第15話
夏休みに入ってもあたしは学校に通っていた。お盆まではみっちり補習授業があるからだ。授業は午前中で終わるとはいえ、早起きは辛いしなぜ夏休みにまで勉強しているんだろうと疑問が振り払えない。その中で模試も受けさせられて、マークシートを塗りつぶす作業に肩がこる。あたしはまだ十代だぞ、肩こりに悩まされるなんて。
授業が終わって、昼食を取る。弁当箱を開くと一面に黄色い卵の絨毯が敷かれている。真ん中には歪んだケチャップのハート。あたしはそれを躊躇なくスプーンでほじくり、下に隠れていたケチャップライスを卵と一緒に口に運んだ。お母さんのオムライスは絶妙な塩加減で美味しい。
梨沙子はまた部活のレズの先輩について愚痴をたれている。可愛いと言いながら抱きついてくるのが気持ち悪い、とか。あたしも同じことを妄想の中で桜田先輩にしてしまったので、あまり笑えなかった。
いや、でもいいんだ。あたしはもうキモくなんかない。ただ先輩のことを好きなだけ。そう、それだけ。先輩以外の人にはそんなことをしたいと思わない。
梨沙子は弁当を食べてから部活へ向かった。新人戦のメンバーに選ばれるかもと意気揚々と話していたので、頑張ってねと見送って、あたしは第二音楽室へ向かう。
いつもの通りドアが解放されていて、誰もいないのでピアノ弾き放題。夏休み入ってからというもの、小夜が家のピアノを独占しているので全然練習が出来ていなかった。ピアノの先生もあたしの練習不足には少し困った様子で、「梅ちゃんも上手なのにねえ」とこぼしていた。先生は小夜が一生懸命なのも、あたしがこんな人間なのも、あたしの家の暗黙のルールも知ってくれている。
先生に指導してもらうからには、あたしもそれなりに練習をしていかねばならない。なのであたしは音楽室でしこたまピアノを弾いて帰宅する。
今、あたしが練習しているのはドビュッシーの『月の光』だ。この前『雨の庭』を練習したのがきっかけで、ドビュッシーの他の曲が弾きたいと先生におねだりした。なぜかというと、ただ調子に乗ったからだ。
雨の庭が弾けたときの達成感は半端なかったので、あれをまた味わいたい。秋のコンクールでは自由曲として『月の光』を弾く予定。ステージの上で弾き終えた瞬間のことを想像すると……テンション上がる!
あたしは身体を大きく揺すりながらピアノを弾く。テンションが上がるとあたしはいつもこうだ。そのせいで楽譜をまともに見ないことがあるのでよく注意を受けるが、テンションが上がると止められない。
弾き終わったところで、ふうと息づくと背後から拍手が聞こえる。誰もいないはずに音楽室で拍手?
──こわっ!
あたしはゆっくりと振り向く。長い黒髪とうちの制服が目に入って一瞬どきっとするけど、それは違う種類の心臓の跳躍に変わった。
「すごい迫力だった」
入口に桜田先輩が立っていた。一瞬幻かと思ったけれど、こちらに近づいてきて、夏なのに桜の香りがしたのを感じ取ると現実だと認識した。
「わ、先輩っ! どうして?」
「補習と、あと職員室で先生と入試のこと話してて。外見たら入道雲が綺麗だったから、撮りに来たの。そしたら……すごい迫力のピアノが聞こえてきたから」
「そうなんだ……。おひっ、お久しぶりです!」
妄想ではない本物の先輩に会えたことで、あたしは一気に不審者になる。それなのに先輩は訝しむこともなく、いつものように優しく接してくれた。
あたしはそっとピアノから指を浮かせたが、右の人差し指の第二関節辺りがポキッと鳴った。それからじわりと痺れるような痛みが走って、自分のオーバーワークを痛感する。調子に乗って、適度な休憩も挟まずに弾きすぎてしまったかもしれない。
あたしは右手をぶんぶんと振ってみる。人差し指だけおばあちゃんになったみたいに力が入らない。
「大丈夫? 指、痛いの?」
「いえ、大丈夫です。でももう練習はきついなあ。そろそろ帰ろうかな……あっ、先輩ももう帰りますか?」
「うん。写真も撮れたし」
「じゃあ、途中まで一緒に帰りましょ!」
あたし、なかなか積極的だ。でもこの気持ちは先輩に悟られてはいけない。あたしはあたしをキモいとは思わないようにするけど、央ちゃんみたいに桜田先輩だって──。それを考えるとやっぱりあたしは折れてしまいそうだ。
あたしは先輩にとって可愛い後輩であり続けなければならない。そうでなければあたしと先輩の間には埋められない距離ができてしまうかもしれないから。
「あ、梅ちゃん。そういえば私のこと勝手に撮ってたでしょ。家に帰って写真見たら驚いた」
「えへへ……バレちゃいました?」
「目は半開きだったし、髪も風でボサボサだったし……もう、変なところ撮らないでよ」
「ごめんなさい。でも、あたしはあのとき綺麗だって思ったから……撮ったんですけど……ね」
うっかり本音が漏れてしまった。あたしの口は閉め方の甘いがま口財布みたいだ。大切なものをきちんとしまっておかなければならないのに、少しの不注意で中身がころんと飛び出してしまう。
「綺麗? そんなことないよ」
「うそだあ。それだけ美人なのに」
「そうかなあ。私、自分の顔、好きじゃないんだけど」
桜田先輩はぷくっと頬を膨らませてまるで小さい子みたいだ。いつもは大人っぽくてワルツが似合いそうな雰囲気なのに、今の先輩にはワルツの中で転んでしまいそうな幼さがあった。
「梅ちゃんの方が可愛いよ」
そう言うなり桜田先輩はさっとカメラを構える。いつものあたしはカメラの前でどうしてたっけ。先輩がいきなりそんなことを言うので、あたしはフリーズしたパソコンみたいに頭の中でエラー表示を出し続ける。
動けなくて仁王立ちしたままのあたしに向かって、先輩はゆっくりとシャッターを切ってから首を傾げた。肩を流れる黒髪がすとんと右側に落ちて、たったそれだけなのに、あたしは見逃せなかった。
どうして先輩は髪の先まで綺麗なんだろう。そんな先輩がどうしてあたしを可愛いなんて言うんだろう。
──いや、これはお世辞だ。先輩は優しいから。
ふっと冷静になったところで、あたしは両の手でピースサインを作ることができた。
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