2-3
昼の休憩を終えた喬之介は、診察時間の始まるまでの短い時間、カウンセリングルームでデスクの前に座り、ある一人のクライエントのカルテを眺めていた。
須見である。
午後からは、須見の二回目の面接の予定が入っていた。今回から心理的介入を本格的に始める治療面接に移るのだ。
インテーク、いわゆる初回の面接時に於いて面接継続か、リファー(refer)――自身の専門能力の範囲内を超えているクライエントであった場合、症状の悪化をもたらすことにもなるため速やかにそのクライエントに相応しい専門医を紹介する――の判断をするのであるが、須見の場合は紹介状を持って喬之介の心療内科を訪れており、その文面に書かれていたように現段階では医学的・身体的治療の必要性はなさそうであると判断したことから、当クリニックでの心理的介入を継続し、投薬は当分の間なしの方向で、心理療法だけで経過をみることにしようと喬之介は決断したのだった。
初回の面接で須見との間に交わした治療契約によれば彼とは週に一度、五十分の面接となっている。
喬之介が一日に面接するクライエントは、多くて七人。午前中に二人から三人、午後には三人から四人。
須見は、その午後の一人目だった。
喬之介の目は、カルテの上にあるものの、そこに意識はなく、前回の面接で須見の脳内に『視える』とするものについて、語られたことを考えていた。
そのことが、真実であろうとなかろうと須見にとって『視える』ことは、内的現実であるのだから、喬之介は彼を治療するにあたり、彼を素直に信じることから始めなくてはならない。
とはいえ信じるも何も実際に語られたのは、喬之介の体験した過去の一場面のように思えた。
偶然? そう、偶然に違いない。
因果関係もつながりもはっきりせず、予期しないことが起こることを偶然とするのだ。つまり、どうあっても須見が喬之介の中に『視えた』とするものは偶然である。
そしてカウンセリングで起こる偶然は、意味のある偶然の一致とされる。とはいえ忘れたいと思っている過去を言い当てられたようで、あまり気分の良いものではないと喬之介が感じるのは、当然ではないだろうか。
また、正直に言えば、その話を聴かされた時、リファーするべきか、一瞬、迷いが生じたのも事実だ。
だが、そう思った理由も、それでもリファーしなかった理由も、何故か、なんてことを考えるまでもなく喬之介には分かっていた。
両掌に顔を埋め、そのまま天井を仰いだ。
自身の掌で創りだした闇が、喬之介を押し潰す。
遠く、雷鳴が聞こえる。
季節が、変わろうとしていた。
梅雨を迎え夏、へ。
「……先生」
静かな声に、顔の上にあった両手を下ろし見れば、扉から泉田が遠慮がちに顔を覗かせている。
時計に視線を向けた。
午後一人目のクライエントは、須見は、既に待合室にいるのだろう。
「うん、時間だね」
心の内側にある、その人の物語を『聴く』というのは、その人の中へ自分が入ってゆくのではない。自分の中に、その相手の居場所をつくるということである。
椅子から立ち上がりながら喬之介は、自身の中へ須見を招き入れる覚悟を、遅いと言われようと何と言おうと、今になってようやく決めたのだった。
「先生、雨雲が近づいているそうですよ」
招かれるまま、手元の画面を見ながら顔を上げることなく須見はカウンセリングルームの中へ入ると、俯くような姿勢でスラックスの後ろポケットにスマホを仕舞った。
カウンセリングルームの扉が閉まる音に振り返り、顔を上げた須見が、喬之介と交差した視線を逸らす。
カウンセリングルームの中に佇む淡いグレーの薄手のコットンニットに、黒いスラックス姿の須見は、前回よりも堅苦しさは抜けているものの、強張る肩や、落ち着きなく部屋の中を見回す目の動き、顔色の悪さに変わりはなかった。
ソファに座るよう喬之介に促された須見が、言われるまま素直に腰を下ろすと、目の前のテーブルに視線を落としたままの姿勢で固まる。
「何か変わったことは、ありましたか?」
喬之介が一人掛けの椅子に座り、須見に向かって声を掛けると、その肩がぴくりと動いたのが見えた。
「……変わった、ことですか?」
何も置かれていないテーブルの上を、じっと見る須見の様子をそれとなく観察しながら、次の言葉を待って喬之介は、深く椅子に座ると背もたれに背を預け脚を組んだ。
窓の外の遠い喧騒、車の行き交う音や飛行機が空を切り裂く音が、カウンセリングルームの中に何層にも重なってゆく。
須見は顔の向きはそのままにテーブルから視線だけを剥がすと、黒目をぎょろと動かし横目で斜め前に座る喬之介を見た。
「夜、なかなか寝付けなくて……散歩をするようになりました」
言い終えないうちに再び、視線だけをテーブルの上に戻す。
「なるほど、散歩。散歩をするのは、昼間ですか?」
「……いえ……夜、ですよ」
「夜。どうして昼じゃないんですか?」
