2-4
須見の箱庭療法二回目だった。
窓のない続き部屋に通された須見は、以前よりも格段に落ち着いた足取りで、真っ直ぐに、視線を砂だけが入ったいる箱庭の箱に固定したまま、中央に置かれているテーブルまで歩いてゆく。
「前回と同じ風景を創っても構いませんし、全くの別のものでも、もちろん構いません」
須見の背中に向けた喬之介の言葉は、狭い部屋の中で、やけに大きく聞こえた。振り返ることなく須見が頷くのを見て、喬之介は入り口まで下がると両腕を組み、壁に凭れ、努めてその一部になろうと気配を消す。
腕を捲り上げた須見が、静かに砂の中へ手を入れる。忘れかけていた感触を確かめるように須見の両手は、しばらくの間、箱の中で円を描いていたが突然、肩にぐっと力が入った。腕が動く。須見の中の意識の扉が、開いたのが分かる。
何度も繰り返す、肘の滑らかな動き。
川、だ。
蛇行する川を、右手が創り出している。
手のひらで、指先で、掻き分け砂を抉り出し、避け、箱の底の水色を目指す。
その一定の律動を伴う、動きと音。
やがて音は、ざりざりと箱の底を引っ掻くものに変わった。
須見の柔らかな指の腹が、硬い爪が、一粒たりとも残すまいと執拗に、その指先が箱の底を擦る音は絶え間なく続き、喬之介の耳の奥を震わせ、脳を麻痺させ、眩暈を覚えるほどだ。
ざりざりざり ざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざり ざりざりざり ざりざり ざりざり ざりざりざり ざりざりざりざりざり ざりざりざりざりざり ざ
果てなく続くかと思われた音が、突然に消え去ったことで訪れる静寂は、部屋に真空を生み出し、頭の中に残響の尾を引く。
両腕をだらりと下ろし、しばらく出来栄えを眺めていた須見だったが、満足のゆくものだったのだろう。箱庭の前から離れ、棚に造型物を取りに動いた。
まず棚から取り出されたのは、それぞれ、以前と同じ造型物だ。迷いのない手つきで須見は、家と田んぼのある風景を創り始めた。
とそこに、前回は無かった橋を棚から持ち出すと、置く場所を少し悩んだあと小川に架けるのが見えた。
――変化、だ。
喬之介は、ゆっくりとした動作で、壁から背を剥がすと、須見の創る箱庭の傍まで歩き、中が見える所で立ち止まる。
変化は他にもあった。
田んぼには、黄色い布が広げられているのが見えた。
「新しい家」と呼ばれる茅葺き屋根の家の脇に、鶏の造型物が三体置かれている。
変わらないのは、田んぼに置かれた人形の位置や母親とされる人形、男を表している子守の人形の様子だった。
大きな木の根元に置かれた朱い祠もまた、同じ様子で変わりはない。
須見の手の動きが鈍くなった頃を見計らい、喬之介は声をかける。
「田んぼの色が変わりましたね?」
「はい、秋になりました」
田んぼに見立てた人工芝の上に掛けられた黄色い布は、稲の実りを表していることに間違いはなさそうだ。
「一面、黄色く色づいていますね。この様子では、沢山のお米が収穫出来そうですね」
喬之介の言葉に頷く須見は、前回よりも落ち着き、肩の力が抜けているのは確かだった。心なしか表情にも、ゆとりがあるように見える。
「これは何ですか?」
喬之介は鶏のオブジェを指差して尋ねた。
「新しい家の人が飼っている鶏です」
なるほど、と頷くだけにとどめた喬之介は、次に子守の人形を指差し「この人は、いま何を考えているのか教えて下さい」と、前回と同じ質問をしてみる。
「そうですね……子守をしながら、祠まで行ってみようかと考えています」
真っ赤な橋が、目に飛び込んでくる。
祠のある向こう側と、こちら側を繋ぐ橋。
「これなら橋を渡って、向こう側へ行けますね。何かお願い事をするのかな? そうだとしたら、どんなことを願うのでしょう?」
「ううん……そうですね。願い事は、多分、村のことだと思います。いや……村、と言いますか、新しい家の人のことかもしれません」
