戦禍の爪痕

 それからはあっという間だった。見る見るうちにアレスの騎士団は引き上げていき、後にはパチパチと燃える残り火に煤けた匂い、それに破壊された城壁が残るばかりだ。アル・シャンマールの面々は、瓦礫を片付けようと右往左往する者、負傷者を運び出す者、と夜更けにもかかわらず目まぐるしく動いていた。


 ザイドは指揮のため立ち去ったが、シエナはあれから随分と長い間その場に立ちつくしていた。あんなに美しかった城の一部が崩されたことも、傷ついた人々が倒れていることにも衝撃を受ける。彼女はただ、むごたらしい戦禍を茫然としたまま見つめていた。その釣りがちな瞳には、もはや光が宿っていなかった。


 先ほどからぴくりとも動かないシエナを見かねたのか、傍らに立つアイシャはおもむろに切り出した。


「おひいさん。あの男……あんたに剣を向けてたけど、何か心当たりはあるのかい?」


 普段のシエナであれば関係ないと突っぱねるものを、今の彼女はあたかも溜まった涙がぽろぽろと零れ落ちていくように、疑問が溢れていく。


「そんなの、あるわけないじゃない。まさか……私を殺した方がアレス王国にとっては都合が良いということ?」


 しかしながら、口にせずとも薄々想像はついていた。人質にされていた王女が敵国に殺されたとなれば、アレス王国にとっては、周辺国からの非難を浴びずに攻め込む大義名分が出来る。たとえ、それがこじつけであろうとも。


 言葉を失ってしまったシエナに対し、女戦士は凛とした面立ちを和らげると、憐れむような眼差しを向けた。


「気落ちするな、と言うのも無理な話だよ。泣きたいなら泣くといいさ」

「……泣いても何も変わらないわよ。子供じゃないんだから、そんなことするわけないでしょ。同情は……結構よ。」


 弱々しい口調ながらも、その台詞は虚勢を張る普段のシエナらしい。その差異がおかしかったのか、アイシャはこらえきれずに笑い出した。


「またそれかい。本当に強情だね。……くっ。あははは!」

「なっ、何がおかしいのよ!」


 むっとするシエナにも構わず、彼女はどこか懐かしむような顔になった。その切れ長な目に映るのは闇色の空。女戦士が思い起こしているのは、決して明るい思い出ではない。それに気付いたのか、シエナは知らず知らずのうちに陰りを見せる琥珀色に引き込まれていた。


「いや、さ。あんた……誰に似てるかと思ったら、死んだ妹に似てるんだね。その負けん気の強いところも、妙に冷めたところも。なんか、急に思い出しちまったよ。」


 察するに、聞くのも憚られるような話だろう。その先を促してもいいものか、とシエナは躊躇した。だが、彼女が先程目の当たりにした光景と、過去に目前の女戦士が経験したことが重なるとしたなら―おのずと、その先を聞かずにはいられなかった。


「……亡くなった、と言っていたわね。」

「ああ。十年前に、アレス兵に殺されたんだ。まだ十歳だったのにさ。そういえば、生きてればちょうどあんたくらいだったね。」

「……そんな酷いことを。本当に、アレスがやったの?」


 シエナはにわかには信じられなかった。アレス王国の騎士道に則るなら、女子供は守るべき存在であり、弱き者を殺すなど言語道断だ。それはどこの国でも変わらない、人として守るべきものだと思ってきた。それゆえ、か弱い少女を同胞が殺したとは到底考えられない。いや、考えたくなかった。


「ああ、間違いないさ。アレスの国旗と、あの甲冑の紋様。この目にしかと焼き付いているよ。……思い出したくもない記憶なのにね。あたしは隠れたまま、妹が殺されるのを指をくわえて見ていることしかできなかったんだ。笑っちゃうね。自分の命の方が惜しかったんだよ。」

「……それはっ!」


 自嘲するように笑うアイシャに、シエナは何と声をかけていいのかわからず言葉に詰まった。今のアイシャは気丈に振舞ってはいるが、その脳裏には十年前の忌々しい光景が今も焼き付いて離れないのだろう。何度も何度も蘇る記憶。その度に何もできなかった無力な自分を恨み、涙し、アレス王国を呪ってきたに違いない。想像を絶する苦しみを思うと、シエナは口ごもってしまった。


「……その。た、大変だったわね。」


 長い沈黙を破ったのは、ありきたりな台詞。浅薄な言葉しか浮かばないことに、シエナはもどかしさを覚える。アル・シャンマールは蛮族と教えられ、彼女自身もそう考えてきた。皮肉なことにも、自らが切り捨てられることで、その概念を揺らがされる日が来るとは、夢にも思わなかったのだった。


