第9話
だけど先輩はあまり楽しそうには見えず、寒い冬を必死に耐えているような顔をしている。なんでそんなに悲しいのと肩を揺さぶって問い詰めたくなった──引かれるからやってはいけないと理性があたしの肩を羽交い締めにしている。
「桜田先輩!」
あたしは偶然見つけたふりをしながら駆け寄った。先輩は一瞬だけカメラから手を浮かせたけど、またいつもみたいに丁寧に包んでからあたしの名を呼んだ。どうしてここにいるのかと言いたげな顔をしている。そりゃそうだ。
先ほどの顔は忘れたふりをすることにした。今日で会うのが……何回目だろう、とりあえず片手で数えられるのは確かだ。引かれないように、落ち着いた対応を心がける。
「会いたかったです! あたしの写真、見てほしかったんですよお」
「写真?」
「へへ。いい感じのフォトスポットを見つけたら携帯で撮るようにしてたんです。ちょっとブレてるのもあるけど……」
あたしは『フォトスポット』と書かれたフォルダを選んで、先輩に携帯電話を渡した。画面にはこれまでに撮りためた写真が縮小されて並んでいる。
よくよく見ると、央ちゃんが飼っている文鳥の『だいふく』の写真も何枚か混ざっていた。これは入れるフォルダを間違えた分だけど、桜田先輩は「可愛いね」と言いながら頬を緩ませる。だいふくは央ちゃんにすごく懐いていて、央ちゃんの手や肩に乗っかっては真っ白な身体を揺らして歌う。よく動く子なので、躍動感しか写っていない。
「ここ、第二音楽室?」
「あっ、そうです。西陽が差し込んでいい感じだったんで撮ってみました」
「素敵。私も今度撮りに行こうかな。……この写真は、どこ? 校内だよね」
「これは……あっ、教室の窓から見えた景色です。ちょっと変な色の空だったから撮ってみたんです…あと、個人的におすすめなのは……」
先輩の横から覗き込む。写真を指差して説明をしていると、先ほどよりも先輩の声が耳に直接飛び込んでくる気がした。それに気づいた途端にじわりと脇汗が滲む。距離が近づいて熱気が生まれたのか、いやそんなはずはない。あたしも先輩もそこまで発熱していないから。
クレシェンド記号を置いたみたいに胸のあたりの音がだんだん大きく鼓膜に響いて、頭を突き破っていきそうだ。もうどこで何がこんなに鳴り響いているのか分からなくなる。
そんなあたしのことなどつゆ知らず、桜田先輩は写真を開いては説明を求めてくる。目のラインに沿ってぎっしりと詰まったまつ毛を二回くらい上下に動かして、頬を染めた。先輩の肌にうっすらと汗が滲んでいることまで見つけてしまう。先輩の肌を守るように薄く乗った粉すら邪魔に思えてくる。
「ありがとう、梅ちゃん。夏休み、校内で撮ってみようかな」
「あっ……はい! へへ、いい場所見つけられてよかったです」
「私、梅ちゃんより長くこの学校にいるのに、知らないこともあったんだね。卒業前に知れてよかったよ」
「へっへー。あたしのこと、フォトスポット名人って呼んでもいいですよ」
あたしが渾身のドヤ顔を先輩に向けたら、先輩はすぐにカメラを向けてシャッターを切った。
──え、そこでシャッター切るの?
フォトスポット名人のドヤ顔があまりに素晴らしかったからと先輩は人をばかす狐みたいな顔を向けた。こんな顔の先輩は初めてだ。
「じゃあ、今日もピアノの練習頑張ってね」
桜田先輩は髪の毛を耳にかきあげてあたしから離れていく。せっかく久しぶりに会えたというのに、もう別れなければならないなんて。別に用事があるわけじゃないけど、あたしはまだ少し先輩と話していたい。
先輩はもうあたしがまだ廊下に立っていることなんて忘れて、さっさと自分の世界に帰ってしまう。先輩は窓を開けると少し離れてからカメラを構えた。
その横顔が綺麗だ。何度見たって、綺麗しか感想が出ない。あたしにもっと先輩のことを褒めるボキャブラリーがあったらいいのにと悔やまれる。
「いいなあ」
あたしの声に先輩が振り向いてくれた。きょとんとしている。そりゃそうだ、急にそんなことを言われたら誰だってびっくりする。
「……カメラに興味があるの? 撮ってみる?」
「えっ?」
──カメラじゃなくて。
桜田先輩は首にかけていたカメラを外して私の手に握らせる。夏なのに先輩の指先は氷みたいに冷たくて、あたしの肌との温度差に震えそうになってしまった。指先が冷たいのは、辛くないんだろうか。
「嬉しいなあ、興味持ってくれて」
──すみません、違うんです。
金持ちの家で飼われている血統書つきの気高い猫かと思いきや、先輩はおもちゃを与えられてじゃれる普通の子猫のようにはしゃいでいる。そんな状況にどうしていいか分からずに、あたしはカメラを持ったままただ立ち尽くす。
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