「……昼は、夜よりも人がいるじゃないですか。それに、良い歳をした男が昼間からフラフラしてたら、どんな目で見られるか」
「昼間に歩いた方が、夜は寝られるようになるんじゃないかな」
「先生だって、分かってるでしょう? 昼には人がいっぱいいるんですよ。歩いていると頭の中に沢山の映像が入ってきて、それだけでも辛い。今日だって、そうです。ここに来るまでに私は……」
声に、微かではあるが、少しずつ興奮が混じって不意に消える。組んだ両手は自分自身を宥めるように、固く握り合わされ、小さく震えているが、顔には薄く奇妙な笑顔を張り付かせていた。
「今日も、ここに来るまでに何か視えたのですか? 視えたものがあれば、教えて下さい」
その言葉を聞くや否や弾かれたように、須見は身体ごと喬之介へと向き直る。
「ずっと聞きたいと思っていたんです。先生は……私のこの話を先生は、本当に信じているんですか?」
「ええ、そうです。では須見さんは、僕に嘘を吐いているんですか?」
少しの間、聞かれたことに戸惑ったような顔をした須見だったが、そのあと首を横にさっと振り「いいえ」と短く言うと真っ直ぐに喬之介の目を見た。
「ただ……誰かの過去や未来が視えるなんて……自分でも、なかなか信じられなかったことを、ましてやこれまで誰にも信じて貰えなかったことを直ぐに信じて貰えるなんて、変だと……」
「なるほど。僕は変なことを言ってますか?」
「よく分かりません……先生の方こそ嘘を吐いているんじゃないと良いなと思ってます」
「僕の方が? 嘘は吐いてませんよ。そもそも人が何を見ているかなんてことは、誰にも分かりません。同じ景色を見ていて、目に映し出されているものが、自分とそっくり同じだなんて、どうやって分かります? だから須見さんが『視えて』いると言うのなら、見たというものを僕は、素直に受け止めるだけなんです」
束の間の沈黙が、二人の間に落ちる。
ややもあって須見が、ソファに深く座り直すのを見た喬之介は特に何も言わず、自身も同じように身体を動かし椅子に座り直した。
鼻から息を大きく吸い込み、続けて、勢いよく吐き出しながらソファに背を預けた須見は、だらりとした両手を腿の上に投げ出す格好で目を閉じて話し始めたのだった。
「映像、は……もちろん、視えました……ここに来るまでの途中も、頭の中に。でも、すれ違うくらいなら、まだ良いんです。視えたときに頭が痛くなって辛いことは、変わりませんけど……人によってはっきり視えたり、視えなかったりしますし、興味のないスライド写真を見せられているんだと思うことにしてるんです。ただ……電車の中は逃げ場がなくて、嫌でも……」
言葉を選んでいるようで、少し黙る。
天井に顔を向け目を瞑る須見の、目蓋がびくびくと動くのを、喬之介は見ていた。
「それにしても今日は、酷いものを視ました。酷いというか、意味が分からないというか……普段はドアの近くに立っているんです。顔を窓の外へ向けていれば、目を開けていても人と顔を合わせなくて良いですから」
「……映像の『視える』きっかけは、その人の顔を見ることなのですか?」
尋ねながら喬之介は、あらためて須見に目を走らせる。艶のない、かさかさとした皮膚。眼球のある場所が落ち窪んで見えるほど、弛んだ目元の下には黒ずんだ隈がくっきりとあった。
目を瞑る須見は、喬之介の視線に気づいていない。
「顔……顔なのかな……いえ、顔というよりも……眼……ですね。眼が、不意に穴に見えるんです。まんまるで、クレヨンで塗り潰したような真っ黒の、二つ並んだ穴。ああ、穴だと思うまもなく、引き寄せられるようにその穴を覗き込んでしまう。それで頭の中にパッと映像が視えるんです」
「いつ、誰を見ても同じなんですか?」
「それが、違うんですよ。違うから……どうしようもない。なんでかなんて聞かないでください。私には、分からない。顔に穴が開いて視える人と、視えない人がいるってことだけは確かなんです。先生のことは視えなかったのに、視えた。言われて初めて自分から映像を視ようとした時、先生の目が内側に向かって引っ張られるように小さくなったと思ったら、突然、真っ黒な穴が開いてたんです。だから私は、その中を覗き込みました」
そう、あの時。須見の目の焦点は顔表面を通り越し、喬之介の顔に現れた真っ黒な穴から、あたかも直接、頭の中心部を覗いているようだったと、思い出していた。
「いまの僕の目は、穴に見えますか?」
湯葉の皮膜表面を手繰り寄せるように、須見の薄い目蓋の皮膚が、ぞろと持ち上がる。細い隙間から覗く黒目が、いまいちど確かめるためだろう、喬之介の方へ動き、素早く元に戻るのが見えた。
「――いいえ。実を言うと、今日まで先生に会うのが怖かったんです。予約を取り消そうとか考えたり、どうにかして顔を見ないようにすれば大丈夫だろうかと思ったりしました。お会いして、違うと分かっても……」
