3-1
ジャケットの内側のポケットに入れてあったスマホが、震えて着信を知らせたのは、クリニックを出て帰宅の途についていた喬之介が、そうたいして歩かないうちのことだった。
片時、雨の止んだ歩道に残る僅かな水溜りの前で立ち止まった喬之介は、ポケットに手を滑らせスマホを取り出すと、画面に表示された文字にさっさと目を走らせる。親指でスライドして耳に当て、再び歩き出した喬之介に、良く知った低く落ちついた声が届いた。
ふっと笑いながら「アキ叔父さん、どうしたんですか?」と聞けばスマホの向こう『どうしたんだと思う?』と穏やかなその声とは裏腹に、いつだって喬之介を揶揄う機会を逃すまいと口元に笑みを浮かべている叔父の高秋の顔が、見えるようだった。
ハイブリッド符号化方式と呼ばれる、今の多くのスマホに使われている合成音声の仕組みによって、本人と良く似た、厳密にいえば本人の声ではないその音は、喬之介の記憶にある父親の声とも良く似ていた。
兄弟ということもあり、顔や姿はもとより、おそらく似たような骨格をしているのだろう。
『相変わらず暇なんだ?』
「お陰さまで忙しくしてますよ」
空を見上げれば、低い雲の隙間に地面の水溜りに良く似た小さな夜空が、覗いている。
視線を前に戻し、行き交う人の仕事終わりの感情を切り離したような顔を見るともなしに見ながら、喬之介は歩く速度を緩め駅の方へと向かう。
『おっ、ついに二股する甲斐性でも身につけたとか?』
「二股するようなマメさは、元から僕にはないですよ。それに甲斐性を経済的なものとするなら、まだまだです。そうではなくて気性の意味で尋ねているなら、ご存知のように、そんなものは後から身につくようなものでもないと思いますけどね」
高秋が、くっと喉の奥で笑うのが聞こえた。
『まったく。お前ってヤツは屁理屈ばかりだな。そろそろ可愛気のある喬之介と代わってくれる?』
「何かあったんですか?」
『なくちゃ駄目なことないだろ。安心しろ、祖父さんは田舎で、茅花はすぐ目の前で元気にしてるよ。たまには一緒にメシでも食おうと思って、電話したんだけど、どう?』
「……いいですよ」
思わず一拍を置いて答えた喬之介の声のそこに、迷いを感じ取ったのだろう高秋が『なんだ? マズかったとか?』と間髪入れずに尋ねる。
眉を顰めた高秋の顔を思い浮かべた喬之介は、見えないと知りつつ小さく首を横に振りながら返事をした。
「いや、そうじゃないけど」
『けど?』
意味のある偶然の渦中にあることを思い知らされているんですよとは言えずに、喬之介は、ひとり苦笑いを浮かべた。
「や、こっちのことだから気にしないで。どこに向かえばいいですか?」
『ウチの方へ帰って来いよ。物置きで埃をかぶってた
「楽しそうですね」
『だろう? 待ってるからな』
間を置かずして大きく声を張り上げる茅花の『喬ちゃん、早く来ないと美味しいお肉は全部食べちゃうからね』という言葉が聞こえて喬之介は、声を出して笑った。
「ははっ。なにそれ美味しいお肉と、美味しくないお肉があるんだ」
『まあ、予算の関係?』
つられたように、くつくつと笑う高秋の背後からは、炭の具合はこれで良いのかと、尋ねる茅花の声がする。
「……じゃあ、後で」
『ああ、待ってる』
スマホを手にしたまま、どれ、見せてと言いながら移動する高秋の気配に喬之介は、笑みを浮かべた顔を、すれ違う人から隠すように下に向けた。
踵を返すために立ち止まり、スマホをジャケットの内側のポケットに仕舞うと喬之介は、元来た道を引き返す。
