2-2
「泉田くんを、がっかりさせちゃったかな? でもまあ……もしかしたら、だけど悪戯にせよ何にせよ、あえて警察が手紙の存在を匂わせたのだとしたら、差出人を炙り出したいってところがあるのかもしれないね」
組んだ脚の上に肘を突き、頬に手を当てた喬之介が、含みを込めるように、ゆっくりとひと言ずつ言葉を紡ぐ。
「
言わんとすることに気づいた池永が、ちらと喬之介を盗み見る。
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
視線を受けて喬之介は苦笑した。
「先生、そんな慰めは要らないです。予言ってところにワクワクしてたんですから。悪戯をした犯人を
「あらあら困ったわね。そんなに、がっかりしないで。先生も私も勝手に言ってるだけで、そうと決まった話じゃないんだし。まだ、分からないじゃない?」
案の定、言葉とは裏腹に表情では何も思っていなそうな池永だが、結局はそうに決まってますよと呟きながら丸まった泉田の背中を軽く叩く手つきは、優しい。
喬之介の言葉は、ややもすると、泉田を落胆させた後に軽い慰めをかけただけにも聞こえるが、池永が含むところに気づいた様に、それだけではなかった。実際のところ、喬之介には思うところがあったのである。
仮に喬之介が想像するように、警察が、そうまでして差出人を炙り出したいと考えているのなら、それこそ手紙の内容は、それを無視出来ないほどに事件のことが詳しく書いてあったに違いないのだ。
おそらく警察は、元より、予知や予言として受け止めているのではなく手紙には犯人しか知り得ないこと、あるいは、その場に居合わせた――この場合は殺害時に居合わせ、事前に書いた脚本通りになるようにしているということになる――であろう人間にしか分かり得ないことが書かれていたことに注視しているのだろう。つまり、警察は手紙の差出人が、事件の関係者であるとして見ていると言い換えることが出来る。
だが、果たして警察の考えるように、それはある種の犯行予告のようなもので予言や予知ではないと、早々にその可能性を排除してしまって良いものなのだろうか。
計らずも、予言や予知の可能性という観点からそのことを考えたことのある喬之介は、だからこそ池永に対しても泉田に対しても『そうかもしれないし、違うかもしれない』と答えるしかないのだった。
予言や予知を、喬之介は当然に、盲従的に信じているわけではない。かといって、完全に否定したり、全く信じていないとも言い切れなかった。
それというのも、いわゆるユングが分析心理学に於いて提唱する集合的無意識という概念の存在がそれだ。
それは、人間の心における無意識の領域には、個人的な無意識よりもさらに深い領域に、人類全体に共有されているような普遍的な無意識の領域である集合的無意識と呼ばれる心の領域が存在するとされるものであるのだが、言うまでもなく、無意識の世界とは実証が難しく、科学的な検証が困難で不確かな概念でもある。
そしてそこにこそ、予言や予知の可能性を完全には無視出来ないものがあると喬之介は考えるのだった。
ユングが述べているように、人の心は表面的には個別的であるかのように見えてはいても、実は根本的には交流しているのだとするなら、人が何かを思い、考え、行動を起こす前に、その部分――即ち集合的無意識――を介して事前に感知することの出来る誰かが存在し得ないとは言えないのではないか。奇怪であると一蹴するのは簡単だ。だが、第六感やシンクロニシティを一度も感じたことのない人間は、おそらく誰もいないだろう。
このことからも思うに予知や予言とは、ひょっとすると、不可能であるとは言い切れないのではないか、つまり可能性はあるのだと誰にも明かしたことはないが喬之介はひとり、考えたりもする。
だからこそ予言や予知の有無を語るのは、悪魔の証明と同じだ。
もし予言や予知が存在するならば、その証拠を提示することによって存在を証明できる。しかし、それが偽りであるのか真実であるのかを、誰がどうやって見極めるというのだろう。また、予言や予知など存在しないことを証明するとなると証拠がないというだけでは存在を否定することにはならない。それらが単に世の中に、未だに顕現していないだけかもしれないからである。
「予言や予知に限らず、予知夢とか正夢とか、無いと思いながらも一方で、どこかにあるんじゃないかって思ったり期待してる人が多いからこそ、きっと、そういう話に皆つい踊らされてしまうのよね。どうしてかしらね?」
考えることに没頭するあまり、いつのまにか深く俯いていた喬之介だったが、それこそ無意識に思考を感じとったような池永の発言に驚いて顔を上げると、視線を合わせた。
