空き教室で食べるお弁当は、いつもと変わらないはずなのに美味しい。それからひばりさんの連絡先も手に入れた。
ひばりさんの携帯電話は角ばった形の折りたたみタイプ。メタリックブルーのシンプルなカラーでストラップはひとつもついていない。あたしの携帯電話にぶら下がる楽器モチーフのチャームを見て可愛いと褒めてくれた。
ひばりさんはもうすぐ大学の推薦試験だし、あたしもコンクールが控えているので互いに忙しく過ごしている。その分メールや電話で連絡を取り合って、少しずつお互いのことを知っていった。
ひばりさんも昔ピアノを習っていたけど自分には向かなくて辞めちゃったとか、カメラはお父さんの影響で始めたとか。大学は東京の写真学科があるところに進学する予定だとか。じゃあ来年からは遠距離恋愛だとこぼしたら、ひばりさんから泣き顔の絵文字だけが届いた。
コンクールを翌日に控えていて、あたしもさすがに不安が拭えないので勇気を出して小夜にピアノを一時間だけ貸してくれと頼んだ。小夜は思いの外すんなりとその椅子を明け渡してくれた。こんなことなら不満を募らせずにさっさとお願いしていればよかったと、あたしは拍子抜けした。
学校のグランドピアノに比べれば音も響かないし、テンションも上がらない。そのはずなのにあたしの指はこうも軽く動いている。調子がいいときって、何事もうまくいくもんだ。
翌日のコンクールでも今までで一番の出来と自負するくらいには弾けた。その理由は間違いなく──客席にひばりさんを見つけたからだ。受験も控えているというのに、あたしのために時間を作ってくれたという事実に感極まる。
あたしはロングワンピースの裾を持ち上げて、出番が終わるなり客席へ走る。ちょうどひばりさんが席を立とうとしていたところを呼び止めた。
「あ、梅ちゃん。すごくよかったよ、お疲れ様」
「へへ……ひばりさん見つけたから頑張っちゃいました」
「……そっか。でも頑張れたのは梅ちゃんが毎日練習をした成果だと思うな」
ひばりさんは背中を覆うほどの長い髪の毛を今日はハーフアップにしており、結び目のところにはゴールドのマジェステが光っていた。いつもは緩くウェーブがかった黒髪をそのままにしていて、それもそれで神秘的な美しさがあるけど、こうやってアレンジをしていると普通の女子高校生なんだと思い知らされる。まあ、つまり可愛い。
そんなひばりさんに褒められてそわそわするけど、あたしにも砂ひと粒程度のプライドはあるので犬のように尻尾を振って喜ぶのは抑える。
「撮影禁止じゃなかったら、写真撮りたかったなあ」
「そうですねえ。あ、じゃあ今ロビーで撮りませんか」
あたしはひばりさんの手を引いて少し混み合うロビーに出た。子どもから大学生まで、男女問わずにおめかしをしている。その中をすり抜けるのはあたしにとって慣れっこではあったけど、ひばりさんは戸惑っていた。
人を上手く避けられないらしく、そんなことで東京なんて行けるんだろうかと心配になる。これはひばりさん自身も悩みの種ではあるそうだ。
そんな話をしながらロビーの端っこにあるセメントの太い柱に寄りかかる。ひばりさんがダークブラウンのトートバッグからカメラを取り出していつものようにあたしに向ける。レンズに向かってダブルピース。二枚写真を撮り終えて、ひばりさんはカメラを鞄の中に戻そうとするのでその手を引き留めた。
「ひばりさん、ツーショットで撮ってくださいよお」
「え?」
「記念に! あ、カメラで難しかったらあたしの携帯で……」
ひばりさんは首を横に振ると右手でカメラを高く掲げる。ひばりさんに近寄ると今日は桜ではなくて金木犀の香りがうっすらと漂って、それが胸の奥にゆっくりと腰を下ろす。この香りはしばらく居座ったままになるんだろう。
シャッターを切るまでの時間が長く感じる。カシャ、という音がするとひばりさんは離れた。一度目は顔が半分切れていたので撮り直して、二度目は成功した。
──残念だ。
そんなあたしの感情なんてひばりさんはつゆ知らず、上手く撮れたねとカメラに画像を表示してくれた。
「じゃあ、私そろそろ帰らなくちゃ。今日は楽しかったよ」
「あ、はい……あ、あのひばりさん。受験が終わったらたくさん遊びましょう! あたし、ひばりさんといろんな所行きたいです」
「……うん、そうだね。ふふ、受験頑張れそうだよ」
「はい! ひばりさん、頑張ってください!」
ひばりさんは薄くブラウンのアイシャドウが乗った目を細めた。それがゆっくりと開かれる様子から目が離せなくて、まるで花が開くように見えた。瞳は水面に映る月みたいだ。
あたしはひばりさんの背中が見えなくなるまで出口の近くに立っていた。ひばりさんが見えなくなるまでに、四回くらいひばりさんは後ろを振り向きその度にあたしに向かって手を振って、あたしもそれに振り返す。離れていくにつれてひばりさんの口はだんだんと閉じられていって、最後に振り返ったときには緩く結ばれていた。
それに気づいたら、あたしはどうしようもなくだらしない顔になった。
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