大きな通りに面した鞠内心療内科クリニックのある建物から内側に一つ入った通り、古い住宅街の一角に祖父母の、今は叔父の高秋と妹の茅花が、住む家がある。
見慣れた風景を歩きながらも喬之介は、古い家の多いこの辺りは、深夜でもないのに、ひどく静かだと感じる。
住んでいるのは祖父母の世代が多く、ちらほらと新しい家も目立つようになってはきたが、住宅街の新陳代謝は進んでいなかった。
また、何軒か空き家のようにも見える家の中にも住人は居て、ひっそりと音も立てずに暮らしているのだ。
かつては賑やかに走り回る小さな子供がいて、子供の成長と共に狭いと感じた家も、いまや部屋は余り、静寂と埃と暗闇を飼う。窓ガラスには、もう誰も映らず、ふと聞こえるものといえば子供の甲高い笑い声ではなく、家鳴りや時計が秒針を刻む音。
そうやって空間の方が住人を押し出すように、昼夜関係なく家の中で生まれた暗がりが、外にまで、じわりと滲んで闇を濃くしているのだった。
門の前まで来た喬之介は、家を見上げる。
二階の部屋の窓は暗かったが、その扉は少し開いたままだと見えて、階下の明かりが斜めに映っていた。
玄関灯が切れている。
気づいていないのだろうか。
門の中は穴に落ちたように真っ暗だった。
開け放した隣りの家の窓から、弾けた声で笑う大きすぎるテレビの音が聞こえる。
ひとつ間違えれば騒音だが、喬之介が子供の頃には既に、良い歳だった斉藤のお婆ちゃんが健在であることの証しとして、近所では黙認されていた。というのも決まって二十二時にはテレビの音が消えるからである。今も以前と同じならば、朝の五時になるとまた、テレビが点けられるのだ。
繰り返される規則正しい生活。
喬之介が玄関の扉に手を掛けたとき、家の奥から、茅花と高秋の楽しそうな声が聞こえた。玄関を開け、靴を脱ぎながら喬之介が「ただいま」と奥に向かって来たことを告げると「お、早かったな」と高秋の機嫌の良い声に迎えられる。
洗面所に寄り、喬之介が、薄暗い廊下から目をしばたたくほど眩しい台所へ顔を出すと、ダイニングテーブルに載せた
「喬ちゃん、おかえりなさい。あ、鞄とジャケットは部屋に置いてこないと、匂いが着いちゃうよ」
「二階のお前の部屋、寝られるようにしてあるから、置いてこいよ。泊まってくだろ?」
「アキ叔父さんは、何してるんですか?」
椅子の上に乗った高秋は、にやりと笑うと天井にある火災報知器を指差した。見れば、もう片方の手には、ビニール袋を持っている。
「いやコレを被せとかないと、煙に反応して……」
「すっごい音が鳴るんだよ? 知ってた? 後付けの家庭用火災報知器だから、単に大きな音と一緒に、火事ですって繰り返すだけなんだけど、いっつもいきなりで、ものすごく焦るんだから」
「切れば良いんじゃないの?」
「ホラ、切ると、また入れるの忘れちゃうだろ。前にやらかしたんだよな。切ったのは良いんだけど入れ忘れて。もうもうと煙りが上がってるのに、音が鳴らなくてさ。それ以来、こうして家で焼肉やる時はビニール袋被せてんの。袋がぶら下がっていれば嫌でも気づくってやつだ」
そうそう、と頷く茅花は、網の上に並べた肉から目を離さない。
食べたら帰ると言ったが聞き入れて貰えなかった喬之介は、二人に促されるまま、二階の自室として使っていた部屋に鞄とジャケットを置きに行き戻って来ると、高秋の隣りの椅子に腰を下ろした。
「あ、喬ちゃん、思ったほど煙も出てないなって顔してる」
冷えたビールの缶を、茅花は喬之介に手渡しながら笑う。
「な、やっぱ焼くなら炭だよ、炭。今までのホットプレートなんかより、
網の隅の方に椎茸とアスパラガスを並べ終えた高秋が、ビールの缶を喬之介に向かって小さく持ち上げる。
