捨て駒の矜持
見渡す限り市松模様の床の上。隣を見ると、王宮で何度か顔を合わせた程度にしか覚えていない姉と兄弟たちが並んでいる。それも、なぜか横一列で。前方は霧のように霞んでいて何も見えず、ただ市松模様が延々と続いている。これではまるでチェス盤のようだ、という考えが彼女の脳裏によぎった途端、得体のしれない吐き気に襲われた。
もしや、と思いおそるおそる背後を振り返ると、こちらも同じく王宮で何度か顔を合わせた父王に、継母の王妃や側妃たち。皆、揃いも揃ってある種悪趣味とも言える、派手な装いである。その光景を見ると何かのゲームの駒にでもなったようで、シエナはくらりと目眩を覚えた。
『従順なお前は、忠実なる家臣と結婚を。ああ、賢いお前はロステレドの正妃に。それから、美しいお前はロゼラムの王子の側妃に。ああ……これで国内も、隣国とも和平が保たれる』
聞こえるのは何やら周辺国の名前。確か北の国と西の国だったか……とシエナが考えている間に、王の一言と共に進み出ていくのは、煌びやかなドレスを身に纏った腹違いの姉たちだ。たった一度も自分のことを気にかけたことのなかった後姿は、もはや記憶の片隅にかろうじて残っている程度のものであったせいだろうか。すぐにぼやけては霧の向こうへと消えていく。
そして一人消え、二人消え。いつのまにかその場に残っているのは、地味な灰色のドレスを纏った彼女だけになっていた。
『ああ、お前……いたのか。名前は、なんだったか。なんだ、その生意気な目は。可愛げがない』
アレス国王は億劫そうにため息をついた。その動きに合わせて、長年にわたって蓄えたであろう白銀のあごひげが揺れる。険しい眉間に走る皺は、荘厳さを形作る壁。その挙動一つ一つが王たる威厳をもたらし、誰もをひれ伏させ、服従させる不思議な力があるかのようだ。
『まあ、いい。お前はあの東の蛮族―アル・シャンマールの人質にでもくれてやろう』
『“アル・シャンマールの人質”……?』
その言葉の真意を考える暇もなかった。彼女の身体は唐突にふっと宙に浮く。足元の床が消えたのだと気づいた時には、すでに遅かった。頬に当たる逆風に髪が巻き上げられ、重力に逆らうこともできずにただひたすら落ちて行く。どんなに叫ぼうと、もがこうと、肝の浮く嫌な感じは止まらない。その間に頭上から響く王の声が、だんだんと遠ざかっていく。
『まあ、いいだろう。これで、お前の使い道ができて良かった』
『―待って! 助けて、お父様!!』
ああ、これが本当の捨て駒という奴なのだろうか―とぼんやりと考える。自らの境遇の例えからこんな悪夢を見るとは皮肉なものだ、と彼女は自嘲した。とっくの昔に割り切っていたはずだ。いつかはこういう日が来るのだ、と覚悟していたつもりだったのに―。
足元に続くのは漆黒の闇。ずっと忘れて、あきらめようとしていた苦い思いがふつふつと沸き立つ。誰かに愛されたい。この境遇から自由になりたい。無駄とわかっていても、落ち続ける恐怖に耐え切れず、ばたばたとがむしゃらに手足を振り動かしたところで、不意に現実に引き戻された。
「……っ?!」
見慣れた天井が視界に入った途端、ここがベッドの上であると確信する。ばたばたと間抜けにも足を動かしている自分に気付くと、安堵と共にどっと疲労感が押し寄せてきた。先ほどまでの落ちているような嫌な感覚はもう無いにも関わらず、どくどくと心臓の脈打つ音は止まない。いつのまにか背中にも、額にも、じっとりと汗がにじんでいた。
動悸を整えるように深く息を吐くと、シエナはゆっくりと起き上がる。窓から差し込む月の光を認め、その眩しさに目を細めると、ようやく彼女は生きた心地がした。
「夢、か……」
嫌な夢を見たものだ。それに、夢にしては妙に現実味を帯びていた。彼女は重たい身体を引きずりながらベッドから這い出ると、侍女が枕元に置いていったグラスと水差しを手に取った。こぽこぽとグラスに水を注ぐが、無意識のうちに手が震えていたらしい。グラスはつるりと彼女の指から滑り落ち、絨毯の上に転がる。行き場を失った水は彼女の手を伝い、じわじわと絨毯に染みをこしらえていく。
「……あ」
からからに渇いた喉が引きつる。心を落ち着けるように、グラスを拾うと彼女はもう一度、窓の向こうの月を見やった。
