港町・プレジールまで
「これが、王都からのお迎え……ねえ。この馬車で合っている、のよね?」
翌日。シエナたちは到着した馬車を上から下まで、もう何度目になるかというくらい、まじまじと眺め回していた。庶民の使う乗り合い馬車……とまではいかないものの質素な、見方によっては粗末な木箱のようで、およそ王族を乗せるものとは思えない。
「ほら、僕たちはお忍びなんですよ? 道中で追いはぎにでも遭ったら洒落にならないじゃありませんか」
セシルはもっともらしい理由を述べているものの、そうやすやすと乗り込む気にもならず、シエナはため息を漏らした。リュシアンに持たせているのは小さめの旅行鞄であるし、おのおのの荷物もそう多くはないが、四人と荷物を載せたらたやすく傾いてしまいそうだ。
「それはわかるけれど……」
この扱いはいかがなものだろうか、とでも言いたげに彼女はうんざりと天を仰いだ。しかしながら、ここでいつまでも駄々をこねているほど子供ではないし、もとより王家には期待などしていない。もはや観念するしかないのかと、彼女はようやく重い足取りを踏み出した。
さりげなく差し出されたリュシアンの手を借りて乗り込むと、座席も木箱同然であることを認めて、再び深いため息が出る。勝手に来い、と言われなかっただけましとでも思っておいた方がいいのだろうか。
「乗り心地はあまりよくないと思いますが、毛布を敷き詰めれば幾分かはましになるでしょう。足りなければ俺の上着もお使いください」
「そこまでしなくてもいいけど……まあ、そうね」
騎士の申し出に逡巡する。少なくとも夕方まではこの馬車に揺られるのだ。少しでも不快感に悩まされないように、と彼女は手渡された毛布を広げた。
シエナが腰を下ろすのを見届けた後にミレイユも続き、悩んだ挙句シエナの向かいに座ろうとスカートの裾を広げる。
「そっちは進行方向と逆だけど、大丈夫かしら?」
「問題ありませんわ。わたくしも一度は馬車で揺られてここまで来ておりますもの。」
「そう……? 無理はしないで。気分が悪くなりそうだったら、私の隣に来るのよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
その間に、リュシアンによって最低限の荷物も荷台へと積み込まれていった。セシルが何か御者とやりとりしているようだ。馬車の窓からは、この地―東の辺境・ロシェルに来てからの住処である屋敷が見える。シエナにとって、その光景をこうして外から眺めることは、あまりなかったのではなかろうか。
「いよいよ、お別れですわね」
ミレイユも図らずしてここに行き着いた者だったのだろうか。心の奥底では常に帰りたいと願っていたのかもしれない。その声はどこか安堵の色を帯びていた。
「そうね。長いようで、あっという間だったわ」
準備を終えた二人も乗り込み、御者が合図すると、がたがたと粗末な馬車が動き出した。シエナは慣れない馬車の揺れに耐えきれず、よろめいた。それは旅慣れしていないミレイユも同じだったのか、あっと小さい声を上げて隣のセシルの肩に頭をぶつけている。
「あっ……も、申し訳ありません!」
「いえ、気にしないでください。大丈夫ですか?」
ガタゴトと立て付けの危うい馬車は、舗装されていない道の小石や砂利の感触をじかに伝えてくるかのようで、シエナは顔をしかめた。窓に見えていた屋敷は、彼女にとって五年もの歳月を過ごした所だ。自分の物のようで、決して自分の物ではない場所が見る見るうちに遠ざかっていくのを見ると、ようやく王都へ帰る実感がわいてくる。穏やかで単調な日々だったが、いよいよ変化がやって来るのかと思うと、何とも言えないもどかしさを覚えた。そんな主のしかめ面を見守るリュシアンもまた、これからのことを考えているのか、その表情は決して明るくはない。
「まあまあ、しばらくのご辛抱を……。さて、今日は港の宿場町プレジールに泊まる予定になります。旅程はすべて使いの者から聞いておりますので、ご心配なく。そこから何事もなければ航路でおよそ一週間で王都に着きます。東に迂回するルートの方が早いんですが、用心に用心を重ねて―」
車内ではセシルの説明が聞こえるが、シエナはいつものように左から右へと聞き流しながら、物思いにふけっていた。
何度考えてもわからない「王都へ戻る」ことが意味するものは何か、と頭の中で反芻する。しかし何日も考えていた悩みの種がそう簡単には解決するはずもなく、彼女は懸念を抱きながら辺境の地・ロシェルを旅立ったのだった。
***
日中、町に立ち寄って休憩を挟みながらも、馬車は港近くまで来ていた。立て付けの悪い窓を開くと、夕陽と共に磯の香りが舞い込んでくる。初めて、と言ってもいいくらいの新鮮な香りや景色も、今のシエナの心境を変えるには至らなかった。
馬車の中では、つい先ほどまでセシルただ一人があれやこれやと好き勝手に喋り続けていたが、ようやく話すことがなくなったのか、手元の地図と持ってきた書物を見比べては没頭している。傍らのミレイユは長旅に疲れたのか、初めはセシルの話を真剣に聞き入っていたものの、そのうちこくりこくりと船をこぎ出し、今はその肩に頭を預けてすやすやと寝入っていた。リュシアンと言えば、ただ一人微動だにしながら、決して緩んだ素振りは見せずにいる。
