予定違いは予定調和
「おはようございます、姫様」
鈴を転がすような声が朝を告げる。シエナはまどろみの中からゆっくりと薄目を開けた。カーテンの向こうから差し込んでくる陽のまばゆさに、無意識のうちにまぶたが閉じていきそうになる。が、頬に触れるシーツがいつもの使い古されたものではなく、さらりとしたリネンであることに違和感を覚えたのか、徐々に頭が冴えてきた。
「……う、ん?」
そのままゆっくりと目を開けると、窓辺の人物と目が合った。首元まできっちりと留めた紺のドレスを身に纏い、ふわふわとした金の後れ毛を揺らしてミレイユが頭を下げている。どうやらシエナの起床を待ち構えていたようだ。
「お目覚めですか?」
舞い込む潮風と磯の匂いがシエナの鼻の奥までつんと突くと、彼女はようやくここが東の辺境・ロシェルではなく、旅先の港町・プレジールであることを思い出した。
「姫様、昨夜はよくお休みになられましたか?」
「え、ええ……」
侍女はたれ目がちな目尻をさらに下げて長い金の睫毛を瞬かせ、嫣然と笑った。それを見たシエナは、昨晩の違和感など微塵も想起させない彼女の様子にあっけに取られていた。
実の所、昨晩セシルとの食事を終えて戻ってきたミレイユは、ぼうっとしてどこか心ここにあらずだった。意中の相手と一緒に過ごせばこんな風になる―いわゆる“恋煩い”だと考えたシエナはそっとしておくことにしたのだが、その影響は思わぬ所で飛び火した。不運なことにも、ミレイユに髪を梳かれながら幾度も櫛をひっかけられて、その度に我に返って謝られていたのである。いつものミレイユにはおよそ考えられない失態に、シエナは驚愕を通り越してむしろ心配になっていた。
しかしながら今朝のミレイユは、そんな失敗などまるで無かったかのような洗練さで、着々と主人の身支度を進めていく。
「ええ、おかげさまで。ミレイユはよく眠れた?」
「はい、お気遣いありがとうございます。問題ありませんわ。」
流石のシエナも、昨夜のミレイユにあれこれ尋ねることは憚られた。もっとも、昼間の疲れがどっと押し寄せたのか、早々に眠りについてしまっていたせいもあるが。
「それはよかったわ。それより……えっと、あの。」
「はい? ……何でしょうか。」
今尋ねるべきか、否か。その躊躇は、ミレイユとの付き合いがリュシアンほど長くないせいもあった。葛藤する彼女をよそに、ミレイユはドレスのくるみボタンを留めるのを手伝いながら、きょとんと小首を傾げている。そんなあどけない侍女の姿を見て、何か言おうと動きかけたシエナの唇は、いつのまにかぴたりと止まっていた。
「いえ……」
あの後、セシル・オルコットと何を話したのか。喉元まで出かかったその疑問は彼女の胸の中でわだかまりとなり、ぐるぐるととぐろを巻いて留まり続けている。しかし、ミレイユがセシルに拒絶されてしまった、という可能性に思い当たった途端、シエナは何も言えなくなり口をつぐんでいた。
ほどなくして主人の身支度を終えた侍女の方は、何か言いたげに腰をかがめて膝を付いた。
「……ミレイユ?」
シエナが怪訝そうな視線を向けると、彼女は俯いたままぎゅっと両手を組んで握りしめていた。まるで祈りを捧げるような―あるいは何か覚悟を決めるかのような佇まい。その後ゆっくりと顔を上げた彼女は、なぜか憑き物が落ちたようにすっきりとした面持ちをしていた。
「―姫様。折り入ってお願いがあるのですが」
何か嫌な予感がしたが、それでもその先を訊かないわけにはいかない。ミレイユの纏う異様な雰囲気にやや圧倒されつつも、シエナは続きを促した。
「……何かしら?」
「わたくし、王都に帰る前に……親戚の家に寄らせていただきたいのです。ここに来る前に受け取っていた手紙で……叔母が病に臥せっているので、顔を出してほしいと言われていたことを、うっかりお伝えし忘れていたのですわ」
