4-2
曇り空の夜が晴れた日よりも明るく感じるのは、地上の光りを乱反射しているからだという。
まるで
喬之介は、仕事終わりに祖父の家へ向かって歩いていた。
以前、茅花が喬之介の家へ来たとき、祖父の家の片付けをしていて両親の写真を見つけたと言っていたのを、不意に思い出したからである。
記憶の中の両親の姿を確かめたかった。
本来なら手元に残って然るはずもの一切合切を、あの火事が全て消し去り、喬之介に残されたものといえば、時が経つごとに曖昧模糊としてゆく記憶だけだった。
どこか上滑りしているようにも感じる曇り空の夜の明るさは、都合良く変換された記憶と似ている。
偽物ではない、かと思えば本物とも違う。
見慣れた風景が目の前に現れ、祖父の家まで後少しとなったその時――
影が横切るのを、目の端が捉えた。
誰だ?
高秋だろうか。
祖父の家の庭から、出て来たのは――
いや、違う。
それならば喬之介に気づいて声を掛けそうなものだし、何より高秋よりも、やや小柄な人影だ。
急ぎ走り去る足音に一瞬、振り向いて追いかけるべきか迷った喬之介だったが、家の中の方が気に掛かり、鞄から鍵を取り出すより先に庭へ回ることにした。
玄関灯は、切れたままだ。
家は、黒い闇に沈んでいる。
平静を装いつつも、喬之介は酷く緊張していた。
じっと暗闇を見つめながら耳を澄ます。
庭の方へと足を進める。
心臓が早鐘を打ち始めた。
侵入者は、出て行った一人とは限らない。
隣りの家から、テレビの音が響いて来る。
無意識のうちに、息を潜めていた。
口の中が干上がる。
突然の、どっと弾けるような人の笑い声に、喬之介は驚き肩を揺らした。
テレビの中の笑い声と分かっても膝が震え、今や心臓は前よりも激しく、身体を打ち叩いている。
茅花は、無事だろうか? 居合わせはしなかっただろうか? 高秋は?
家の中からは、何の音もしない。
自身も音を立てないように、ゆっくりと窓に近寄る。
足を止め、中を覗き込もうとした瞬間。
パッと部屋の明かりが点き、喬之介は眩しさに思わず目を瞑った。
「……喬ちゃん? なにしてるの?」
ひとり相撲だったことに気が抜け、茅花の声に安堵しつつ喬之介が目を開けた時――
足先がずるっとしたものに触れたのを、感じた。
何かがある。
喬之介が自身の足元を見下ろすのと、茅花が悲鳴を上げたのは、同時だった。
「それ、それって……」
茅花が震える指を向けている。
その先にあるもの。
血まみれの、小鳥の死骸。
首を折られ、乱雑な格好の羽根には血が、ねっとりと覆っている。
喬之介の靴先の下敷きになっているのは、その血濡れた鳥の羽根だった。
喬之介と擦れ違うように庭から出て走り去った人影。
「茅花、いつ帰って来た?」
「いまさっきだよ。これ……喬ちゃん、な訳ないよね? 喬ちゃんこそどうして庭に? って言うかなんで家に?」
「それより、アキ叔父さんは?」
「ううん、まだ。仕事の人との付き合いで遅くなるって」
「玄関灯、切れたままなの気づいてる?」
「……あ」
「不用心過ぎるよ」
「喬ちゃんこそ、突然どうしたの?」
いまいち噛み合わない話と茅花が無事であったことの安心から、ついきつい口調になってしまう喬之介だったが、小鳥の死骸をそのままにしておくことも出来ないと、スマホを取り出した。
「どうしたの? 喬ちゃん?」
「ほんの少し前に不審な人影を見たんだ。誰かが庭に侵入したのは間違いない。警察に電話するんだよ」
今になって茅花が震えていることに気づいた喬之介は、家の中に入るように言う。
「僕は警察が来るまで外で待ってるから、茅花は家の中でおかしな所がないか見といて」
「喬ちゃんも家に入ったら?」
「また来るかもしれないし」
「だったら、なおさら」
少しの押し問答の後、茅花が折れて家の中に大人しく入って行ったのを見て、喬之介は警察に電話をした。
落ち着かない気持ちで門の前に立ち、警官が現れるのを待つ。
暫くしてパトカーで乗り付けた警官が二人、祖父の家に来て懐中電灯で辺りを隅々まで見てくれたものの、他に目ぼしい痕跡は見つからず、家の中に異常がないことを確認した後で、たちの悪い悪戯なのか動物がしたことなのか確証を得ないため、今すぐに出来ることはないと言われたのだった。
侵入者が逃げて行くのを見たのだと喬之介が食い下がってみても、隣近所はもちろん家にも防犯カメラがないことから何とも、と口を濁され、終いには玄関灯が切れていることに注意が及んだのである。
ごめんなさいと動揺したままの茅花が素直に謝ると、喬之介の気の所為でなければ、心持ち表情を緩めた警官の、安心出来るようにパトロールを強化しますと約束の言葉を信じるほかなく、後はただ帰って行くのを見送るしかなかった。
「本当に人影を見たの?」
二人の警官が帰った後、喬之介は庭に穴を掘って小鳥を埋め、傍に御線香を一本手向けると手を合わせた。
小鳥は、野鳥などではなく、セキセイインコだった。
池永と泉田の会話が蘇る。
愛情深い、小鳥。
この国では鳥籠の中で、大切に、愛を与えられて生涯を終える可愛らしい小鳥の無惨な姿が、いつまでも喬之介の瞼の裏に焼き付いてしまい離れなかった。