 王女の振り絞った一言に、アイシャは驚いたように目を見張った。そして、声色は明るいものの、どこか寂しげな微笑を浮かべてみせた。


「なんだ。同情してくれるのかい?」

「別に。余計なお世話だったかしら。でも……今日わかったわ。お父様なら確かにやりかねないわ。あの団長の言葉が本当なら、実の娘を戦争の口実に殺そうとするくらいだもの。」


 それでも腑に落ちない部分は多い。一度は王都へ呼び戻そうとしていたのに、なぜなのか。彼女がこちらの人質になったことは知っていたのか。まだまだ確かめなければならない事はあるが、これ以上希望的観測を持つのは、不可能と言っていい状況だろう。


 やりきれなくなったシエナが尚も肩を落としていると、アイシャはそれまでの暗い雰囲気を一蹴するように、晴れ晴れとした語調で続けた。


「あーあ。なんでこんなこと話しちまったんだろうね。あんたはアレスの王女様。にっくき敵だってのに……まったく、皮肉なもんだねえ。でも、わかってるんだ。殺したのはアレス兵であって、あんたじゃない。あんたは本当になんにも知らなかっただけなんだね。そう思ったら、なんだか可愛そうになっちまってさ。」


 シエナの白い両肩に、そっと褐色の手を添えられた。異人を象徴する肌の色は、初めて会った時は畏怖の対象であり、避けてきた。だが、アイシャと言葉を交わした今、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、あたたかくて心地いいような気がして、シエナは戸惑いを覚えていた。


「だから、憎むべきなのは、あたしたちを侵略しようとするアレス王なんだよ。……あんたのことは決して悪いようにはしないさ。約束するよ。」

「……。」


 形ばかりの同情などいらないと思ってきたが、いざ寄せられてみると、何と答えるべきかもわからずに王女は狼狽していた。今まで感じたことのなかった人の温かさに、気恥ずかしさを覚える。彼女はアイシャを直視することができないまま視線を落とすと、自嘲混じりにため息をついた。


「でも、私には何の力もないってわかったでしょう? 騎士団長が殺そうとするくらいだもの。ここにいても交渉の道具にもならないどころか、あなたたちの足を引っ張りかねないわ。」

「少なくともここなら、命の保証はあるんだ。無理やり嫁がせるようなこともないし、自由に過ごせる。ま、それでも出ていくと言うなら、止めないけどね。」

「そこまでしてもらう義理はないのよ。こちらにつくって決めたわけでもないのに―」


 何の打算もない厚意に、王女は居心地の悪さを覚える。すると、何を思ったのか女戦士は赤毛の長髪を揺らして、くすりと笑った。


「ま、あんたがザイドと一緒になりたいっていうなら大歓迎だけどね。」


 何のことを言っているのかわからずに、シエナはしばらくあんぐりと口を開けていた。が、その言わんとすることを理解した瞬間、彼女は耳までかっと熱くなった。


「……誰があんな奴と。 こっちから願い下げだわ!」

「そうかい?  案外気が合うと思ったんだけどね。」


 シエナはぶんぶんと頭を振る一方で、冷静に思案していた。確かに、仮にザイドと婚姻を結べばここに居られる―と考えたところで、彼女は顔をしかめた。今や捨て駒の彼女が仮にアル・シャンマールに嫁いだところで、アレス王国が侵略をやめるとは思えない。それでは、ザイドにとっても利益がないだろう。


 アイシャはしばらくの間、百面相をするシエナを興味深そうにまじまじと見つめていたが、やがて嘆息すると今後の展望を告げた。


「まあ、これからどうするかは、おひいさんがじっくり考えるといいさ。ただ、これからはアレスがいつ攻めてくるかもわからないから、安全が保障されるとは限らない。そこも含めて、よく考えることだね」

「……わかったわ。」


 シエナは、自分に残された道を逡巡した。リュシアンは、彼女と一緒に来ることを望んでいたが、アレス王国のことを信頼しきれなくなってしまった今では、素直に戻りたいとは思えなかった。


(何かの間違いだったとしても、それを確かめるすべもないなんて―)


 行き場を失った捨て駒姫は、盤上から急に暗闇への中へ放り出されたかのようだった。彼女が生きながらえたところで、母国が次にどんな手を打ってくるのか。悲しみが癒えないまま唐突に現れた迷路の先は、仄かな灯はあるものの、先は到底見えそうにもなかった。

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