3-2

 

 煙草の幻嗅は、瞬く間に消えた。


 その僅かな間にも意識はここではないどこかを浮遊し、喬之介は、眩暈を感じて酔いそうになるのだった。「喬ちゃん、ぼうっとしてるけど、焼けてるよ?」という茅花の声によって再び、無理矢理に引き戻される。


「ああ、ごめん。茅花、どうぞ」

「やったね。いただき」


 素直に箸を伸ばし、満面の笑みで肉を口に入れる茅花と、新しく肉を並べる喬之介とを交互に見た高秋が、思わずといった様子の笑い声を上げた。

「食いっぷりの良さに惚れ惚れするな。確かに食っちゃ美味いけど、俺なんてさっぱりした赤身肉のが良いとか老化を感じてやばいな」


「うーんそれ、年齢関係なくない? 食の好み? 秋パパ、もとからそうでもないじゃん。今だってお祖父ちゃん霜降りのお肉大好きで、しかも秋パパより食べるでしょ? 鰻も揚げ物とかも。間違いなく長生きするって思うよ、うん。あ、でもそういえば秋パパって体臭薄いよね。煙草も吸わないし、一緒に暮らしてるわたしとしては、ありがたいけど、もっと歳取ったらカッサカサになっちゃうかもよ? ギタギタも嫌だけど、それもなんか嫌だなあ」


「なんだ俺は干物かよ……あ、今度、コレで干物を焼くのも良いな。貝とかさ。そういや昔はよく九十九里にまで浜焼き食べに行ったっけなあ。茅花、そこ行ってみたい?」

 良いね行きたい、と茅花と笑顔を交わし合う高秋の横顔見ながら「そういえばアキ叔父さん、いつ煙草やめたんでしたっけ?」と喬之介は首を傾げた。

「あれ? 秋パパ、煙草吸ってたんだ」

 知らなかったなあ、と茅花は目を大きく見張る。

 茅花が知らないのも無理はなかった。喬之介が気づいた頃にはもう、高秋は煙草を吸わなくなっていたからである。高秋と煙草は、小さな海辺の町と喬之介のように切り離され、今や郷愁を感じさせるだけのものとなってしまっていた。

 思いに耽りがら何気なく、手に持っていたトングで網の上の肉をひっくり返す喬之介に「喬ちゃん、返すのちょっと早くない?」と茅花が口を尖らせる。

「そう? サッとくらいの方が、茅花は好きじゃん」

「片側は、もう少し焼くの。で、ひっくり返してから、サッとだよ」


 まあまあ、と高秋が椎茸を茅花の皿の上へ載せた。


「ほら椎茸、美味いぞ。アスパラは、もうちょいか? お、大丈夫そうだ。喬之介、皿を寄越せ。煙草なあ……それまでにも何度かやめようとは思ってたんだけど、赤ん坊だった茅花が……六か月くらいか? 俺が置きっぱなしにしてたライターを手に持って、指ごと口に入れて、ぎこちなくも一心不乱に舐めてたのを現行犯確保したときだな。そりゃもう心臓がひゅっとして、やめた」

「アキ叔父さんが使っていたライターって……銀色の……四角い」

「ああ、うん……オイルライター、な」

 どこか気まずそうに見える高秋に、茅花が「つまりは、わたしのおかげだ」と無邪気に笑う。

 そのオイルライターなら、喬之介も良く知っている。掌の上に載せたときの冷んやりとした感覚、それから見た目よりもずっしりと重かったこと、火をつける音、独特なオイルの匂い、何より片側だけに、びっちりと彫金されていた繊細なリーフ模様。触らせて貰えるときは、その細かな溝に指先を滑らせるのが、喬之介は好きだった。


「ね、秋パパ。そのライター、それからどうしたの?」

「……どっかに仕舞い込んだまま、分かんなくなっちゃったな」


 そう言って口元だけで微笑んだ高秋は、どこか物悲しそうな、痛みを堪えているようにも見え、そのことを機敏に感じ取った茅花が、すかさず「あーッ、いま遠い目をしたよねえ? さてはそれって……」と揶揄い気味に声を上げる。