思ってもみなかった申し出に、まるで頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。シエナはぽかんとしたまま、しばらくの間言葉を失っていた。
確かに王都へ呼ばれているのはシエナだけなのだから、お付きの者が減ろうが、アレス王国としては問題は無いのだろうが……。
「……そ、 それは大変じゃない!」
「ちょうどこの港町の近くに住んでいるようでして。姫様さえお許しいただければ、本日すぐにでも見舞いに行こうかと」
止める理由は何も無い。ミレイユがもうすぐ任期を終える仕事より、家族のことを優先させるのは、何も不自然なことではないなのだから。
「ええ。そうして頂戴。ただ、そうなると……」
今日からはミレイユだけ、旅の一員から外れることになる。セシルの話では、搭乗する船はすでに決まっているようだった。王都行きの船は日にそう何便もあるわけではないので、彼女はシエナたちと同じ船に乗ることはかなわないだろう。
「いえ、わたくしのことは待たずにご出発された方がよろしいかと思いますわ。どのみち王都では別の侍女が付きますので、わたくしが戻る必要はないでしょうし―」
ひょっとすると、昨日上の空だった原因はここにあったのではないか、とシエナはようやく合点がいった。王都までは一緒だと思っていたセシルとここでお別れになってしまうのだから、それは意気消沈していてもおかしくはない。想い人に同行出来ない無念が相当堪えているのか、侍女は物憂げな表情で深いため息を吐いた。
「そうだったの。それじゃ、仕方ないわね。早いけれど、今日でお別れになってしまうのね。」
「そう、ですわね……」
別れなどいつも唐突に訪れるものだ。それがほんの少しだけ早まっただけのこと。そう思おうとしても、シエナは何とも名状しがたい寂寥を感じていた。
「ミレイユは確か、一年前……オルコット卿と一緒に来たのだっけ?」
「ええ、そうですわ。わたくしのヴェルジュ家は没落した子爵家ですけれども、どういうわけか王室から推薦を頂けまして」
懐かしむ言葉通り、ミレイユは最初からシエナに仕えていたわけではない。リュシアンと共にロシェルに来た頃の前任の侍女が辞めてしまったため、セシルと同時期にやってきたのだ。
「短い間だけれど、世話になったわね……元気で。今まで、ご苦労様」
「はい。姫様も、どうかお気をつけて。旅の間はご不便をおかけするかもしれませんが……」
「大丈夫よ。私は深窓のお姫様じゃないもの。一人で身支度くらいできるし、なんとかなるわよ」
ロシェルに来る前―あの王宮の離れでひっそりと暮らしていた頃、シエナの元にはろくに侍女をよこされたことなど無かった。何かと理由をつけて来たり来なかったり、物だけ持ってきてあとは自分でやっておけ、とでも言わんばかりに放っておかれたりすることの方が多かったのだ。もとより一人で身の回りをできないようでは、あの王宮で生き延びることは不可能だった。そのため、ロシェルに来てからは先の侍女やミレイユがいてくれたおかげで、むしろ楽をしていたくらいである。
「寂しくなりますわね……せめて、馬車まではお見送りいたします」
「ええ、ありがとう」
シエナはここに来て初めての別れをしんみりと噛み締めていた。
***
「姫様、ブラッドリー卿、オルコット卿! どうか、お元気で行ってらっしゃいませ」
シエナたちを乗せた馬車が動き出してからも、ミレイユは構わず手を振り続けている。その健気に潤んだ瞳に気付くはずもなく、セシルは何事も無かったかのように地図の確認をしていた。
「ここから、すぐに港に着いたらフェリドール行きの船が待っているはずです。大丈夫、今の季節に海は凍結なんかしないでしょうし―」
シエナは頬杖を突きながら、ミレイユと大した言葉も交わさずに別れた教育係をじっとりとした目で見つめていた。