「それはどんなことですか?」
「この村には人が少ないから、新しく来た人が良い人だといいな、とか姿は見えないけれど、良い人でありますように、でしょうか」
「この茅葺き屋根の家には、まだ、誰が住んでいるのか分からないのですか? この家の人が鶏を飼い始めたんですよね?」
「はい。誰かは住んでいますね。でも、それがどんな人なのかまでは、まだ分かりません。姿を見せないんです」
前とは違う季節、新しく置かれた造型物、変化を見せる須見のこの箱庭は、やはり彼の内界を表していると思われた。
ならば――。
まだ姿を見せない。
新しい家に住む人とは、須見にとって直面したくないものなのだろうか。
喬之介は、前回と同じ格好で家の方へ身体を向けた母親とされる人形を指差す。
「これは、赤児を背負い込んだ人形の、お母さんでしたね?」
「はい」
「今は何をしていますか?」
「家事、ですね。前と変わりなく、子守はこの人形に任せて、家事をしています」
「家事とは具体的に、何をしているのですか? また、その家事をしながら、どんなことを考えているのでしょう?」
「ご飯の……夕飯の支度かな? あまり何も考えないようにしていると思います」
「考えない? それはどうしてですか?」
「考え始めると、色々とおかしなことに気づいてしまうから」
「それはどういう……?」
「この人形だけ別の仕事をしているから、かな? 手伝いたくないのか……手伝うな、と言われているのかもしれません」
「他の家族に? 田んぼにいる?」
「そうです。それに、考えないようにしているのは、この子守の人形も同じかな」
須見は自分とされる人形を指差した。
「この村には四人しかいない。新しい家の人は姿が見えない。おかしな話ですよね? ずっと子守をしているのも、変だと思います。母親を手伝っているのかもしれないけれど、母親はこの人形のしていることに注意を払っていない。背を向けていますから。田んぼにいる祖父母も父親も、この人形に背中を向けているし。それに、この人形が背負っているのは赤ん坊じゃないような気がします」
「そうだとしたら、何だと思いますか?」
「人形です」
「人形?」
思わず口から飛び出していた声が、驚きを孕んだものになってしまっていたことに気づき、場合によっては否定に捉えられかねないと、一瞬、喬之介は須見の横顔を盗み見るも、当の本人は顎に手を当て考え込んでいる。その様子からは、喬之介の懸念には全く気づいていないようだった。
それまで考えていた須見が、口を開く。
「はい。おままごとで使うような人形です」
おままごと、つまり「遊んでいる、ということですか?」と喬之介は尋ねる。
「いいえ。違います。この人形は仕事をしているんですよ。一生懸命に。多分、本人だけが玩具だと知らないで、真剣に世話をしているんです」
言いながら須見は、箱の中へ手を伸ばし、子守人形の位置を家から離す。
「今のはどういう意味があるのですか?」
「少し家から離す方が良いかなと、思ったんです。この方が、しっくりきます。それに、ほら、この場所なら村全体を見渡せるのではないでしょうか」
それだけ言うと須見は、また箱庭の中を見つめ、何か不適切な箇所が見つかりはしないかと、あちこちに視線を彷徨わせていた。
喬之介は箱の中、新しく置かれた造型物である橋を見る。
須見は、橋を置く場所も何度か迷った挙句、最初は茅葺き屋根の家の近く――左下辺りに橋を架けたものの、最後は今ある場所、小川の中央、――箱庭全体から見ても真ん中の辺りに架けたのだった。
「そういえば、秋の風景ですね。夏はどのような感じだったのですか?」
横に並んで立つ須見を見ながら、喬之介が尋ねた。
「この村に、夏はありません」
きっぱりとした口調の須見の横顔からは、どのような感情も窺い知れず、また、弛んだ皮膚の中にある目には、室内の照明によって薄い膜が張ったように見え、そこには何も映ってはいないようだった。