「美味しいお肉は、さらに美味しく。そうでないお肉も、それなりに」
「それってアレだ」
「秋パパがよく言うやつだよ」
「有名な元があるんだよ。茅花、知らない?」
「茅花は、知らないかもな。まあ、それも俺が生まれた頃なんだから、知らなくて当たり前か。とはいえ俺も、祖父さんがよく言ってたから知ってるってだけなんだけど……喬之介が知ってる方が驚くよ」
「そう? 過去のCMを振り返る番組とかでは、結構観たけど」
「そういや、そういうの最近観ないな」
開け放した窓から聞こえる隣りの家のテレビの音は、外にいた時よりも近い。
テーブルの上の、ニンジンや大根、セロリといった野菜スティックの中からニンジンを選んで、何味か分からない薄茶色のディップソースをつけながら喬之介は「テレビといえば、隣りの斉藤のお婆ちゃん、元気そうですね?」と高秋を見た。
口の中に入れた薄茶色のディップソースは、単に味噌とマヨネーズと擂り胡麻を混ぜただけのものだったが、その味は良く知った懐かしいもので、喬之介は咀嚼しながら亡くなった祖母を思い出す。
「元気だよなあ、幾つになるんだっけ?」
「わたし知ってるよ。確かね、九十二歳になるって言ってたかな」
「それは凄いな」
「へえ。茅花、話したりするの?」
「ごくたまに、ね。ヘルパーさんとお散歩してるときに、ばったり会って挨拶したり。ちょっと立ち話? 耳は遠いけど、しっかりしていて、さ。歳を取るなら、斉藤のお婆ちゃんみたいなのが良いなあ」
「まあなぁ」
「それは、まあね」
「なによ? なんか変なこと言った?」
何かを濁したような二人の返事に茅花は片方の眉を上げ、喬之介と高秋を交互に見た。
その視線を受け小さく目配せし合った喬之介と高秋だったが、少しして口を開いたのは、高秋の方だった。
「斉藤のお婆ちゃんは、しっかりしているようで、そうじゃない。もちろんボケちゃいないが、そうとも言えない……死んだ娘の現実を受け入れられず帰って来るのを、ずっと信じて待ってるんだよ」
「娘さん? それって?」
「娘さんってのは、ウチの祖父さんより、少し上かな。斉藤さんのお婆ちゃんはご主人を早くに亡くして、娘夫婦と同居していてね。子供だった俺から見ても、仲の良い夫婦だったな。子供はいなかった。旅行が趣味で、お土産をよく貰ったよ。国内だったり海外だったり。で、あるとき旅行先で……」
「亡くなってしまったの?」
黙って頷いた高秋は、まだ焼けてもいない網の上の椎茸と玉ねぎをひっくり返しながら、ビールを飲んだ。
横目でそれを見た喬之介が、話を続ける。
「……うん。不思議なのは、その娘さんが帰って来るのを信じていることじゃなくて、斉藤のお婆ちゃんの中では娘さんが高校生ってところなんだよ」
「えっ? だって、娘さんは旦那さんと旅行先で亡くなってるんでしょう?」
「そうだよ。僕が中学に上がった時だった。お葬式もあったから良く覚えてる。それが済んでから斉藤のお婆ちゃん、おかしくなっちゃったんだ。隣りの家はお婿さんが建て替えたらしいんだけど、そんなことも忘れてしまうくらい……というか、斉藤のお婆ちゃんの中での娘さんはまだ高校生で、どういうわけか家出してることになっているんだ。どうして僕が知っているかと言うと、そのあと僕が、たまたま娘さんと同じ高校に進学したものだから、あの頃はよく話しかけられたんだよね。理恵子は学校に来ていませんかって、それでお祖父ちゃんに教えて貰ったんだよ」
斉藤のお婆ちゃんの娘さんは、理恵子という名前であること。お祖父ちゃんよりも少し歳上で、芯のある人に見えたこと。お婿さんは剛さんといって、穏やかな人だったこと。
