Ⅱ. 邂逅の武勇詩(ハマーサ)
邂逅の武勇詩(ハマーサ)
それから、馬車はどんどん険しい峡谷へと入っていった。切り立った崖と崖にはさまれた間の、馬車がやっと一台通れるかどうかの街道を進んでいく。砂利道のせいか、足腰に伝わる振動はいつにもまして大きい。立て付けの悪い車輪は徐々にガタガタという轟音に変わり、馬車はいよいよ悲鳴をあげて壊れそうだ。ビュウビュウと崖の上を吹き付ける風は容赦なく窓を叩き、獣の咆哮のようにシエナを怯えさせていた。本当にここで合っているのかと彼女は叫びたくなるが、自分よりもはるかに地理に詳しいセシルがいるのだから、間違いないと思うことにする。
けれどもそんな彼女を嘲笑うように、唐突に馬車が止まった。同時にがたり、と御者台の方で大きな音がする。それが風にがたつく車輪の音か、はたまた馬の蹄を踏み下ろす音なのかもまるで見当がつかない。
「……どうしたんでしょうか。こんな時に故障されると、困るんですけれど。僕、御者台に行ってみます」
セシルはさっと立ち上がると、すぐに扉を開けた。途端に舞い立つ突風と砂埃に、がたりとひと際大きな音を立てて馬車が震える。このままここで立ち往生してしまったらどうなるのだろう。悪い想像を膨らませるシエナの表情が曇っていくのを見て、リュシアンは呟くように告げた。
「大丈夫です」
「……え?」
「俺が、貴女をお守りしますから。何があろうと」
シエナははっと息を呑んで彼を見つめた。その鋭い目に宿る確固とした信念を認めると、彼女は少しずつ落ち着きを取り戻し、やがてこくんと頷いた。外には赤土の岩壁が広がり、その先に続く未知の砂漠を予感させるかのようだ。
それからセシルの様子を伺おうと二人は耳をそばだてていたが、聞こえてくるのはごうごうと鳴る風とそれに合わせて軋む馬車、そして時折嘶く馬の鳴き声ばかり。
「おかしいわね……もう随分と経つけれど。オルコット卿はどうなったのかしら。」
「……静かですね。馬車の故障にしては、御者台からも何も聞こえません」
セシルが外に出てどうなったのか。あるいは御者は無事なのか。見慣れぬ景色は次々と彼女の不安を駆り立てる。そこで不意に最悪の可能性に思い当たると、シエナの背筋はぞわりと粟立った。
「もしかして……外に誰か良からぬ輩がいた、とか?」
人気のないアレス王国の外れの峡谷。そこにいるとしたら、盗賊かあるいは―
「―蛮族『アル・シャンマール』……」
彼らの国へはこの峡谷を下りて、そこに広がる砂漠から行けるのであろう。いわばこの峡谷が彼らとアレスとの境界になっているわけだ。
それから、一秒が一分にも思える時間が過ぎていく。だがこのまま待っていても不可解な状況は打破できないと考えたのか、リュシアンはおもむろに立ち上がった。
「……行くの?」
「ええ。姫様は、どうかここに隠れていて下さい。」
彼がそう言い終わらないうちに、外からは風の音に混ざって、微かに土を踏みしめる足音が聞こえてきた。はっと背筋を伸ばすリュシアンと、硬直するシエナ。そんな二人のことなど見透かしているかのように、冷たく艶のある男の声が降ってきた。
「―誰もいないな。護衛も皆、逃げ出したか?」
決して大きな声ではないのに、こうもはっきりと聞こえるだろうか。峡谷に響き渡るような声の前では、強風もかき消え、軋む馬車ですらもひたすら平服せざるを得ないようだ。
「そうだねえ。本当にこの馬車で合ってるのかい?」
今度は芯の通った女の声。それを合図に、馬車の前方から向かってくる足音はだんだんと大きくなってくる。
「間違いないっすよ。ちゃんと仕事はしてますからね」
今度はけだるげな男。合わせて少なくとも三人……いや、足音からすればそれ以上か。
「ねえ、あれ……」
シエナは図らずも自らが小刻みに震えていることに気付いた。額には冷や汗が浮かび、ただでさえ色白な顔は既に蒼白になっている。
「どうすれば……なんで、どうしてよりによって……」
狼狽するあるじの元に、騎士は頭を垂れた。何事かと目を向けると、彼の灰紫の瞳には既に覚悟が宿っていた。
「姫様はここでお待ちください。俺は奴らを片付けてきます。」
「そんな……いくら何でも無茶よ! 何人いると思ってるの?」
二人がやり取りする間も、外の輩はじりじりと馬車に近づいてきており、今にも到達しようとしていた。先程の者たちの声はまだ聞こえている。
「御者も誰もいないじゃないか。こんなところに馬車を乗り捨てていくとは、酔狂な連中だな。」