「……疲れないの?」
ぽつり、とシエナが独り言のように話しかける。それも眼前のセシルに聞こえないように、こっそりと耳打ちをして。
「いえ、俺のことはお気になさらず。姫様をお守りしなければなりませんので」
「本当に、貴方はいつも……。少しは楽にしていないと、身体を壊すわよ」
お決まりのお堅い返答に、彼女はひそかに苦笑した。
「道中では何があるかわかりませんから。守りを手薄にするわけにはいきません」
「仕事熱心なのね」
「仕事……? 確かにそうかもしれませんが、違うんです。何と言えばいいのか」
対するリュシアンの方も、固く結ばれた唇を小さく持ち上げると、困ったように笑ってみせる。無骨だがまっすぐで、誰よりも忠実。そこでシエナも昨晩、彼と交わした会話のことを思い起こしていた。悪夢から目覚めた折、彼に不安を見抜かれていたこと。絶対的な信頼を寄せてはいるが、それでも王令が下れば一瞬で解けてしまうような、脆い関係でもある自分たちのことを。
いや、それでいいのだ、と彼女は思い直す。それ以上を彼に望むのは、お門違いだ。望んだところで、どうなるわけでもないのだから。
だんだんと周囲が暗くなりはじめた頃、馬車はとある宿場町で止まった。御者に声をかけられ、セシルが答えようとしてそっと身じろぎすると、ミレイユの睫毛がぱちり、と微かに動く。ゆっくりと目を開けて状況を理解すると、彼女はぱっとセシルから距離を取った。
「ご、ご、ごめんなさい! わたくし、なんてことを……!」
「いえ、いいんですよ。肩の一つや一つくらい。ミレイユさんのためならいくらでも」
対するセシルはいつも通り、なんでもなかったかのような軽い口調だ。王都に戻ったら、この二人はどうするのだろう、とシエナは二人を眺めながらぼんやりと考える。変わらずシエナに仕えるのか、それともそれぞれの家に戻って新しい出仕先を見付けるのか。先に出て待ち構えているリュシアンの手を借りながら、ゆっくりと馬車を降り立つ。
「ここはどこかしら……」
「宿場町のプレジールというところだそうです。治安はそこそこのようですが、絶対に俺から離れないようにしてくださいね」
「ええ、わかっているわ」
王宮と屋敷でしか過ごしたことのない彼女にとって、港町はどこか違う世界に来てしまったかのようだ。夜と言えどもあちこちで灯が付き、街には露店が並び賑わっている。五年前、辺境のロシェルに来る時にも立ち寄ったような気はするが……あの頃は沈み込んでいて、周りを見る余裕などシエナにはなかったのだった。
「凄い活気ね。あの田舎とは大違い」
「ああ、言い忘れていましたが」
セシルも馬車から下りて近くにやって来ると、何やら手帳を見ながら説明を始めた。
「殿下の正体がばれるのはやはり不味いので、そうですね……商人の娘と、ブラッドリー卿がその兄、ということにしましょう。僕は従者、ミレイユさんが女中ということであまり代り映えはありませんが」
「演技は得意じゃないから、変わりない方が助かるわね」
芝居すら必要なのかと思うくらい、シエナの存在は王国民には知れ渡っていないのだが、念には念を入れてと言うことだろう。一同は神妙な面持ちで頷く。
「部屋は男女で別れることになっています。ちょうどこの宿で二部屋。僕の名前で取っておりますので」
そこでふっとシエナはミレイユを見つめた。王都に戻った後、セシルがどうするかなんてどうでもいいが、ミレイユのことは唯一気がかりである。もしかすると、ここまで近い存在でいられるのは、この旅が最後になるのかもしれない。彼女がセシルを慕っているのは公然の事実なのだから、ここは主としてもここは思い出作りに一役買ってやりたいところだ、とシエナは一人納得すると、藪から棒に切り出した。
「ねえ、オルコット卿。私はリュシアンと折り入って話があるから、あなたはミレイユと食事でもとってて」
「?! ひ、姫様?!」
ミレイユはますます顔を赤くして慌てふためいているが、シエナは素知らぬ顔で続けた。
「つまらない講義はもうたくさんなの。私はミレイユを通して聴くことにするわ」
「ちょっと殿下、なんてつれないことを仰るんですか!」
ほとんど事実だが、そこを明け透けにするとまた面倒な追撃を受けてしまうので、今はなりふり構ってなど居られない。
「いいからいいから。ほら、いってらっしゃい」
懐からなけなしの銀貨を取り出すと、シエナはミレイユに手渡した。それを見てか否か、セシルは観念したように肩をすくめた。
「殿下のわがままには仕方ありませんね。明日、船の中でみっちりと教えて差し上げますから、覚悟しておいてくださいよ?」
さらりと恐ろしいことを笑顔で言われたような気がしたが、これで少しでもミレイユの力になれたなら、とシエナはひそかな満足感に浸る。
二人が雑踏に消えるのを見届けると、彼女も自らの空腹に気付いた。そして、何か手ごろな店はないかと、頼りない足取りでリュシアンと共に歩き出したのだった。
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