第2話
その日、帰宅してからあたしはあの桜の匂いで即興曲を作った。別に譜面に残すこともしない、今のあたしが感じたことを鍵盤にぶつける。
本当はグランドピアノで部屋中に音を響かせながら弾きたいけど、残念ながらうちはそんな設備を完備できるほどリッチじゃない。普通のマンションに住む、一般家庭だ。ご近所に迷惑がかからないサイレントピアノの音を、ヘッドフォンを通して聴くだけ。耳に一枚余分な膜を張ったような音では、どうも満足出来ない。
さて、この即興曲のタイトルはどうしよう。ここは素直に『美女』とでもしておこうか。
──ひねりがなさすぎて、ちょっと面白くなってきた。
「梅姉ちゃん、また即興曲作ってる。ねえ、練習じゃないならピアノ貸してよ」
妹の
なので、ピアノの使用権は小夜が優先。そんなルールがあたし達の間にいつの間にか設けられていた。これは仕方がないことで、結果を残す人というのは大事にされて当然なのだ。小夜のピアノはいつだって丁寧で狂うことがなく、いい加減なあたしのピアノとは大違い。正しい人が偉い、と強く思わされてしまう。
「ごめんね。はい、練習頑張って」
あたしは椅子を小夜に譲って、先ほどの曲を身体に染み込ませるようにしてハミングした。
*
「梅、多分
梨沙子は昨日あたしが伝えた少ない情報からあの先輩のことを割り出した。バスケ部の先輩に聞いただけと言っていたけど、サスペンスドラマの刑事みたいだと感心する。あたしは名前も分からず、しまいには顔すらもよく思い出せなくなっていくだろう。
あの美女は桜田ひばり先輩というらしい。写真部に所属していて、うちの高校でも五本指に入る美人だとか。田舎の高校なのに美人が五人もいるのかと感心する。梨沙子が美人だといわれている先輩の名前を挙げていくけど誰ひとりとして分からないし、正直あまり興味もない。
「あたし、桜田先輩ってよく知らないんだよね。そんなに美人なら見てみたい」
「すごい美人だったよ。髪がお姫様みたいに長くて、目が大きくてー」
美人だあ、と周りがいくら騒いでも桜田先輩はきっとあの凛とした目つきを崩さないんだろう。
放課後はきちんと音楽室の場所を調べてから向かうことにした。音楽の行原先生に『どこでもいいから音楽室を教えてほしい』と伝えると、「三つあるけど」とターコイズが光るループタイを撫でながら言った。綺麗な石だと褒めると、行原先生は「僕もお気に入り」と新聞紙を思いきり丸めたように顔いっぱいに皺を寄せる。
職員室からは第二音楽室が近いらしい。迷ったときは一度職員室に帰ってくれば、この迷宮は抜けられるという攻略法も行原先生は併せて教えてくれた。
階段を上り、左に曲がって進むと扉が開けっ放しの第二音楽室を見つけた。窓からはカーテンとワルツでも踊るような風が吹き込んでおり、ピアノの前に座るとあたしもその中に混ぜてもらえた気になる。
ただ手を取ってくれるのではなく頬を撫でられているだけなのは、あたしがまだガキ扱いされているからなんだろう。そっちの社交界に入るために、あたしにはまだ何か足りないのかも。
じゃあせめて、あたしはそのワルツに相応しい曲でも奏でようか。昨日小夜が置いていた楽譜──子犬のワルツなんてどうだろう。中学の頃、あたしもこの曲を練習していて同じところで何度もつまずいていた。それでもちゃんと弾けるようになったときには思わずピアノの前でガッツポーズをしたものだ。
それから何があってか──ああ、ピアノの先生にもっと上手くなるには憧れの人になりきってピアノを弾くといいと言われて、テレビで見たジャズシンガーのものまねに没頭するようになってから、あたしは脇道に逸れた。同じ子犬のワルツを弾いているのに、そのアレンジとかピアノの弾き方がかっこよくてひたすら真似た。
それがきっかけで、『いろいろなピアニストものまね』なんてものを始めて、そうしているうちに小夜がめきめきと上達して、今や自宅のピアノはほぼ小夜のものになった。自業自得だ。
あたしは子犬のワルツに我流でジャズアレンジを加えて、ちょっと踊りにくい曲にした。それでもカーテンと風はマイペースにそよぐだけ。あたしのメロディなんてまるで無視。そういう生き方って素敵だ。
ひとしきりピアノを弾いてから学校を出ると、空は黒いベールを被ったような色になっていて、もう少し遅ければ星が見えていたかもしれない。
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