そして斉藤のお婆ちゃんは、娘が、ある朝高校へ行くふりをして家を出たまま、学校へも行かず、帰って来なくなってしまったと思っていること。
喬之介は祖父に聞いた話の、覚えていることをそのまま茅花に話す。
「喬ちゃんは、なんて答えてたの?」
「僕は分かりませんって。そうすると斉藤のお婆ちゃんは、凄く悲しそうな顔で何も言わずに背中を向けるんだ。僕が高校を卒業するまで……いや制服を着なくなるまで、会うたびに何度も同じことを聞かれたよ。理恵子は学校に来ていませんかってね」
もし『来ていますよ』と答えたらどうなるだろうかと考えたことが、あの頃の喬之介には一度ならずあった。言って安心させることが出来るなら、その言葉を迷うことなく言っただろう。
「だけどな、それ以外は普通なんだ。俺のことも祖父さんのことも分かってる。喬之介が制服を着ていなければ、娘さんのことを尋ねることもない。それを考えると斉藤のお婆ちゃんは、どこか一箇所だけ、時空が歪んでしまったみたいだなあ」
喬之介の後に継げるように高秋が言う。
まだ少し早いと喬之介には思える肉を、茅花は摘み上げ、ちらりと裏を覗き、薬味皿の岩塩を端でそっと撫でるようにして口に放り込んだ。
「何か忘れたいことがあったのかな?」
「多分、な」
束の間、換気扇の音よりも大きく、隣りの家からテレビの軽薄な笑い声が届き、耳の奥にこびりついた。
「うーん、わたしは存在さえなくなっちゃったお婿さんが、可哀想だって思っちゃった。もしかしたら忘れたいのは、お婿さんとか?」
茅花の目線の先にある水滴がびっしりと付いた烏龍茶の入ったグラスの中には、いつのまにか氷の欠片もなく、上の方に無色透明な溜まりが出来、二層になっていた。
「さあな。もしかしたら、幸せの方を忘れてしまったんじゃないかなって俺は思うけどな」
「それって娘さんが高校生の時に何か心配なことがあったとか? 喬ちゃんもそう思う?」
「まあ、考え方によっては。その頃に斉藤のお婆ちゃんは、娘さんに対する何か罪悪感があるのかもしれないね。それか当時、実際に理恵子さんの家出があったとかね」
「えーっ……それって」
やりきれないよ、と茅花は小さく呟く。
「忘れたいことを選んで忘れられるなら、どんな良いだろうと俺も思うよ」
言いながら焼けた肉を取り、擂り下ろしたワサビを載せて口に入れると咀嚼して飲み込む。ややもして喉を鳴らしビールを美味そうに高秋が
網の上に新しく肉を並べながら、高秋は茅花を見て続ける。
「だけど、無かったことにしたい、忘れたいと思うことの方が、良く覚えてたりしてさ。そして不思議なことに忘れてしまうのは、忘れたくないと思った些細な喜びだったり、小さな幸せの記憶だったりするんだよな。感情としては、その瞬間の歓喜を強烈に覚えているのに、出来事の前後は曖昧だったり、してさ」
忘れてしまった記憶。
だが、記憶の中で失われたとするそれは、どこかに永遠に残り続けている。ただ単に、その
出し抜けに、喬之介の中にあの声が蘇る。
『大事なのは、忘れることだ』
一体どういう意味なのだろう、自分は何を忘れてしまったのかと、手元に視線を落とした時、テーブルの上に置いてあるステンレスのトングが、天井の照明を反射し、やけに眩しく感じた。
何かを思い出しそうになった喬之介が、無意識にトングを掴み、手の中にあるそれを目にした途端、肉の焼ける煙の匂いに混じって、ふっと煙草の匂いが鼻先を掠めた気がしたのだった。
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