朝露に煌めく涙

 幾度目を閉じても、ヒュッと空を切るような耳鳴りと、闇夜に浮かび上がる剣先が瞼にじりじりと焼き付いて離れない。眠れぬまま目を開けると、暗闇の中には未だ殺意を纏った男が立っているようで、シエナの背筋はぞくりと粟立った。がたがたと震える指で額に滲む汗を拭う。それから、目を凝らして誰もいないことを確かめると、安堵するどころか逆に不安で胸が押しつぶされそうになった。


(……眠れるわけがないわ)


 すっかり目が冴えてしまったのか、シエナは立ち上がるとふらふらと部屋を出た。ふと、どこからか痛みに耐えるようなうめき声や呟くような話し声が微かに聞こえてくる。医務室となっている大部屋のようだ。彼女が近づいた途端、むせかえるような血の匂いに、胃がせりあがるような吐き気を覚えた。


「……おい。そこのあんた。水を……くれ。すぐ近くに、置いてある」


 絞り出すような掠れ声にびくりと身がすくむ。見ると、シエナの気配を感じた何者かが声をかけてきていた。どうやら、入口近くに横たわる怪我人らしい。小柄な体躯からしてまだ子供と言っても差し支えないだろう。こんな年端もいかない者も戦いで怪我を負ったのかと思うと、シエナも無下にできずに立ち止まった。栗色の短髪に、背中に巻かれた血の滲む包帯が何とも痛々しい。その者は腹ばいに臥せっているせいで、枕元の水を取れないらしかった。


「えっと……その。」


 シエナは躊躇った。アル・シャンマール人たちは、どう考えても攻め込んできた敵国の王女をよく思っているはずがない。おそらく、体勢のせいでよく見えていないのだろう。彼女が手助けしていいものかと逡巡している間に、入口で立ちすくんだままなのを怪訝に思ったのか、怪我人が顔を上げた。その瞬間、暗闇の中で爛々と光る赤茶の瞳がきっと見開かれた。すぐさま、激しい嫌悪の籠った色に変わる。見覚えのある少女は、シエナの姿を認めると即座に吐き捨てた。


「―アレス女が何の用だ。」

「……そのっ」


 目前の怪我人が、双子の片割れ―レイラであったと気づくと、シエナの額をつうと冷や汗が伝った。力なく臥せった弱々しい姿。語気に以前のような威勢はない。その代わりにあったのは、ぞっと背筋の凍るような恨みと憎悪だけだった。彼女は紛れもなく自らを憎んでいる。そう考えると、なんと声をかけるべきかもわからずにシエナはしどろもどろになった。


「……っ。あの」

「はっ。傷付いたあたしらを嘲笑いにきたってか?」

「違っ―そんなつもりは!」


 だが、傷を負った少女は意気消沈したシエナを鼻で笑うと、忌々しげに睨みつけた。


「あんたが来なきゃ、あたしは血を流さなかった。あたしだけじゃない。この戦いで死んだ奴もいる」

「……っ」


 自分がいなければ。その言葉は刃のようにシエナの胸に深く突き刺さった。何も間違ってなどいない。シエナがここに来なければ、アレス王国が戦争の口実に攻めてくることもなかった。何も言い返せずに俯くと、いつのまにかうわ言のような呻きが次から次へと彼女の耳に響いてきた。


「痛え……」

「くそっ、アレスめ!」

「死にたくねえよ……」

「アレスを許すな!」


 その一つ一つは決して大きくはないのに、一斉に彼女を責め立てているかのようだ。


(……違う。私は悪くない。私にはどうしようもなかった。だけど……そんなの、わかってくれるわけがない。)


 シエナの父だけがいかに悪かろうと、同じ国と括りに入れられて憎まれるのは当然のことだ。アイシャはここに居てもいいと言っていたが、他のシャンマール人たちからすれば、仲間を殺した敵国の王女がのうのうと暮らしているだけでなく、丁重に扱われているのはさぞ面白くないだろう。彼女はいたたまれなくなり、じりじりと後ずさった。


「くそっ、卑怯にも攻めてきやがって!」

「なんで侵略しようとするんだ。」

「あんな国なんか滅べばいい!」


 追いかけてくる責苦から逃げるように息を切らし、足がもつれ転びそうになりながらも、走る。いつのまにか、シエナは城門まで来ていた。崩れた赤土の城壁から朝日が指している。その眩しさに彼女は目を細めた。打ち捨てられた鎧に血溜まりの跡。光は、辺り一面に広がる悪夢のようなおぞましい残骸を煌々と照らし出している。


(……いつまで、こんな目に遭わなきゃいけないの。どうしたら……自由に生きられるの)


 いっそのこと、このままどこかへ消えてしまいたい。そうよぎった瞬間、シエナの視界がぐにゃりともやがかかったようにぼやけた。鼻の奥がつんと痛いのは、微かに残る煙のせいではないだろう。溢れそうな何かを堪えようと顔を上げるが、青緑の双眸に溜まった雫は白金の睫毛に引っかかり、今にも零れ落ちそうだった。