「……姫様? どうかされましたか?」
ただでさえ釣り目がちなせいで、ますます態度が悪く見えているあるじに、リュシアンが怪訝に眉をひそめた。すると彼女はセシルに気づかれないように、傍らの騎士にこそこそと耳打ちし出した。
「ねえ。オルコット卿、昨夜は普通だった?」
「え? ええ……」
彼女がなぜそのような質問をするのかいまいち要領を得ないまま、騎士は戸惑いを隠さずに答える。
「ミレイユの話は?」
「いえ、あの……。今朝まで、全く」
シエナは腑に落ちない様子だったが、それ以上は不毛だと考えたのであろう。曇った外を眺めながら、だんだんと近づく港の賑やかな雰囲気を感じ始めていた。
ほどなくして、馬車が鈍い音を立てて止まった。セシルはいち早く外を確認しようと扉に手をかけて、はっとしたように動きを止めた。波止場には何隻かの船が停泊しているようだが、何やら数人が大声で怒鳴りあっているようだ。どうも、様子がおかしい。
「何やら騒がしいですね。僕は様子を見てきますから、ブラッドリー卿は殿下のおそばに」
セシルはぱっと馬車を飛び降りると、すぐに近くにいた船乗りに駆け寄り、何か話しかけた。そのまま何かやり取りをした後に彼は腕を組み、はつらつとした顔を珍しくしかめながら戻ってきた。
「何かあったの?」
「どうやら、海賊が出たようです。討伐が完了するまで、ここで待つことになりそうですね。ただ、奴らなかなかしぶといようで、安全確保までは一週間かあるいはもっとは……」
「そんな……!」
思わぬ足止めに途方に暮れる。このまま港で待っていたら、予定よりも大幅に後れを取ってしまうだろう。アレス国王が早急な帰還を望んでいる以上、このまま呑気に待ちぼうけ食らっているわけにはいかない。
セシルは逡巡した後、悠然と地図を広げた。横に広がる大国、その南東に指を置くと、そこから中心の王都フェリドールへ向けて、ゆっくりとなぞる。南東の港から北上し、東の峡谷を回って川を渡り、そこからまっすぐ街道を進んで、中心の王都へ。予定していた航路よりはだいぶ遠回りにはなってしまうが、致し方ない。
「こうやって陸路で向かいますか。川があるので、峡谷の橋を渡れば近いと思います。途中も……なんとか街に滞在しながら目指せるでしょう」
「この峡谷……アル・シャンマールの外れに近いな。十年前戦禍にあったカティーフが目と鼻の先にあるが、危険では無いのか?」
リュシアンが地図の東を一瞥して指摘した。確かに例の峡谷を隔ててすぐ東には、蛮国アル・シャンマールが隣接する。シャンマールの首都ハイヤートはさらに東とはいえ、この国との境に近付くのは不用心としか言いようがない。
「戦禍を被ったのは十年前……今はもう復興しているのかしら?」
シエナも地図を覗き込みながら、アル・シャンマールの地図を眺めた。と言ってもごく一部が描かれている程度で、その大半は空白だ。分かるのはアレスとの国境と、そのおおまかな領土。シャンマールよりもさらに東は、未知の領域である。
「ええ。我々アレス王国は十年前、一度手にしたカティーフを手放すことを余儀なくされました。今のカティーフは、シャンマールの中でも堅固な城塞都市になっています」
「たった十年でそんなに変わるものなのね……」
そうと決まれば、とセシルはすぐに御者に声をかけた。港から再び街道へ戻るように、ゆっくりと馬車が動き出す。
「行きましょう。ここで立ち往生するよりはましなはずです。日が暮れる前に、さっさと渡り切ってしまいましょう」
とんだ予定違いも旅ではよくあることだ。そう思い込もうとしても、シエナの中で昨日から続く胸のざわつきは消えない。不測の事態が続く中、彼女は不安を胸の奥へぎゅっと封じ込めるように押し込み、馬車に身を委ねていた。
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