「にしては、まだ馬もついてるよ。カラム、どういうことだい?」
「さあ。俺はただ、言われた通りにしただけっすよ」
いずれこの馬車の扉は開けられてしまうだろう。このまま息を潜めていても埒が明かない。ついにリュシアンは、剣を手に馬車の扉へ手をかけた。
「だめよ! 殺されるわ」
「しっ。お静かに。……俺がいなければ誰が貴女を守るんですか?」
その一言でシエナは全てを察した。彼が自らの命を懸けてでも、責務を全うしようとしているということを。彼女は俯いたまま唇を噛み締めた。リュシアンの命を危険に晒してしまう己の不甲斐なさを悔やむあまり、絞り出した声は小さく掠れた。
「……無事で。必ず、生きて」
「―御意。」
その言葉を皮切りに、騎士はひらりと馬車から飛び降りた。その瞬間、ばっとその場にいた全員の注目が集まる。リュシアンは剣の柄に手をかけたまま、ちらりと眼前の敵を一瞥した。人数は十人程度。皆どこかの本で見たことのあるような、独特の衣装を身に纏っている。その殆どが日に焼けた浅黒い肌、そしてゆったりとした露出の多い上衣に裾の広がったズボンを身につけ、腰には湾曲した剣を提げていた。彼らは馬車の行き先を塞ぐように前方に立ちはだかっている。
「……なんだ、いたのか。」
その中心にいたのは、艶やかな黒髪の若い男だった。どこか憂いを帯びた深い青の瞳に、涼しげに通った高い鼻。冷めた微笑を浮かべた唇には、見る者を惹き付けるような不思議な魅力と色香を纏わせる。リュシアンは初めて対峙する異国の男を見ても物怖じせず、微動だにしなかった。そしてもぬけの殻の御者台を見やると、何かを察したのか静かな威圧感を滲ませた。
「―お前らに問おう。目的はなんだ?」
「見たところ、騎士か。たった一人とは、恐れ入ったな」
異国の男は余裕そうな口元を一切崩さずに、ゆったりとした口調で彼を迎えた。自らの詰問をものともしない男に、リュシアンの苛立ちが募る。彼はそれを隠そうともせず、威嚇するように剣の鍔をカチャリと鳴らした。
「質問を変えよう。お前は、誰だ」
「何か勘違いしているようだが、優勢なのはこちらだぞ騎士。いや―アレス王女の護衛、だったか。」
「……どこで、それを」
その瞬間、僅かに動揺したリュシアンの視線が泳いだ。その少々の隙を男は見逃さなかった。
「なるほど、訂正しよう。カラムの情報は本物だったようだな」
「……っ」
それを聞いたリュシアンは苦々しげに男を睨みつけた。やはり彼らの狙いはシエナにあるようだ。そのまま彼は目前の敵をどう始末するかに意識を傾けていた。首領らしき者はこの黒髪の男。背後にいる赤毛の女たちには気を配る必要もない、と即座に判断する。
「アレスの騎士。今引くなら、俺達も命までは取らない。どうだ?」
「……それで取引のつもりか?」
怖気づくことがないのは両者共に違わないが、一つ違うとするのならその余裕だ。リュシアンは目前の敵を倒すことにのみ意識を向けているが、この男はもっと先の……何か別の目的を見据えているような気構えである。
「取引ではない。提案だ。お前は圧倒的に不利な状況。大人しく逃げるのが賢明だと思うが。」
重苦しい沈黙が流れた後。リュシアンは戦いに臨む心づもりで、剣の柄を握り直した。
「……逃げることなど、許されない。俺はここで、お前たちを討つ。」
「舐めた真似を。そちらは多勢に無勢だ。たった一人でどうやって勝つつもりだ?」
「そうだよ。あたしらも相手になるんだ。」
男の背後に佇む赤毛の女が口を出したものの、腕を組んだまま未だ傍観の姿勢は崩さない。だがその気迫からは、あえて手出しをしてこないだけで、加勢しようと思えばいつでも出来るとわかった。それでもリュシアンの目は決死の意志を湛えて、眼前の敵に強い視線を投げかけた。
「馬車を気にしているようだが……中にまだ誰かいるのか。」
「……答える義理など、ない」
「まあ、いい。確認すれば済む話だ。」
男は騎士を挑発するように、一歩、二歩と歩みを進める。すかさずリュシアンは行く手を阻むように剣を抜いた。
「―動くな。そこから動けば、斬る。」
押し殺した牽制は静かに、しかし確実にリュシアンの纏う空気を変える。全身全霊をかけた威圧は、いつの間にか敵に対する殺意へと変貌を遂げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます