3-3
「ねえ先生。今ね、外でなんだけど……気になるものを見つけちゃったのよ」
気象庁による梅雨入り宣言があって以降、当然の如く雨の日が増えた。
だらだらと日夜問わずに降る雨は、空から重たく陰鬱な
デスクに座り、面談が予定されているクライアントのカルテを用意していた喬之介は、この日も早くに出勤してきた池永に呼ばれて顔を上げた。
「……外?」
問いながら何の気無しに窓の方へ振り向けば、喬之介が自宅を出た頃よりは
「何か、あった?」
「ゴミだとは思うのよ……多分というか、きっとゴミなんでしょうけど」
歯切れの悪い声で池永は何を思うのか、喬之介は黙って先を促した。
「クリニックの玄関脇に、
なにぶん花に疎いのは否定できない事実であるが、いくらなんでも
「そうは言っても、いつまでも綺麗というわけじゃないじゃない? どうしても花色は変わってしまうから……」
「今朝も玄関周りを掃除するついでに、剪定していたのよ。そしたら……ねえ? 毎朝見てるくせに、いつからあったのか全然分からなくって。というのも
何が、とまでは言わないところをみると池永は、喬之介に直接見て貰いたいのだろう。つまり池永は、多分ゴミだと思うと言っておきながらも、そのことに自信がないのだ。いや、そうではない。寧ろ自信がないのはゴミではないと考える理由にあるに違いなかった。
だとすると池永は、それがゴミであって欲しいと思っているのだろうか。
「何かな。見れば分かるもの?」
好奇心と不安が、ないまぜになる。デスクを離れながら喬之介は、先を急ぎ歩き出した池永に尋ねた。
「そう……ねえ」
受付の裏を通り、表玄関のガラス扉の前まで来ると一寸だけ立ち止まって池永は、喬之介の顔を見上げた。
常日頃から表情の変わらない池永が何を言わんとしているのか、喬之介は顔を見ただけでは今ひとつ分からなかったが、彼女の目の奥が微かに揺らいでいることだけは分かる。
行く手を塞いで立つの池永の身体を避けるように、喬之介は、表玄関の片開きのガラス扉に手を伸ばした。その、とろりとした艶のあるクラシカルな真鍮のドアハンドルが付いたガラス扉は、リノベーション以前から使用しているもので、沢山の人の手によって磨き込まれるその一方で、人が触れることのない端の方は色褪せ、傷が付いた装飾部分には緑青が浮いている。
そして筋張った喬之介の手が、その鈍く光るドアハンドルを掴み、扉を押し開ける動きは、同時に、ここに来て渋る池永を無理矢理ポーチへと押し出す格好となってしまったのだった。
「……っと、ごめん池永さん」
「あら、先生。これぞレディファーストってやつでしょ? イヤね……そんな顔して」
冗談よ、ちっとも面白くないけどと池永は、両手を小さく上げた。
「それより、こっち見てくれる?」
ポーチから身を乗り出すようにして、中腰になった池永が、雨で濡れて光る
暗がりに、見えた。
小舟、だ。
プラスチックで出来た安っぽい玩具。
地面にほど近い太い茎と細い茎の間に、横倒しになって、挟まるようにしてそれは、あった。
「最初はゴミかなあとは思ったのよ。お菓子か何かのオマケの。でも、ね? 他にゴミらしいビニールの袋も紙くずもないし。よくよく見てたら、この大きさ……ちょうど箱庭で使用する玩具くらいでしょう?」
喬之介を振り返った池永の顔は、珍しく眉根を寄せている。その顔は、クライエントの誰かが部屋から持ち出し、ここに密かに置いたのではないだろうかと喬之介に向かって暗に仄めかすものだった。
「何か意味があるのかしら? だってあの小部屋の棚には、沢山の造型物があるじゃない? それこそ、そこにあるプラスチックの小舟があったかどうかも記憶にないくらい。舟だって大小様々で、素材も違う色んな種類の物が置いてあるし誰かが……」
「だとしてもこの小舟は、棚にあったものじゃないよ」
池永が最後まで言い終えないうちに、喬之介は否定する。
「あら、先生はさすがに分かるのね?」
「それは、まあ……あの造型物を集めたのは僕だし」
「そうだけど、泉田くんも『いいのありましたよ』なんて言って持って来てたりしてるじゃないの」
「確かに。とは言っても、そのほとんどが僕だ。棚にあるもの全部を把握している。その上、泉田くんには黙って新しい造型物を置くようなことはしないように伝えてあるから」
誰かは分からないが、箱庭から、はみ出してまでここに置くことが必要だった物なのか。
それとも、この世界を箱庭の中だと……。
誰かに覗き込まれているような気がして喬之介は、思わず空を見上げた。あるのは雨を落とす灰色の雲ばかりである。
「この小舟を目にしたとき私、あまりの寂しさに、ぞっとしたの。それから残酷なほどの悲しみ。圧倒的な孤独感と言い知れぬ罪悪感。座礁してしまった小舟に見えたからかしら? 先生は? 海の底に沈む舟とか?」
空から顔を戻した喬之介に、
「……座礁?」
