2 ざわめく夏
第8話
写真をもらった日から桜田先輩とは会わなくなってしまった。
梨沙子から名前を教えてもらったくらいだから実在しているのは間違いないけど。先輩のあのさくらんぼみたいな唇で『実は春の妖精で、夏になったら消えるの』とでも言われたらあたしは何ひとつ疑うことなく、見送ってしまうかもしれない。それくらいに会わない。
あたしはときどき用もないのに校内をうろうろしては桜田先輩を探した。一気に暑くなって体調を崩していないかとか、新しいものまねを習得したから見てほしいとか、もうちょっとお話がしたいとか考えている。
それともやっぱりあたしに引いてしまっているのだろうか。あたしのこと嫌いですかと訊ねたときの、先輩の困ったような顔が頭の中にポップアップする。首を横に振っていたけど、いや正確にはちょっと斜めだった気もする。縦に振ろうとしたけども出来なかった、そう思えてくる。
校内をぐるっと一周してからあたしは第二音楽室に行くようになった。そしてグランドピアノを弾く。窓を開けていると西陽と、お気持ち程度のそよ風が入り込んであたしの指先は汗で滑る。
長年ピアノを弾き続けてすっかり固くなった指先をスカートで拭いて、またピアノを弾く。この前ピアノ教室で上手く弾けなかった曲──ドビュッシーの『雨の庭』──先生に半分冗談で弾いてみたいと伝えたら、少し悩んでからいいわよとあたしに楽譜をくれた。
あたしは小夜ほど上手くないけども、弾きたいものを弾ける自由があった。雨の庭はあたしにとっては難関曲で、指の運びが上手くいかないし、今は汗で滑って尚更弾きづらい。ああ、もっと練習しておけばよかったなあと後悔する。
あまり長く弾きすぎるとあたしは集中力を欠いてしまうので、ある程度のところでやめておく。休憩がてら背伸びをしながら窓から運動場を見下ろした。
もう陽が傾きかけている。空と雲が混ざりマーブル模様になっている。薄い青とオレンジの中に、クッションの中身をぶちまけて羽だらけにしたような空。いろんな色を一気に詰め込んだみたいで、少しだけ気持ちが悪かった。
でも、これって芸術みたいなものかもしれない。よく分からないけどあたしはその光景を携帯電話で写真に収めた。ピロリンと軽快な電子音が静かな音楽室に響いて、あたしの携帯電話の中には気持ち悪い空が残った。
写真として残ると、気持ち悪い空ですら芸術っぽく見えてくる気がする。先輩があたしを写真の中に収めたときみたいに。
あたしはなんの変哲もない音楽室の中を撮ってみた。机が規則正しく並んでいて、黒板があって、音楽再生機器があって、たったそれだけ。薄暗くて西陽だけでどうにか照らされている。こんな光景はどこにだってありふれているのに、写真として切り取るとなんだか違う空間みたいだ。
先輩はこんな世界をあの高そうなカメラで覗いていたのかと思うと、先輩が覗いていた世界をもっと見てみたくなった。あたしが今見ている世界を、桜田先輩はどうやって切り取るんだろうと興味も湧く。
それからというものあたしは校内を一周しながら、綺麗なフォトスポット見つけては携帯電話で写真を撮り、いつどこで撮ったのかという記録をつけた。いつか桜田先輩に会ったら見てもらって、先輩ならどう撮るのかを教えてもらおう。
──まあ、あたしのセンスが良いか悪いかは考えないとして。
そうしているうちに夏休みを迎えようとしていた。もう終業式を数日後に控えていて、夏休み中は桜田先輩に会えなくなると肩を落としていたところだった。
桜田先輩はまた人通りが少ない廊下の窓から身を乗り出して写真を撮っていた。あたしには気づいていない。真剣な横顔でカメラを覗いては、撮った写真を確認する。先ほどからそれを何度か繰り返している。あたしは壁に隠れてその様子を見ていた。
絵画みたいに繊細な線で描かれた横顔。額から鼻、鼻から顎、その理想のラインにあたしは釘づけになる。日差しが眩しいのか時折目を細めて外を見ていて、ここからじゃ遠くて見えないけど、きっとそこではぎゅっと密集したまつ毛が揺れているんだろう。
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