家の中に入った喬之介が紅茶の香りに誘われるようにして台所へ顔を出すと、それまで動揺していた茅花も落ち着きを取り戻そうとしていると見え、普段よりも丁寧に紅茶を淹れているところに出くわしたのである。
勧められるまま、向かい合って座ったところで、カップから立ち昇る湯気に息を吹きかけつつ訝しげな上目遣いで、じっと見つめる茅花に少し不貞腐れながら喬之介は答えた。
「……見たんだよ」
「まあ、あんな風な喬ちゃんは珍しかったから、そうなのかもしれないけどさ」
あんな風なってどんなのさ、と喬之介は言いかけて口を閉じた。
庭といっても敷地内に侵入者なんて、考えれば考えるほど怖くなっちゃう、と茅花がカップに唇を寄せ、熱い液体をそっと口に含んだからだ。
「アキ叔父さんが帰るまで居るよ」
「泊まっていけばいいじゃん。用事があって来たんでしょ?」
喬之介は曖昧に頷きながら、目の前に置かれたカップに茅花と同じように口をつけると、琥珀色の液体をゆっくり喉に滑らせた。
ふわっと鼻に抜ける甘い香りと渋みの少なさから、茅花の好きなアッサム紅茶だと分かる。味が深いわりに渋みが少なく、ミルクを加えても美味しい。とはいえ、どちらかといえば喬之介はフレーバーティーをストレートで飲むの方が好きなのだが、それは茅花のように上手に淹れられないからとも言える。
「ちょっと前に茅花が言ってた、両親の写真が見たくなったんだ」
「写真? わたしが見つけたやつ?」
「そう。アルバムか何かになってるの?」
「ううん、封筒に入ってたの。紐付きの……書類とか入れるやつだよ」
「見たいって言ったら、すぐに出る?」
ちょっと待ってて、と軽い足音と共に二階へ上がると、言葉どおりすぐに戻って来た茅花の手には、写真が入って膨らむ書類封筒があった。
「アルバムに整理しようと思っていながら、まだやってないんだよね」
「まあ、あの玄関灯を見れば分かるよ」
「う、その通りではあるけど……喬ちゃん、いじわるだ」
「ごめんごめん」
口を尖らせた茅花から、紐付き書類封筒を受け取った喬之介は封筒の他にフォトフォルダーがあることに気づいて顔を上げる。
「これ……?」
「それは、ね? まあ中を見てみてよ」
茅花に言われるまま、中を覗けば幼い頃の喬之介の写真が収まっているのだった。
産まれたばかりの頃から順に、少しずつ成長してゆく喬之介の姿は最後、八歳の誕生日の写真で終わっていた。
喬之介が単独で写っているものばかりではあったが、写真の中には勿論、数は少ないが一緒に写っている懐かしい母親の笑顔と父親の笑顔もあった。
「そうか……僕の写真、残ってたんだ」
「うん。お母さんかお父さんが、送ってたんじゃないかな。何となくお母さんだと思うけど。アルバムフォトフォルダーの方はね、お祖母ちゃんの部屋を片付けてるときに見つけたの。テレビ台の
紐を解き封を開けると、そっと中身を滑らせるようにして取り出した写真が、テーブルの上に広がる。最初に喬之介の目に飛び込んで来たのは、若い頃の母親のあどけない笑顔だった。
「結婚するより前だね。大学生? 幼く見える……茅花はお母さんと似てると思ってたけど、こうして見るとあんまり似てないね。茅花は、お父さん似なんだ……にしても、いまの僕より若いんだな」
写真を一枚取り上げて、目の前でじっくりと母親の飾らない笑顔を見る。
カメラの向こうに居るのは、母親が心を許している相手に違いないと分かる、そんな笑顔だった。
「そうだね。今のわたしくらいだから……そう考えると……うん。喬ちゃんの方が、お母さん似なのかあ。女の子はお父さんに似るって言うもんね。お父さんと秋パパも良く似てるから、わたしが秋パパに良く似てるって言われる筈だよ。言わなきゃ友達は叔父さんだって知らなかったくらいだもん」
喬之介の持つ写真を背後から覗き込んだ茅花は、母親の写真を見ながら頷く。
「……似て……る?」
「似てるよー。このくらいの歳の喬ちゃんの写真ない? お母さんの写真と並べたらそっくりなのが分かると思うよ?」
ぐるりと回って向かい側の椅子に腰掛けた茅花は、テーブルの上に重なる写真を、見やすいように広げ始めた。
「でもさホント若いよね。見てよ、この秋パパなんて全然まだ子供だし。確かお父さんと五歳くらい離れてるんだよね? ってことは十四歳とか? うっそ、中学生なの?」
……そうだ、似ている。
茅花のお喋りは、喬之介の耳に聞こえてはいても、全く入ってこなかった。
確かに、叔父と姪であるにしても高秋と茅花は良く似ている。
まるで本物の親子のように。
テーブルの上の写真を見る。
笑顔の両親と、高秋。
まるきりの少年だった高秋が、二人に追いついたとき、それに最初に気づいたのは果たして両親のどちらなのか。
喬之介は、目の前の茅花を見る。
九つも歳が離れた、妹。
高秋が掌の中に向ける、眼差し。
突然の、疎遠。
あの嵐の、夜。
『大事なのは、忘れることだ』
何を、忘れてしまったというのだろう。
思い出さなくてはいけないと分かっていて、それを阻むのは何なのか。
喬之介は、目の前の無邪気にお喋りを続ける茅花から視線を逸らせた。
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