「だって、ほら。この小舟は、どうやったってもう茎の間で身動きがとれないでしょう? 視えない大きな手で、無造作に置かれた為す術のない小舟。まるで波に攫われたように……これを見た瞬間、なぜかあの映像を思い出したの……津波のあとに建物に乗り上げてしまった船。だからそう感じたのかもしれないわね」
自らの力で生きているつもりが、見えない力によって生かされているのだという途方もない無力感。
「切ない、ね」
喬之介の言葉に池永が振り返る。
だが池永が、目の前の小舟によって感じている孤独感と罪悪感は恐らく、彼女自身の内界に起因している。何故なら孤独感も罪悪感も、調和性の裏返しにあるものだからだ。誰かと繋がっていたいのに繋がれないという分離不安があったり、自分を無価値なものと考えてしまうとき、人はその感情に振り回されてしまう。
ただ喬之介は、敢えてそれを口にすることはしなかった。池永がクライエントではないからというのではない。口にする必要が無いからだ。
人は誰であれ、常に相反する気持ちが同時に存在している生き物である。いっそ死んでしまいたいと思いながらも、生きていたいと願う。強気な心と弱気な心。純心と邪心。優しくしたいのに、冷たくしてしまう。愛されたいと願いつつ、いざその愛を目の前にしたとき恐れを感じ拒絶し遠ざかってしまったり、また、愛し過ぎるゆえに憎しみが募るなど、その複雑で矛盾した心を抱えながら、そうした中で生まれる孤独感や罪悪感とも上手く折り合いをつけ、人は日々を生きているのだ。言うまでもなく池永もまた、その多勢の一人である。
片や、クリニックに来る患者は、その矛盾した感情と上手く折り合いがつけられずに暴走した状態にあった。
そのようなクライエントのことを思うとき喬之介は、夜の嵐の海に放り出された小さな舟の中にいる彼らの姿を想像するのだった。
彼らは真っ暗な闇の中、激しい風雨や波に翻弄され、櫂もなく――例えあったとしても役には立たない――進む方向は皆目分からず、それでもどうにかしようと流れに逆らい自らの両腕を虚しく振り回すことしか出来ない。
そうして夜の明けるのを待たずして、海の底に小舟ごと沈む者もあれば、何とか夜明けを迎えられる者もいる。中には、そう……座礁してしまう小舟だってあるだろう。
それでは、舟の中の人は?
海の藻屑となって消えてしまうのか?
「あんまりだ……それじゃあ余りにも……」
「……先生?」
それまで喬之介を振り仰いでいた池永が、雨に濡れた葉から手を離し立ち上がる気配に「いや、なんでもない」と無意識に一歩後ろへ退がる。
だが、そうなのだろう。
ひとたび夜の嵐の海に呑まれてしまえば、小舟から放り出されてしまった彼らは、浜辺に打ち上げられることもないのだ――。
「うーん。オレだったら、海の中にいるのかなって考えますけど……これって何かの心理テストかなんかですか?」
その上で、小舟に人が乗っていたとして、その中の人はどうなったと思うか、と喬之介が泉田に尋ねた答えがそれである。
「海の中? 海の中にいるの?」
「そうです。断っておきますけど現実世界での船が転覆した後の話は別ですよ。その話じゃないんですよね? だったら、なんとなく浦島太郎みたいに……っても竜宮城で乙姫さまに歓待されてるとかは違くて、なんなら虐められている亀を助けたわけじゃないしって言うのは冗談ですけど。海の中に知らない世界があって、単にそこに居るんじゃないですか」
「……死後の世界ってこと?」
「えー、違いますよー。死にませんって。現実世界の話じゃないって言ってますよね? 先生も現実から離れて下さい。だってほら浦島太郎だって帰って来るじゃないですか。死後の世界なんかじゃなくて、それまで存在するとは思っていなかった全く知らない新しい世界ですよ」
「ふうん。それなら泉田くんは海の中に沈んだ人も浦島太郎みたいに、いつかは元の世界に帰って来るって思っているということ?」
「そりゃあそうですよ。竜宮城がどれほど素晴らしくても、浦島太郎は帰りたいって言いますよね? だから知らない世界がどんなものか、ある程度分かったら、やっぱり帰りたくなるんじゃないかなあって思うんです。まあ人によっては元の場所に帰りたい、までは思わなくても、離れたことで前に居た世界が気になったりするんじゃないかなってオレは思うんです。で、結果的に元の世界に帰って来る人もいれば、やっぱり海の中を選ぶ人もいるってだけなんじゃないスかね」
「前から思っていたけど、泉田くんは……」
「あー、先生。単純だって言いたいんでしょう? いいんです。そんなことはオレだってよく分かってますから」
……違う。
良くも悪くも純粋で、健全なのだ。
「で、オレ思うんですよ。そうすると考えようによっては、このクリニックもまた、海の中だったりするんじゃないかなあ、なんて」
喬之介は、泉田のその言葉に思わず目を見張るのだった。
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