それぞれの夜 

 それから、食事をしようと近くの食堂に入ったシエナとリュシアンは、目前の見慣れない光景に圧倒されていた。

 商人や船乗りたちであふれかえった店内では、注文とも怒号とも判別のつかない大声が飛び交い、途切れることは無い。そんな中、彼らのすぐそばをあつあつの湯気が立ったスープや、香ばしい匂いの肉料理がせわしなく横切っていく。


「何と言うか、ものすごいわね……」


 いつも静かな場所で、たった一人での食事しか知らないシエナにとっては、まるで別世界のようだ。彼女はマントのフードを目深に被り、できるだけ目立たないようにと気を遣いつつも、物珍しさのせいか視線だけはあちこちとせわしなく動いている。


「港が近いからか、魚が名物なのね。このムニエル、意外と美味しいわよ。」

「……」

 

 対するリュシアンはうつむいたまま、口を開かない。せわしない喧騒の中で、二人の間にしばしの沈黙が流れる。シエナはちらりと彼に視線を戻したが、堅物の騎士は未だ口を引き結んで硬直したままだ。もしや食事が気に入らないのだろうか、と首をかしげるが、その険しい目つきをまじまじと見るうちに、彼女ははたと思い当たる。


 おそらくリュシアンを初めて見る者は、仏頂面で表情の変化に乏しい人物だと思うだろうが、それは違う。傍で見てきた彼女にはわかることだが、彼は表情に出にくいだけで、感情の起伏は人並みにあるのだ。おそらく、とその太い眉根を見つめながら思う。これはきっと、悩んでいるのだろう。


「―申し訳ございません!」


 そして開口一番謝罪する騎士に、お忍びの王女は衝撃のあまり手に持ったフォークを落としそうになった。思い浮かぶ限りの今日一日の記憶をたどっても、彼には決して非はないはずなのだが。


「えっと……? あの、どうしてあなたが謝る必要があるのよ」


 何か心当たりはと考えてみても、思い当たる節と言えば何の説明もなしにセシルとミレイユと別行動をとっていること、くらいだろうか。


「あの、やはり落ち着きません。俺は、あるじと同じ食卓にはっ」


 突然の謝罪に頭の中が疑問符で埋め尽くされていたが、その答えを聞いてようやくシエナは合点がいった。あるじと騎士が食卓を共にする。確かにこれまでは絶対に許されなかったことだ。その違和感はもはや新鮮ですらあるし、むしろ普段からこうだっていいのに、とすら思うのだが、リュシアンにとっては戸惑いの方が大きいのか、そうやすやすとは割り切れないのだろう。

 

「座っていないと逆に目立つから仕方ないでしょ。ほら、ちゃんと食べて」

「は、はい……」


 突然立ち上がろうとするリュシアンに、周りの客が少しぎょっとした視線を向けていること気付いたのか、シエナは慌てて小声で諫めた。

 仕方なく、彼はまだぎこちない手つきのままコップの水を飲み干した。あるじが気を利かせて注文した魚のムニエルもスープも、もはや到着時の湯気を徐々に失いつつある。ずいと皿を突き出され、ついに真面目な騎士はついにあきらめたのか、ナイフとフォークを手に取った。


「……あの。姫様、お話とは?」


 自らが飲み食いしている姿をあまり見られる機会がないため、まじまじと見られて居心地の悪さを感じたのか、リュシアンは早々に話題を変えた。


「もしや、俺が何か失礼でも致しましたか?」

「そんなわけないでしょ。あれは単なる方便だから、気にしないで」

「……はい?」


 まだあるじの思惑に気付いていないのか、思ってもみなかった返答に困惑している様子だ。


「方便、ですか。何ゆえ、オルコット卿とヴェルジュ嬢をご一緒にさせたのですか?」


 どうやらこの鈍い騎士はまだあるじの心中を察することができずにいるらしい。わかってはいたが、これは相当だとシエナからわざとらしいため息が漏れる。


「あのね。鈍い貴方にはわからないと思うけれど……ミレイユはオルコット卿のことを好いているのよ。」

「はあ。『好いている』……ですか。」


 これは、もしや「好いている」という意味すらわかっていない可能性があるだろう。現に彼はいかにもぴんと来ていない様子で鋭い目をぱちくりさせている。その様は普段の実直な雰囲気とは打って変わって、どうも不似合いだ。


「ねえ、リュシアンは誰かを好きになったことは無いの?」

「好き、と仰いますと……相手に特別な感情を抱く、ということですよね。」

「そうね」


 果たしてわかっているのだろうか。そもそも仕事のことしか脳内になさそうだが、彼の思考回路はどうなっているのだろうか、とふと気になったのか、シエナはおもむろに掘り下げてみることにした。


「わかりません。俺にとって姫様以外に大切な存在はいないので」

「―っ?!」


 突然の爆弾発言にスープを吹き出しそうになり、彼女は勢いあまってむせた。マナー指導も担当するどこぞの教育係がいたら、あれこれと口うるさく文句を言われそうな場面だ。


「けほけほっ……。あの、いきなりやめてくれないかしら?」

「……? えっと。何か変なことを申し上げましたか?」


 言ったところで伝わるはずもなく。相変わらず灰紫の鋭い目を見張ったまま、リュシアンはあっけにとられた顔をしている。


「最初の頃はそれで私も勘違いしそうになったわ。私も年頃だったし」

「姫様は今もお年頃ではないですか?」

「貴方、絶対わかってないわよね……」


 リュシアンが剣を取り、シエナへの忠誠を誓ったあの日以降―王都から出立した後。ミレイユの前任の侍女と、リュシアンと、あとは御者。たったそれだけでロシェルに移動した。当時のシエナは十代半ば。いつも傍にいるリュシアンを多少なりとも意識したものだが、当の本人は忠義そのもので動いているため、あるじによこしまな想いを抱くそぶりなど微塵も見せなかった。それで、シエナはかえって安心したのである。


「でも、それでいいのよ。だから信頼しているんだし」


 下心など少しもないからこそ、こうして真に彼を信頼し、傍に置くことができるのだ。


「はあ……」

「ね、リュシ―じゃなかった。何だったかしら……? ああ、そうそう。『お兄様』の方が良かったかしら」

「―なっ?!」


 思ってもみなかった呼称を耳にした瞬間、リュシアンの手からナイフが滑り落ちた。咄嗟に我に返った彼は、持ち前の瞬発力で身をかがめて柄を掬ったが、その指はまだ動揺のあまり小刻みに震えている。


「ひ、姫様! 何を仰るのですか?」

「だって、オルコット卿が言っていたじゃない。お忍びなんだから設定を忘れないようにしないと」

「し、しかし……。俺が兄というのは、なんだか慣れませんよ」

「そうね。あなたは弟だものね」


 そういえば、とシエナが思い返してみても、今までリュシアンの個人的な話をしたことはほとんどなかった。名門騎士の家の次男である、という一通りの身上は元より知ってはいるのだが。


「はい。俺の家族構成を覚えておられましたか。」

「それはそうよ。護衛騎士になる前に調べたんだもの。そういえば、あなただって……」


 私の家族のことも知っているでしょう、と言いかけてシエナはやめた。実のところ、昨晩の悪夢はまだ記憶から消えていない。「家族」とも呼べないような、家族。おぼろげではあるが、それは着実に死に向かわせる毒のように、彼女の心に暗い影を落としている。

 異母兄弟・異母姉たちとは、あまりいい思い出がなかった。ただ同じ場所に立つだけで疎まれ、母親のことでからかわれ、しだいにシエナは自分の世界に閉じこもるようになっていったのだ。生きながらにして孤独だった彼女にとっては、兄弟がどんなものか知る由もなかった。


「俺のことは良いのですよ。姫様がご存じの通り、兄がいるだけですから」

「ふうん。王都にいた時にちらっと見たことがあったかしら。若いのに厳めしい雰囲気の方よね」

「まあ……そうですね。兄上は誰よりも厳格で、陛下への忠義も厚いですから。」


 そんな人が同じ家にいたら、さぞかし肩が凝るだろう、とシエナはひそかに同情した。そういえば、王都を発った時は王国騎士の団長候補であった件の彼の兄は、すでに団長になっているのだろうか。


「それじゃ、私たちは両方末っ子ってわけね。呼び名が慣れないのはわかるけれど……何か良い呼び方はないものかしらね」

「ええっ? そんな、無茶ですよ。姫様は―」

「そうねえ。じゃあ、『シエナ』と呼んで」

「シエナ、様……? いえ、そんな。俺にはとてもとても、畏れ多いです」


 それでも十分堅苦しいので、お忍びには適さないのだが。改めて、この堅物男は本当に嘘が付けないのだと、彼女は呆れて肩をすくめた。


「まあ、いいわ。それくらいで許してあげてよ」

「お気遣い、痛み入ります……」


 まだまだ主従関係を隠しきれそうにもない彼らは、穏やかな時間を惜しむように顔を見合わせて笑っていた。



                 ***



 ちょうどその頃。シエナは自身を取り巻く運命の変動に、まだ気づいていなかった。


 ぽつぽつと灯された明かりが消えていき、賑やかな食堂とは裏腹に街はだんだんと深い静寂の中へ沈み込んでいく。先ほどまでの喧騒がまるで嘘のように、眠りについていく街の中で、小柄な男女二人組が歩いていた。

 小柄な青年よりもさらに小さな少女は、歩くうえでも彼に後れを取っている。―セシルとミレイユだ。ミレイユはいそいそと足を動かしながら、時々立ち止まる彼に申し訳なさそうに頭を下げている。


 そのうち、二人は賑やかな声の聞こえる食堂に差し掛かった。ちょうど窓からリュシアンとシエナが向かい合っているのが見えている。ミレイユは驚いたように足を止めた。彼らが二人に気付く様子はない。その談笑の様子を眺めながら、彼女は知らず知らずのうちにうつむいていた。そのまま歩みを進めるか、それとも立ち止まるのか。その目深にかぶったフードの陰で、無意識のうちにぎゅっと唇を噛み締めている。


 ミレイユはそのまま、迷いを見せるかのように立ち止まっていたが、不意にセシルが柔らかい笑みを浮かべて、背後から声をかけた。その途端、彼女の顔には先ほどの迷いなどなかったかのように安堵の笑みが広がっていく。ほどなくして、差し出された手を取ると、そっとその場を離れた。


 彼らは更けていく夜を惜しむかのように、共に歩調を揃えて歩き出したのだった。

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