「うん……まあ、あれだ。大切な人から貰ったんだ」

 伏し目がちにビールの缶を片手でもって弄んだあと高秋は、それ以上を言葉にするのを避けるように中身をひと息に飲み干した。

「ひゃあ、秋パパのそんな話、なんかこそばゆいって。分かんないとか言って、本当は大事に仕舞ってあるとかだったりして? ってやだもう、わたしが照れてどうする」

 箸を置き、両手で顔を覆う茅花を横目に喬之介は「確か、綺麗な模様があったよね?」と高秋を振り返れば

「……ああ、手彫りのな」

 飲み物を取るため席を立ち、答えながら背を向けた高秋を見上げる格好となった。


 手彫り……。


 冷蔵庫の扉を開け中を覗き込んだ高秋が、その姿勢のまま「喬之介も、もう一本飲むだろ?」と尋ねる言葉に、喬之介は漫然と返事をしていた。

 そのまま水焜炉みずこんろから立ち昇る煙を見ていたとき、突然、炭が弾けた。我知らずビクッと身体が動く。それは喬之介の頭の内側で、固く塗り込めていた何かに亀裂が走った音だったのかもしれない。

 何故なら過去の断片が、懐かしいあの家の、光が射し込む窓辺に置かれたソファが、喬之介の脳内に、いや目の前、白くいぶされている部屋の向こうに……浮かび上がる。

 それは、喬之介が見慣れた光景。

 高秋が、ソファに浅く腰を掛けていた。

 抜き出した煙草を唇で軽く挟むと顔を傾け、ライターで火をつける。蓋を開けると同時に火がつく様は鮮やかで、手首を翻せば蓋が閉まる。そうして、ライターをポケットに仕舞う前に――注意して見ていないと分からないが、喬之介は一連の動作を食い入るように見ていたものだ――燻る紫煙に滲みる目を細め、掌の中のライターを一瞥してからそっと手で包み込む。


 今なら、分かる。

 その眼差し、その目に湛えているのは。

 ――愛おしさ、だ。

 

 胸騒ぎ、がした。真っ黒な雲のように逃れられない嵐の予兆が、黯い予感となって喬之介の目前に迫り来るのを感じて、慄然とするのだった。

 

『大事なのは、忘れることだ』


 喬之介に向けられたそれは、幻聴などではなく、実在する誰かの哀訴であり呪詛なのだとしたら……。

 喬之介が忘れてしまったこと、それは決して、忘れては、いけないことだったのではないだろうか。

 にわかに遠くで雷の鳴る音がした。

 それに呼応し、聞こえるはずのない海鳴りが、喬之介の耳の奥を震わせる。

 

「嵐になると思う?」


 遠雷を聞きつけた茅花が、開け放してある窓の方へと振り返り「雨が吹き込んで来そう。閉めないと、大変なことになっちゃうね」と誰に言うともなく呟いた。

「窓を閉めても、煙で大変なことになるな」

 ビールを二本持って席に戻った高秋の顔を見ながら喬之介は何故か、薄らとした憂惧を覚えるのだった。

 高秋は、こんな顔をしていただろうか。

 全く知らない人、に見えた。

 普段と変わらない筈の、目も鼻も口も、途端に余所余所しく、切り貼りした作り物のように感じる。

 それと同時に、これまで喬之介は、高秋と短くはない月日を過ごしたことで、彼のことを良く知ったつもりだったが、実のところ何ひとつ知らないことに……いや、正直に言えばとさえ、思っていたことに気づいたのだった。

 高秋の顔を、見る。

 一瞬、そこにある筈の目鼻が見えず、のっぺりとした肌色の塊に見えた。

 瞬きを繰り返す。

 普段の見慣れた高秋の顔が、あった。


「……ん? どうした?」

 ビールを手渡そうとした高秋の手が宙で止まる。喬之介に向かって顰められた眉から目を逸らすと「いや、ちょっと疲れたなって」と思わず誤魔化してしまうのだった。

「喬ちゃん?」

「ごめんごめん大丈夫だから。さ、雨が吹き込んで来ないうちに、食べよう。ね? ほら、茅花。アキ叔父さん、こっちのお肉も焼こうか」

 手に持つトングが喬之介の掌の中で銀色に光り、目の奥で弾けた。それが誘因となり記憶の蓋が薄く持ち上がる。高秋と一緒にオイルライターで集めた光を切り取って遊んだことを、思い出す。壁に当てた光を両手で捕まえようと飛び跳ねた。傍で見ていた母親は、光を向けられ眩しいと顔に手を翳し笑う。それから……。