今までこうしてひっそりと生かしてもらってはいたが、シエナは父王の所有物で、彼の采配次第でどうにでもなる存在である。この気楽な生活ももう終わりなのだ。国の貴族や隣国の王族と愛のない政略結婚……で済むのなら、まだましなのかもしれない。彼女は敵国の貢ぎ物になり、それで用済みになる……そんな未来もありえなくはないのだ。
「大丈夫。まだ、そうと決まったわけではないし……」
それでも、いざ明日から転機が訪れるとなると、先の見えない不安にいたたまれなくなってくる。シエナは幼い頃に母を亡くして以来、王家には何の期待もしない、と決めていたはずだった。父王が自分を駒のように扱ったとしても何ら不思議ではない。むしろこうして生かされているのは、そのためではないかとすら薄々察してはいた。
「怖い、のかしら?」
敵国だと言うアル・シャンマール。話に聞くだけでもおぞましい蛮族など、関わり合いにもなりたくないが、万が一人質になることを命じられたら……と思うと、彼女の背筋がぞわりと粟立った。思わず、自身の肩を抱く様に両腕に指を食い込ませる。
それでも、弱音を吐くことなど許されない。なけなしの誇りを胸に、せいぜい捨て駒として有用に動いてやるしかない。所詮、彼女はアレス国王の手のひらの上で転がされているのだから。
「―姫様?」
丁度その時だった。もう夜更けだと言うのに、扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえてくる。本来ならとっくに休んでいてもおかしくないはずの者と認めると、彼女は目を見張った。
「リュシアン……?」
こんな時間に、どうしてここに居るのだろうか。シエナが立ち上がっておもむろに扉に近づこうとすると、少し焦ったように遮られる。
「ああ、扉は開けなくて結構です。そのままで。……眠れないんですか?」
「それはこちらの台詞よ。貴方、私の護衛騎士だからってこんな夜中まで張り込む必要はないのよ。確かに、交代の騎士はいないけれども…」
「いえ、眠れなくて目が覚めてしまったので……ただ、散歩していたところです」
真面目なリュシアンのことだから、主を心配させまいとして気を遣っているに違いない。それは彼女にも瞬時にわかった。
「自分の身体を気遣うのも仕事のうちよ。私のことは良いから、今日はもう休んで」
「それは……ご命令ですか?」
「そう。命令よ」
この男は無理やりにでも休ませなければ、何食わぬ顔をして、四六時中でもそばにつこうとするかもしれない。さすがにそれではシエナの方の気が休まらないだろう。
「わかりました。……姫様。」
「何? 用があるなら明日聞くわ。私はもう眠いの」
悪夢のせいとはいえ、弱っているところを他人に見られるのは、たとえ護衛騎士であっても避けたいのか、彼女は会話を切り上げようと踵を返した。そのまま扉に背を向けようとしたところで、彼の一言が追いかけてくる。
「王都へ戻るのが、怖いですか?」
「………」
平時はおよそ鈍感なくせして、主のこととなると、リュシアンは往々にして研ぎ澄まされた勘を発揮する。まるであの悪夢を覗き見られていたように感じて、シエナは図らずも息を呑んだ。
「……どうして」
「これでも、貴女の護衛騎士ですから。ご安心ください。俺は貴女を絶対に守ります。たとえどんなことがあろうとも、誰が敵に回ろうとも。」
いつも通りの忠誠を誓う言葉。常日頃から耳にしていては、新鮮味も薄れてしまいそうなものだが、今日ばかりは違って聞こえた。リュシアンがその誓いを口にすればするほど、魔法の呪文のように彼女を守ってくれるかのようだ。
彼のその一言で落ち着きを取り戻したのか、シエナは彼に悟られないようにふっと表情を和らげ、知らず知らずのうちに顔をほころばせていた。
「……ありがとう。貴方も早く休んで。」
「はい。おやすみなさいませ」
捨て駒姫には騎士が付いている。いずれ捨てられる運命にある駒をわざわざ守ろうとする、酔狂な騎士だ。王国の騎士でもあるリュシアンにとっては、王令が絶対のはずだ。護衛の任を解かれれば、それまでの縁となるかもしれないのに、今のシエナにとっては彼だけが唯一信じられる存在だった。
いつもと同じはずの夜は、これまでを顧みるいくらかの惜別と、これからの不安を新たにして、ゆっくりと更けていくのだった。
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