第16話

 校舎を出てから体育館の横を通っていくと、おーいと元気な声が聞こえた。体育館の小窓から梨沙子が呼びかけている。窓にはめられた鉄格子を握る梨沙子が、囚人みたいに見えてそれが少し可笑しい。


「梅、こんな時間までなにやってんの?」

「ピアノ弾いてたんだ。せっかく学校来たし、グランドピアノ触りたくて」

「あはは、さすが梅。……えっと、隣の……三年生の先輩?」


 梨沙子は制服のリボンをちらっと見た。部活にも入っておらず、ただ放課後音楽室でピアノを弾きまくっているようなあたしが三年生の先輩と歩いていることが不思議だったんだろう。しかもこんなに綺麗な先輩と。

 うちの学校で美人の五本指に入る、と以前梨沙子が話していた。でも梨沙子は桜田先輩の顔を知らない。


「梅ちゃん、お友達?」

「あっ、はい。同じクラスの梨沙子です。梨沙子、えーと、桜田先輩だよ」


 梨沙子は「ああっ!」と手の平同士をぱちんとぶつけて、また脱獄を夢見る囚人みたいに鉄格子を両手でぐっと握った。すっかり錆びついたそれを梨沙子は気にも留めない。

 梨沙子に上から下までじろじろと見られた先輩は、なんだか居心地が悪そうにしている。


「うわあ、本当に綺麗な人! 美人な先輩って有名だけど、本当だ」


 桜田先輩は苦笑したまま、ぺこりと小さく会釈する。褒められているのにあんまり嬉しくなさそうなのは、やっぱり自分の顔が好きじゃないからだろうか。


 体育館の中から梨沙子を呼ぶ声が聞こえると、梨沙子は短い襟足をあたし達に向けて駆けていく。キュキュッと体育館の床とシューズが摩擦する音がしたので、あたし達も校門へ向かって歩きだした。


「先輩、いきなりごめんなさい。梨沙子、悪い子じゃないんです」

「え? ああ、うん。大丈夫。お友達も可愛い子だね」


 ──え、梨沙子のことも褒めるんだ。


 先輩は何気なく言ったんだろう。でもそれがあたしにとっては面白くない。先輩の今のひと言は先ほどの「梅ちゃんの方が可愛いよ」が、お世辞である可能性をより濃くしてしまった。梨沙子のことは友達として大好きだけど、今少し嫌いになった。


 確かに梨沙子は美容に力を入れているし、色白だし、顔が小さくてショートカットも似合うし、バスケ部だから身長高いし、誰が見ても確かに梨沙子は……可愛い。桜田先輩が褒めることはなんら不思議なことじゃない。


 対して、あたしは麗子像にそっくりと昔から言われ続けている。顔がまん丸で、目は大きくなくどちらかといえば切れ長。これまであまり気にしたことはなくて、麗子像のこともそんなに嫌いじゃなかったけど、今少し嫌いになった。麗子に罪はないのに。


「……どうせ、梨沙子の方が可愛いもん……」


 あたしは先輩から顔を背け、真っ黒なローファーに向かってそう吐き捨てた。あたしのオンボロがま口財布はきらきらの小銭をばらばらと落としていく。


「……梅ちゃん、すごく可愛いよ」

「もう、そういうのいいです……」

「可愛いってば。すごく、すごく可愛いと思うよ」

「うそだあ」


 あたしはこれまで恥ずかしながら恋愛という恋愛をしてきたことがなかったので、恋するあたしのことも知らなかった。ぼんやりと好きな男の子はいたけど、多分これほどはっきり自覚したのは今が初めてだ。恋愛をすると、あたしは面倒くさい女になるらしい。


「……可愛いよ、すっごく。だから……」


 桜田先輩は突風で靡いた髪を押さえた。その横顔に見惚れていたら、目の前をビュンと赤い車が通り過ぎて行って、危うく轢かれそうになった。歩行者優先という言葉を知らないんだろうか。

 多分、車のパーツを何かしら改造した車だろう。央ちゃんが前に話していた気がするけど、詳しいことは忘れた。おじさんのくしゃみみたいに大きな音とインパクトを残してから、その車は通り過ぎる。


 おかげで先輩が何を言ったのかまったく聞こえなかった。可愛いよ、というところまではちゃんと拾えたけど。


「びっくりしたね。ああいううるさい車、私嫌いだなあ」

「ですね。あたしもうるさい車嫌いです」


 やんなっちゃうねえ、と先輩は眉毛を下げていた。

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