「よーし、喬ちゃんが元気になるように、いっぱい食べるぞ」

「茅花が食べてどうする」

「ふふッあはははっ、気づいちゃった?」

 茅花の笑い声に喬之介の心臓が、ばくっと大きな音を立てた。記憶の蓋が、また少し持ち上がり母親の声が聞こえる。

 ――やめてってば、もう。あげるんじゃなかった。


 


「喬之介? 顔色が悪いな。休んだほうが良さそうだ。茅花、今日はもうお開きにしようか」

 手が、微かに震える。

 それを気取られないようにトングを置くと、高秋に向き直った。じっと見つめられるその視線から目を逸らさずにいるのは辛かったが、ぎこちなく笑顔をつくると喬之介は、静かに切り出した。

「いや、僕に気にせず二人で続けて。やっぱり泊まらないで帰らせて貰って良いかな。煙に酔ったみたいなんだ。歩いて帰れば、少しはすっきりすると思う」

 煙に酔った、というのはあながち嘘でもなかった。脂を含んだ煙は、もたもたと纏わり付き、また、どんな隙間にもするりと入り込む。身体中といわず、喬之介の肺の中も頭の中にさえも充満し、薄く膜を張るのだった。

 思考は鈍り、息苦しさには目眩がする。

「喬ちゃん、本当に大丈夫?」

「うん、また誘ってよ」

 椅子から立ち上がる。

 込み上げてくる吐き気を、ぐっと飲み込むと「じゃあ」と、何気ない顔をつくり高秋を見た。

「煙、か……そうか」

 高秋は、ふっと黙り込んだ。

 束の間の沈黙が、恐ろしかった。

 探る高秋の視線が、オイルライターで集めた光のように喬之介を照らす。手を翳し、顔を背けたくなるのを堪える。

 そうやって身構える喬之介に、高秋は、やがて和らいだ顔を見せた。

「気をつけて帰れよ」

 あまりに優しく、幼い子供に向かって言うようなその口調に、喬之介は狼狽し「うん」と短く答えた自身の声すら酷く幼いものに変わってしまったのを感じるのだった。

 

 玄関の扉を後ろ手に閉め、足を踏み出した時、やけに静かさを感じた。そのまま二、三歩進んでから喬之介は、隣の家からテレビの音が消えていることに、遅ればせながら気づく。スマホを取り出し、時間を見れば二十二時を少し過ぎたところだった。

 斉藤のお婆ちゃんは、今日も娘は帰らなかったがしかし明日こそは、と思いながらテレビを消し、家中の照明を落とすのだろうか。

 希望を抱いて眠るのだろうか。

 絶望に抱かれて眠るのだろうか。

 遠雷の低い轟きが空気を震わせる。閃光が走り、辺りを一瞬だけ浮かび上がらせた。

 空を見上げる。

 雨はまだ降りそうにもない。

 目には見えない纏わりつく煙の匂いを、周囲にたなびかせながら歩く喬之介は、いっそのこと、雨が全てを洗い流してくれたら良いのに、と思うのだった。


 高秋のオイルライターは、喬之介の母親がプレゼントした物だと、今やはっきりと思い出していた。

 それは秘密でも何でもない。隠していたことでも、隠されていたことでもなかった。

 美術の短大に通っていた母親は、確か版画を専攻し、銅版画に力を注いでいたと聞いた覚えがある。そうであれば、自らが彫金したオイルライターをプレゼントしても、なんの奇妙なこともない。

 だが……。

 子供であった頃には気づかなかったことが、あの頃には見えていなかったことが、喬之介には見えてしまった。

 高秋の、喬之介の母親に向ける眼差しだ。

 しかし直接的に、ではない。向けることの出来ないその眼差しは、いつだって掌の中のオイルライターに向けられたものだった。

 いつから、だろう。

 だが、それに気づいたからこそ、気づかれたからこそ、高秋はあの小さな海辺の町から離れていったのではないだろうか。

 再びの閃光が、辺りを照らす。

 地面に落ちる影が、やけに黯く見えて、喬之介は足を止め瞼を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 目を開け、再び歩き始めた喬之介は、自身の身体に纏わりつく煙の匂いの向こうにまた、煙草の幻嗅を感じた。

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