喬之介は、なぜと質問しようとしかけて止める。まだ、早いと思ったからだ。須見というクライエントと治療者である喬之介との間に相互の関係が出来て、イメージの表現が今後さらに生まれてくるまで、待とうと考えたのである。
治療者とクライエントとの関係を作るまでは困難を極める。だが、関係が作られた後になると、内界で起きていることは何かというのが非常に分かりやすい形で箱庭に表れてくることがあるのを、喬之介は自身の少ない経験から知っていた。
今こうして目に見える箱庭の変化は、須見自身の内界との対話の始まったことを意味していた。
それは自身を表している人形の位置を変え――この方が、しっくりきます――たことからも分かる。
造型物を置く位置、数の増減、種類。
自分自身の内的感覚に導かれ、箱庭の中に、ぴたりと照合する場所を探すというのは、自身の内界と対話が図れていると見て良い。
また以前は、須見の精神的な救いの存在、あるいは心の拠り所と見られた朱い祠は、小川によって分断されていたが、そこに向かうことが出来る橋が架けられたのは、大きな意味がある。
もし、朱い祠を逃げ場所だと仮定するならそこへ向かうことも出来るが、しかし……。
祠の奥の暗がり。
そして未だ生き物の造型物が何も置かれていない川向こうが、喬之介には気になるのだった。
であるなら橋の架けられた意味を考えるのは、まだ少し早いのかもしれない。
それでも、箱庭に現れたこの橋が、心の中の非常に深いところから感情を運んでくる通路であるのは間違いなさそうだった。
さらに、二回目の箱庭製作で、増えたものは橋だけではなかった。
鶏、だ。
須見によれば未だに姿が見えないとする、茅葺き屋根に住む人の飼っている鶏。
姿は見えないが、村に存在していることは確かなようである。
箱庭療法とは言語化出来ない感情や、微妙な心の葛藤を表現することにある。
同じ風景を繰り返し作成することで、箱庭の中に現れる変化は、それと知らず表に出て来た自身の内界だ。前回と比べ、須見の自己表現が促進していることは、明らかだった。
今後もそれら変化を目の当たりにし、向き合うことで、この先、須見自身にも何らかの変容が見られるだろうと喬之介は考える。
「前回と同じ風景の中でありながら、箱庭に変化が見られましたね。これからも箱庭療法を続けてゆくにあたって、須見さんに毎回同じ風景を作成して貰いたいと思うのですが、どうでしょう? もちろん、今回のように細部は変えて構いません」
箱庭の前に立つ須見は、喬之介の方へ身体ごと向き直ると「分かりました」と頷きながら静かに答える。
どこか意を決したような須見を見ながら、喬之介もまた、深く頷く。
自身と向き合うのは厳しい。
喬之介にとっても、この須見というクライエントと向き合うには、相当な覚悟が必要になるということを意味していた。
頭の中に映像が見える。
それでいて医学的に診ても病的なものは見当たらず、身体に異常があるわけでもない。
須見のそのような精神病的な症状が、どのようにして治っていくプロセスを踏むのか、喬之介には、全く予測がつかなかった。だからこそ面接の経過の中で、症状の増悪やクライエントの変化を見逃さないように、いっそう気を引き締めてゆかねばならないのである。
もちろん、ほんのちょっとの狂いで取り返しのつかないアクティングアウトになる危険は、須見でなくとも、どんなクライエントにも常に付き纏う。アクティングアウト、つまり意識したくない『無意識の衝動・欲求・感情・葛藤』が意識化されそうになったとき、それを回避しようとする防衛反応が、自傷行為や自殺企図、暴力行為などを起こさせるのだ。
箱庭を用いた心理療法が、須見にどのような現実的変化を齎すのかは、分からない。
それでも……。
喬之介は須見に箱庭の製作の終わりを告げ、カウンセリングルームへ戻ることにした。
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