3 夏休みの憂鬱
第14話
それからというもの、あたしの頭の中は桜田先輩でいっぱいになってしまった。幸せな妄想から、悲しい妄想まで、あたしの頭の中は大きな映画館みたいに種類豊富なものが揃っている。ただ、あたしの気分次第で上演内容は変わるけど。
桜田先輩がかっこいい男の人と手を繋いで、デートなんかをして。おしゃれなカフェで互いにフルーツパフェを食べさせあって、彼の口の端についたクリームを取ってあげるのかな。あたしを撮ったあの高そうなカメラで彼氏のことも写真におさめて、きっと大切に保管する。そんな妄想をするとあたしは映画館でポップコーンを投げ飛ばし、親指を下に向ける。
万が一──桜田先輩もあたしのことを好きだと言ってくれるなら。かっこいい男の人のキャスティングは新人女優の中林梅に変更だ。先輩のカメラはあたしでいっぱいになって、ふたりで手を繋いで夕陽に染まる。桜田先輩、だなんて堅苦しい呼び方じゃなくてひばり……さすがに呼び捨てはできないから、ひばりさんとか。そう呼んだら先輩は女神様みたいな微笑みをあたしに向けてくれるのだ。
デートの最後には高級ケーキ店のタルトの苺みたいに紅くて、つやつやのあの唇にキスをする。初キスはレモンの味と昔の人が言っていた気がするけど、桜田先輩はもっと甘いと思う。
そんな妄想をしながら、あたしは二段ベッドの上で唇を尖らせる。はっと気がついたらそこに先輩はおらず、白い壁がズンと迫ってきているだけだ。妄想は日に日に具体性を帯びていって、もはやあたしは先輩と付き合っているんじゃないだろうかとさえ思えてくる。あたし、なかなかに危ない。
よくストーカー殺人とかニュースで聞くけど、あの殺人犯はきっとこんな風に妄想を膨らませて、現実との区別がつかなくなって犯行に及んだんだろう。まさか、ストーカー殺人犯の気持ちに寄り添ってしまう日が来るとは……いいや、あたしは先輩を殺したりなんてしないし、つけ回したりもしない。ただ、好きなだけ。
そんなことを繰り返しながら、あたしの先輩への思いは空気を注入するビーチボールみたいに膨らんでいく。いつか割れてしまうんじゃないかというくらい、それはもう勢いを増していった。
夏休みが始まって、桜田先輩に会えなくなったのが寂しい。寂しくても腹は減るので食糧を調達すべく、あたしは白い無地の半袖シャツに夏の空を落とし込んだようなスキニーデニム、そして爪先が擦り減ったサンダルを履いて近所のコンビニへ向かう。髪はとりあえず手で押さえつけただけなので、風が吹くとどうなるか分からない。
家を出たら央ちゃんとマンションの入口でエンカウントした。央ちゃんは部活帰りだったらしい。
先日の電話以来、央ちゃんとは顔を合わせていなかった。正直会いたくはなかった。あたしは出来るだけいつものあたしを装って、おつかれさまー、と手を振りそのまま央ちゃんの隣を通り過ぎる。
「あのさ、梅。なんか怒ってる?」
央ちゃんがあたしの右手を掴んでそう言った。怒っているわけじゃないけど、央ちゃんに対して穏やかな気持ちを持てないという点では、央ちゃんは間違っていない。あたしは今、普通に振る舞ったはずなのにどうして分かったんだろう。
「お、怒ってなんてないよ。どうして?」
「この前、いきなり電話切ったし、メールも無視だし。怒ってないならどうしてそんなことすんだよ」
それは、央ちゃんがレズはキモいって言ったから。あたしはそんな央ちゃんが途端に怖くなって、これ以上話したくなかった。
「あはは、眠くなっちゃってさあ。もう無理って思って電話切っちゃった。ごめんね」
「梅、何か隠してるだろ。そんなん無駄だぞ。俺には分かるんだぞ、何年の付き合いだと思ってんだよ」
──何でも分かるみたいな顔してる……何も分かってないくせに。
あたしはあたしなりにあのとき反省した。央ちゃんなら何でも『大丈夫』と言ってくれるもんだと決めつけて、あたしはキモくないんだって言わせて安心しようとした。
本来なら、あたしはあたしをキモいだなんて思ってはいけない。それはあたしの、桜田先輩への気持ちもキモいのひと言で片づけてしまうことになるから。それはやっぱり嫌だ。あたしはあの人がただ純粋に好きだ。
でもそれを央ちゃんに認めさせようというのは違う。それは分かっているけど、どこかで諦めきれない部分もあった。でも、あたしはあたしの気持ちに、自分でちゃんと向き合うことにした。
「……央ちゃんにはもう関係ないと思う」
「はあ? 何だよそれ。梅が相談してきたんじゃん」
「相談相手を間違えたみたい。忙しいのにごめん」
あたしは思いきり央ちゃんの手を払おうとしたけど、央ちゃんの力は信じられないくらい強くて離れられなかった。央ちゃんはあたしより弱虫で、軟弱だったのに、いつの間にか央ちゃんの目線はあたしよりもぐんと上にあって、まるで別の男の人みたいだ。
「梅、なんか変だよ。どうしたの」
「変じゃないよ! 央ちゃんのバカッ!」
バカッ、という言葉を放った瞬間に央ちゃんの手がするりと解けた。強力な腕から力を抜くような呪文だったんだろうか。あたしはすぐさま央ちゃんを置いてその場を離れた。央ちゃんはあたしの名前を呼んでいたけど、あたしは一度だって振り返らない。
バカはあたしだ。央ちゃんは何ひとつ悪くなくて、強いて言うならあたしを否定するような言葉をぽろっとこぼしたくらいで──でもそれは央ちゃんの考えってだけなのに。
──……あたしは何をこんなにいらついているんだろう。自分で向き合う覚悟はできているはずなのに。
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