4-1
相変わらずの梅雨らしい毎日だった。
ここ一週間は雨こそ降らないものの、それでも梅雨の合間に見える青空を期待している喬之介にとって、濃い灰色の重たくぶら下がる
とはいえ喬之介を気鬱にしているのは、何も天候の所為ばかりではない。
通り越した筈の黯い穴が、喬之介を飲み込もうとばかりに背後から襲い来るような、有りもしない不安。
つまりは、喬之介は忘れたと思っていた遠い海辺の町で過ごした頃を続々と、思い出すようになっていたのだった。
だが、実のところ始まりは小舟ではなく煙草の、それも偶然に嗅いだメンソール煙草の匂いだということに喬之介は気づいていた。
偶然というものが、何かと結びつく非常に大きな意味を持つ巡り合わせであり、予め決められたその運命の前にある列をなすドミノの一片であるのなら、小舟を見つけたときに池永が喬之介に向かって言った言葉もまた、その一片の偶然だった。
……圧倒的な孤独感と言い知れぬ罪悪感。
今になって過去が追いかけて来るのは、高秋の、掌の中のオイルライターに向ける愛しげな眼差しの奥にあったものが、孤独感と罪悪感だったのだと、小舟を前にした池永の言葉を聞いたとき、喬之介が気づいてしまったことにある。
高秋が孤独感や罪悪感に苛まれているのは、言うまでもなく、愛してはならない人を愛してしまったことに違いなかった。
喬之介の母親であり、兄の妻で、義理の姉というひとりの女性を。
夏の終わりを告げる嵐は、昼間のうちは時折り唸り声を上げ、ガラス戸を乱暴に揺さぶるだけで、その全ての姿を見せない。
窓辺に立てば、鈍色の空と黄味がかった灰色の海の上、険しい白波が鋸の刃のように、ある秩序でもって幾重にも並んでいるのが見えた。隙間風が虚ろな音を響かせる。押し寄せる低い潮騒の轟きと共に、訳の分からない不安が、恐怖が、家の中にまで侵入していた。
思い出したように大粒の雨が、音を立てて降っては、止むを繰り返す。
幼い妹のか細い泣き声が、怯えを含んでいるように感じるのは、喬之介自身が怯えているからだ。瞬間毎に日常が、非日常へとじわりじわりと塗り替えられてゆく。
「ねえ、お母さん。雨戸を閉める?」
少し前、部屋の中が一段と暗くなり、風雨が激しさを増した。窓ガラス一面に弾丸のような雨粒が次々と撃ち込まれ、歪に潰れた透明な弾頭を貼り付けては幾つもの筋になるのを、忘我の状態で眺めていた喬之介は、振り返って母親に尋ねる。
「まだ、良いわ」
細いペン先で紙に絵を描いていた母親が、顔を上げ喬之介に向かって微笑んだ。
……そうだ。
あの頃の母親は、少しでも時間が出来ると、黙々と絵を描いていたのだ。おそらく銅版画の下絵だったのだろう。
白い紙に緻密な線で描かれる、想像の世界に生きる繊細な鳥や花。
「嵐の日って好きよ。重苦しい複雑な渦を巻く空が、色濃く厚みを増して、辺りがぐんぐんと暗くなって、海鳴りが風雨と共に押し寄せる。それはまるでこの世の終焉を目の前に絶望しながらも、どこかに瞭然とした再びの始まりを感じさせる。つまり、終わりを見ながら、同時に始まりを見ているみたいってことかな。喬之介は? ワクワクしないの?」
聞かれて喬之介は、少し考えてから首を横に振る。
「身体中が、ゾワゾワして怖い」
「そうね、その感覚は分かる。嵐が来る度に、荒れ狂う海とわたし達の血潮は共鳴しているんじゃないのかって思うの。それに、興奮と恐怖はよく似ている」
「血潮?」
「そう。わたし達の身体の中を流れる、血や感情」
どうして忘れていたのだろう。
喬之介が、どれほど遠く、海から離れようとも決して逃れることが出来ないのは、身体の中に海と繋がるものがあるからだ。
――それは、
「お母さんは、嵐が怖くないの?」
「怖い? そうね……興奮と恐怖は似ているって言ったでしょう? ゾクゾクしたり、ドキドキしたり。どちらも心拍数や呼吸数が上がるわよね? 怖くはないけれど……高い所へ登ると、空中に向かって飛び込んでみたくなるように、嵐の中で荒れ狂う海を見ると、高い波の中へ身を投げ出してみたくなるの。終焉の先に光明が見えないかと」
あの時、母親はどんな顔をしていたのだろう。下を向いて絵を描いていたような気もするが、喬之介に向かって静かな微笑みを浮かべていたような気もするのだった。
風雨はガラスを突き破る勢いを見せ、闇は少しずつ忍び寄り、気づけば部屋の中は墨汁で染めたように濃墨に深く沈んでいた。
幼い妹の、火のついたように泣く声が隣室から聞こえる。
「手元が見えづらくなったわね。電気でも点けましょうか」
立ち上がり、妹の元へ向かうため部屋を出てゆく母親が、部屋の明かりのスイッチを押した。
途端に鼻白むほどの眩しさが、闇を蹴散らし部屋を照らす。昼間から暗い部屋に電気を点けることは非日常感を煽るが、それでも一瞬、どこかに自分自身を置き去りにしてしまったような強い白々しさを感じるのは何故だろうと、人工的な明かりを見上げながら喬之介は思うのだった。
木製の雨戸を閉めるには、勘所を必要とする。吹き込んでくる雨粒に、どれほど顔や身体を殴られても焦りは禁物だ。古い家であることもあって戸車が痛み、滑りが悪く、一度引っ掛かると子供の力ではどうにも動かなくなってしまうからである。