 シエナがそのまま崩れた壁の隙間から外に這い出ると、ずぼりと砂の中に足が沈んだ。サラサラとした生ぬるい砂は、足の甲が開いた靴へいとも容易く入り込み、歩くどころか立つことすらままならない。彼女はもどかしさを覚えて靴を脱ぎ捨てると、裸足で砂の上へと踏み出した。


 冷え込んでいたはずの空気が段々と温かくなっていくにつれ、熱砂の気温を予感させる。それでも懸命に膝から下を踏み下ろすように進んで振り返ると、抜け出た城壁はまだ目と鼻の先だった。いくらもがいても、死に物狂いで足を動かしても、砂に足を取られていくばかりで、一向に前に進んでいる気がしない。


(……何をやっているのかしら)


 砂馬の上ですら、暑さに耐えるのは無理だった。ここでの衣装に加えて暮らしに慣れてきた今なら、と思ったがやはり砂漠はどうにもならない。結局一人では何も出来ないのだ、と己の無力さに落胆したシエナは、砂に埋まるようにその場へ崩れ落ちた。


 そうこうしている間にも日が照り出し、息の詰まるような熱が彼女の肌にまとわりつく。ガンガンとこめかみが揺さぶられるような鈍い痛みに堪らず、すでに身体には力が入らなかった。



「―そんなところで、何をしている」


 背後からの砂を踏みしめる音。振り返らなくてもわかる。その冷たくも艶のある声が聞こえると、不覚にも張り詰めた気が緩みそうになり、シエナは思わず唇を噛み締めていた。


「……あなたには関係ないわ。」


 顔を上げることすら出来ずに、力なく砂に埋まった膝を見つめる。だが彼には彼女が何をしようとしていたかなど、一目瞭然のようだった。


「お前はこちらで預かると決めた。勝手に出ていってもらっては困る」


 いつだって、この男は自分の国の利益のことしか考えていないかのように、突き放した物言いをする。シエナはザイドの方を振り返ることができなかった。もし、彼の真意が言葉通りのものであったなら―きっと、彼女は失望する。心のどこかでは、捨て駒のシエナではなく、ただのシエナを見て欲しいと感じている。そんな分不相応な望みを抱いている自らに気付くと、彼女は諦めたように唇を歪めた。


「……私には利用価値がないって、もう十分過ぎるくらいわかったでしょ。あなたのお仲間も、私の事を良く思ってないでしょうし」

「誰かに何か言われたのか。」

「……。」


 勘の鋭さに愕然とする。彼女の虚勢も彼の前には無意味だ。ザイドはすぐに思い当たったのか、ふっと呆れたように深く息を吐いた。


「言うとしたら、レイラか。あいつめ」

「……彼女は大怪我したんだもの、もっともな言い分よ。このまま私に味方するなら、あなたの立場も危うくなるんじゃない?」

「この度の戦争の責任はお前にはない。お前が萎縮する必要は無い。」

「どうして……?」


 なぜそこまでして自分を庇うのか。シエナはわけがわからず彼の方を振り返った。刹那、瞬きも忘れて吸い込まれるように視線が合う。深い青に射すくめられると、真に慈しまれているかのようで、心を揺さぶられる。本当は一秒たりとも目を合わせたくないのに、自然と引き込まれてしまう。ザイドは彼女の今にも零れ落ちそうな潤んだ瞳に気付くと、はっとしたように目を見張った。


「……泣いていたのか」

「違うわ! これが、砂が目に入っただけで―」


 慌てて顔を背けようとすると、不覚にもつうと水滴が頬を伝った。それを皮切りに、後から後から、自らの意志に反して流れる雫にシエナは戸惑う。つかの間、ザイドが困ったように無骨な手のひらを伸ばした。褐色の節くれ立った指先が彼女の涙をすくう。そのいたわる様な繊細な手つきに、張り詰めていたはずの糸が緩んだ。


「誰も見ていない。今は、思い切り泣くといい」


 ふわりと彼のはだけた胸に頭を押し付けられる。あたたかな肌の感触から、トクトクと微かに震える鼓動が伝わる。戸惑いや困惑を覚える間もなく、彼女が今まで気丈に堪えていた悲哀が、堰を切ったように溢れ出した。


「うっ……くっ……ひっく」


 押さえた嗚咽がくぐもって響く中、シエナは子供のように声を上げて泣いていた。


 なぜ、ザイドは言葉にこそしないものの、シエナに優しくするのか。その問いを口にするのが怖い。きっと尋ねたとしても、「アレスの王女であるから」―その一言に尽きるのだろう。幼い頃から胸の奥にしまい込み、諦めていた感情がとめどなく溢れ出す。それがどうして今なのか。なぜこの男の前なのか。


 それを考える暇もなく、今だけは何もかもを忘れて泣きたかった。

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