そこで再び、目蓋が閉じられる。
「いつまた穴に変わるかは、分かりませんから」
直視を避けたい、ということなのだろう。
「では、ここに来る途中に『視えた』意味の分からないものとは何ですか?」
頭の中に視えたことを、言葉にして捻り出そうと考える須見が無意識に眼球をせわしなく動かしている所為で、閉じた目蓋の薄い皮膚は、内側に潜む数多の蟲が蠢くような動きを見せていた。
「――車内は空いていました。でも、お話ししたように、いつも座らないんです。ドアに顔を向けて窓から外を見ていれば、ひどく混んでいない限り、気をつけるのは電車が駅のホームに入る時だけで済みますから。そうやって二駅を過ぎ、三駅目のホームを前に電車が減速を始めた頃です。ホームに滑り込んだ電車が止まる寸前の、人の顔の造作を確実に目視出来るようになる前までに、いつもなら俯いて足元を見たり目を閉じるようにしているのですが……間に合わなかったんです。いや違う……間に合わなかったというよりも……その人の穴が大き過ぎた所為で『視え』てしまった」
穴に落とされたようだった、と須見は掠れた声で呟く。
「何を『視た』んですか?」
「女性だったと思います。顔なんて分かりません。髪が長かったような気がするので、そう言っているだけで、それも確かかどうかも分かりません。その人の前を通り過ぎた一瞬、でした。――指、ですよ。赤ちゃんの指。白くて透明感があって、柔らかく歯で齧り取れそうな指。根元から切断された、その一本いっぽん。丸い缶の中、錆だらけで絵が剥げた古い缶の中に、無造作に、それも大量に、入っているんです。片手なのか両手なのか、何人分かなんて分かったものじゃない。そもそも、そんなことをする意味が分からない。指は微妙に色合いも違う。大きさも、小ちゃな爪の形も……よく見れば、水分がなく乾涸びているもの、変色し肉が溶け腐りかけているもの、まだ皮膚に張りがあり瑞々しいもの、それが、全部、錆だらけの、缶の、中に」
須見の声は震え、恐怖や悍ましさが滲み、ソファにだらりと背中預けていた筈の身体は言葉を重ねるごとに前屈みになり、今や両膝の間に頭を抱え込むようにしている。
喬之介の方はといえば平静を装っているものの、こと切れて微かに丸まった、あるいは、ぴんと真っ直ぐに伸びた、柔らかな小さな芋虫のような白い指を想像し、身体のあちこちに立つ鳥肌を、思わず服の上から擦りそうになるのを何とか堪えていた。
しばらくして、気を取り直すように上体を起こした須見だったが、それでもなお俯いたまま、口にしたのは次の言葉だった。
「過去なのか、未来なのか。どんなに気になっても、私の『視えた』ものの答え合わせをしたくても、出来ません。知らない人だし、そもそも結構な速さですれ違ったので、顔なんて分からないんです」
……答え合わせ。
その言葉が、カウンセリングルームに再び沈黙を落とす。
目の前で思い悩む須見の考えていることは、『視え』ていることよりも、その内容が真実であるかどうかを、どうにかして知りたいというものであるのは明らかだった。
須見にしてみれば自身の頭の中に視えているものが、正しいとするなら、自分は狂ってはいないのだということなのだろう。
だが、喬之介は須見の『視え』ていることが真実だとしても『視えた』内容が真実であるかどうかは須見自身には関係がないのだと彼に言ってしまって良いかどうかで迷っていたのである。
というのも、これらの物理的に説明のつかない須見の『視える』ものについて、それが彼自身の感情的刺激に対する反応であるならば、この『頭の中に勝手に入ってくる映像』といった症状や悩みの喪失を願っている筈の須見は、それが視えてしまうことをまずは自身で受け入れることから始めなくてはならない。
つまり、須見にとっては『視えた』内容の正否が重要なのかもしれないが、そのことと『視える』ことは実のところ全く関係がないのである。
須見との面接は、これがまだ二回目。
信頼関係を築いている最中だ。
――おそらく、喬之介の意味するところは伝わらない。
これから、じっくりと関係を作ってゆくしかないのである。
「前回、箱庭療法をやってみてどうでしたか?」
喬之介は組んでいた脚を下ろし、両膝の上に肘を置くようにして、俯く須見の方へと身体を傾けた。
「そうですね……物を並べていると、ピタリと来るところがあると言いますか……これを置くのはここだと分かったり、違うと感じたり。無心になるというか、夢中になって気づくと目の前に景色が、物語になって現れている……という感じです」
「なるほど分かりました。それでは今回も箱庭を創ってみるのは、どうですか?」
俯いていた須見の顔が上がり、喬之介の方へと向けられた。
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