手を掛けるところが重要で、それさえ間違えなければ素直に動いてくれた。迫る闇がこれ以上入り込まないように、ぴっちりと戸を閉め木組みの
拍子木を打ち鳴らしたような高く乾いた音が、耳の奥を貫き、家中に響き渡る。全ての雨戸を同じように閉め終わると、時間の感覚が分からなくなった。
いつの間にか、妹が泣き止んでいることに気づく。戸を一枚隔てただけで、吹き荒ぶ嵐と唸り声を上げる海の気配が薄くなる。
「今夜は早めに、ご飯にしちゃおう。それも特別なご飯にしようか」
母親が、寝息を立てる妹を抱えて、喬之介の顔を覗き込みながら傍に立つ。続けて悪戯そうな顔をして「それからお風呂に入った後は、眠くなるまで映画館ごっこはどう? 真っ暗な部屋で、嵐に負けないくらい、うんと大きな音を出して迫力満点で観るの」と笑いかけるのだった。
父親が単身赴任で不在の間、喬之介と母親は時折り二人が呼ぶところの『特別なご飯』の夕飯を摂ることがあった。
始まりは、一冊の絵本だ。
バターになってしまったトラと、家族で競い合うようにして、お腹いっぱいのパンケーキを食べた後の挿し絵を眺めていた喬之介が「僕だったら、どのくらいパンケーキが食べられるかなあ」と呟いたのを母親が面白がったのである。
だったら、やってみようか? とその日の夕飯に何十枚もの薄いパンケーキを焼き、絵本の挿し絵のように皿の上へ積み重ねると、さすがにそれだけではと思ったのだろう、その他にチーズ、ベーコン、ウィンナーに、苺やオレンジ、バナナ、バターは勿論のことサワークリームにシロップ、ブルーベリージャム、マーマレードと、とりあえず家にあったものをテーブルいっぱいに用意し「さあ、競争しよう」と二人でお腹がくちくなるまで食べたのだった。
朝食のような夕飯は、パンケーキにバターを塗るときのクスクス笑いから始まり、ジャムを溢しただけでも笑い転げるほどの奇妙な興奮状態の二人に変え、笑い過ぎて痛む腹を抱えながら、結果は母親が四枚、喬之介が五枚と半分に終わった。
それ以来、思い出したように絵本やお話に出てくる料理や菓子を二人で作り、楽しむことになる。
大きなカステラだったり、色々な具材の小さなおにぎりを山ほど握ってみたり、大量のコロッケばかりだったり、ドーナツやミートパイだったり。
普段のバランスの取れた栄養素や彩りを重視した、いわゆるきちんとした食事とは違う、好きなもの、気になるもの、食べたいものばかりのそれは、ちぐはぐな組み合わせや、おやつのような食事や、甘いものだけなどの、どこか背徳感が漂う『特別なご飯』は繰り返される変わり映えのない日常の中に、意図して作られる非日常だった。
母親は、高秋が持ち込むことのなくなった非日常を自らが作り出すことで、溜まる鬱屈を解放していたのだろう。
それは決して父親が一緒の時には食べることがない食事でもある。些か頑愚なところがある父親は、このような食事を喜ばないと知って、決まって父親が不在の時にだけ『特別なご飯』の日はあった。
そう、つまりあの日。嵐の夜も。
父親は、何の前触れもなく帰宅したのだ。
間違いない。
でも、何故?
不意をつくようにして帰って来たのは、何か理由がありそうだった。
「ぎょうれつのできるスープに、ジャイアントジャムサンドにしない?」
メニューが決まると喬之介と母親は、絵本を引っ張り出してきて、二人で頭を突き合わせ、もう一度本を丁寧に読み直す。
「ちゃんと設計図を頭に入れなくちゃね」と母親は笑う。
絵本の中の料理は、レシピが書かれているものもあれば、書かれていないものもある。喬之介が好きな本や絵本には書かれていない場合が多く、その為、母親は喬之介に「書かれていないものは読みながら頭の中で組み立てるの。想像を使って設計図を作るのよ」とよく言ったものだ。
そういえば高秋と、たった一度だけ『特別なご飯』を一緒に食べたことがある。最初で最後になってしまったあれは、いつのことだったのだろう。
スープにはレシピがあるので、絵本を片手に材料を揃え、ジャイアントジャムサンドイッチの設計図は、喬之介の想像力に任されたのだった。
パンに塗ったのは春に母親と作った苺ジャムであったことをも喬之介は思い出し、失われてしまった過去の何もかもに込み上げる感情を堪えて瞑目する。
あの日、あの嵐の夜。
家の中には、争う三人の大人が居た。
男二人は背中を向けていたことから、喬之介がはっきりと顔を見たのは母親だけである。
突然、何の知らせもなく単身赴任先から帰宅した父親ともう一人。
争い合う大人のうち、残る一人は母子しかいない家に強盗に入るべく、嵐の夜を狙って来た全くの他人だとこれまで喬之介は思っていた。
いや、そう思いたかったのである。
疎遠になっていたからという理由だけで、高秋ではないと、全くの他人だと思いたかったのだ。
だが改めて考えてみれば、高秋であると考えることこそが相応であり、当然でありはしないだろうか。
あの耳元の囁き声。
『大事なのは、忘れることだ』
喬之介に忘れることを望んだ理由が、どこにある筈だった。
それがもし、高秋であるなら……。
瞼を閉じると
――あの夜、招かれざる人物はどちらだったのだろう。
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