第12話
終業式でお昼前にホームルームが終わったのをいいことに、あたしは音楽室でピアノを弾いていた。時間が経ってから梨沙子の話は毒みたいにじわじわと効いてきて、いつもよりも指の運びが鈍くなっている。毒で痺れて死んでいく人はこういう感覚なんだろうか。意識が朦朧として、そして倒れる──なんて。
梨沙子が言うようにあたしはやっぱりおかしいんだろうか。そんな問いかけをしておきながら、あたしはそれに猛烈に反発したくなる。あたしはただ先輩が好きなだけだ。ああ、でも……。
梨沙子になんだか偉そうなことを言っておきながら、あたしはこんなにもぐらついている。すっかり毒が身体の中を侵していた。
毒に塗れた身体でまた鍵盤を叩くけど、ピアノはコラッと怒鳴りつけるみたいな外れた音を出していた。
「おやあ、頑張っているねえ。ドビュッシーかい」
音楽の行原先生がのっそりと入ってくる。胸元には丸いべっ甲の飾りがついたループタイ、パリッと糊のきいた白いシャツを着ている。おじいちゃん先生だけどいつも品が良くて小柄で可愛いので、生徒から人気がある。
「あ……すみません」
「いやいや。夏休みもずっと開けているから、好きなときに弾きにおいで。いつも熱心に練習しているようだから」
「あれ、聴いてたんですね」
行原先生は目を細める。さすがはグランドピアノ、遠くまで音が響き渡るらしい。とはいえ、職員室までも聞こえるもんなのか。職員室は階段を降りて、旧校舎の廊下を渡り新校舎に入って……とりあえず音が届くほどまでは近くないのに。
「僕の秘密の休憩場所があってね。そこだとピアノの音がよく聞こえるんだ」
「そうだったんですね。下手くそだから恥ずかしいです、あはは」
「そうだねえ、技術的には甘いところがあるけど。でも僕はあなたのピアノ、好きですよ」
行原先生は近くにあったパイプ椅子を広げて座ると、さあ、と膝に両手を乗せた。二、三本残った頭頂部の白髪が風でそよそよと靡いているのが気になりつつ、あたしは鍵盤へ向き直る。
先ほど弾いていた曲をもう一度。不思議と肩の力が抜けてスムーズに弾けた。少し間違えたけど。それでも行原先生はちゃんと拍手を送ってくれて、こんな演奏にも「ありがとう」と微笑みかけてくれる。
あたしはスカートの裾を持ち上げて深々とお辞儀をした。
「あなたの演奏は真っ直ぐだね。小手先がない、素直な演奏だ」
「演奏に素直とかあるんですか? というか、それは技量不足ってこと……?」
「あはは。僕は褒めてるんだよ。あなたは素直さを忘れてはいけないよ。それはあなたの武器だ」
──まったく褒められている気がしないんだけどな。
でも素直さはあたしの武器らしいので今後も大切にしていきたい。よく分かんないけど。
先生はしばらくあたしのピアノを聴いて、ときどき弾き方のコツを教えてくれた。あたしが失敗するところを根気強く丁寧に。レッスン料を払わなくてはいけないのではと途中で思い始めたので、あたしは鞄からコンビニで買った鈴カステラを二つ、先生に差し出した。牛乳が欲しくなるなあ、と先生は満足そうに食べている。甘いものには目がないんだとか。
先生の特別レッスンが終わる頃、空の色がほんの少し鮮やかさを失くしていた。時計も思ったより進んでいる。
「わっ……こんな時間! 先生、付きあってもらってありがとうございます!」
「いいのいいの、僕も楽しかったから。また聴かせてね」
職員室まで先生と一緒に階段を降りていく。
──素直さは、武器。
胸の中に浮かんだその言葉にめいっぱい外の空気を注いであげた。膨らむ胸の辺りが苦しいけど、すごく気持ちがいい。
あたしは何かに許されたみたい。でも、そもそも許される必要なんてあったのかとも思う。
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