「どうして?」
「ええ、そうなの。どうして、期待しちゃうのかしら?」
「……期待?」
またも首を傾げ聞き返す喬之介に、泉田が身を乗り出すようにして口を挟んだ。
「あーそれ、それです。期待。池永さんの言いたいこと分かります、オレも。なんか期待しちゃうんですよね。何を期待してるのかって聞かれたら、上手く説明は出来ないんですけど……見えない先を知りたいというのもそうなんですが、誰かが前もって知ったことの答え合わせをすることで、この世界は虚構なんかじゃなくて確かに存在しているんだって理解したいのかもしれないです」
「なるほど、つまり?」
ソファの上で姿勢を正すと泉田は、軽く咳払いをした後、喬之介と池永を交互に見ながら鼻の穴を膨らませ言った。
「で、つまりオレが感じてる期待というのは、予言や予知の答え合わせから、もしかしたら世界の秘密とか、この世に自分が生きていることの不思議とか、その意味が分かるんじゃないかっていう期待かなあ」
「飛躍し過ぎじゃないかしら?」
「えっそうですか? 予言や予知も、自分がこの世に生きている不思議も、どっちも科学的に説明出来ないじゃないですか。超自然的なものに惹かれるのって、オレ、結局はそこなんじゃないかって思うんですよね……とか分かったように言ってますけど、実はいまこうして話していて気づいたんだったりして」
勢い込んではみたものの、冷然とした池永を隣りに、やがて言葉は尻窄みになり照れたように笑う泉田を見ながら喬之介は、答え合わせという言葉を最近になって聞いたなと、心の片隅に何かが引っ掛かるのを感じたのだった。
「そっか、泉田くんは知りたいのね。私はもう、そういうの無くなっちゃったなあ」
知りたいから惹かれるのか、惹かれているから知りたいのか。
それを聞いて照れ笑いから一瞬、放心したような顔で池永を見ていた泉田だったが、ソファに背を預けると両腕を組んだ。
「知りたい……? まあ、そうです。説明出来ないことを、説明して欲しい……うーん……その、なんて言ったらいいんだろ……あ、そうだ。これが近いかな……五歳の甥っ子が、この前オレの目の中に自分の顔が映っているのを見て言ったんですよ。『修くんにボクは見えてるの? ボクはこうやって手は見えるのに、どうしてボクは、ボクのことが見えないんだろうね?』って。そのとき、オレは咄嗟になんて言ったら良いのか分かんなくなっちゃったんです。甥っ子が言いたいことは、分かりますよ。自分の目では、自分のことが見えない。他の人には自分が見えてるのに。皆んなも、そうなのかなってことでしょう? そうだよって答えたとして、その後に、だけど、『なんで』って聞かれちゃったら、それをどうやって分かるように伝えたら良いのか、悩んじゃって」
甥っ子マジかよと思いましたね、と笑う泉田の顔を見ながら喬之介は、自身もまた子供だったことを忘れ、幼い子供というのは、実に物事に対する嗅覚が鋭いと思うのだった。
泉田の甥が、他者と自分と世界を意識した瞬間、幼い彼はその不思議から何を思ったのだろう。
「……あら、先生。もうこんな時間。お昼食べないと、休み時間が終わっちゃうわ」
腕時計に目を落とした池永が立ち上がりながら「先生、買い物に行きますよね?」と喬之介を見る。
喬之介の昼は、大抵、気分転換と短い散歩を兼ねクリニック近くのパン屋で何か調達するか、家から持って来たお握りがある時や、時間の余裕がある時は少し離れたコンビニまで歩いて行き何かを足すというものだった。
「あ、もう結構な時間だね。コンビニまでは行けそうにないな。今日は何も持って来てないから、そこのパン屋に行って、何か買って来くるとかにしようかな」
カウンセリングルームの壁にあるデジタル時計を見ながら喬之介も、立ち上がる。
「泉田くんは、いつもの?」
「ササミとブロッコリーと茹で卵は、オレを裏切りませんからね」
「よく飽きないわよね」
「そりゃまあ……時々、オレの方は裏切りますけど」
「それは仕方ないんじゃない?」
「池永さんも、いつも自作の弁当ですよね」
「私は一人暮らしだし、その方が無駄がないのよ。でも、私も今日はパン屋さん覗いて来ようかしら。なんだか甘いものが食べたいわ。それに懐かしくて優しいあの味を思い出しちゃったら、もうダメね。時々無性に食べたくなるのよね、あそこのコッペパン」
「潔いですよね、コッペパンのみで店の名前が『パン屋』って。色褪せた緑色の日除けシートとか、年季の入った木枠のガラスケースとかも雰囲気ありますし」
「お店っていっても、うんと昔は学校給食にコッペパンを卸していたのよ。その頃は店頭販売はしてなかったわね。学校に卸さなくなってから、色々挟んだものも小売するようになって……店主も、もう御歳だから、いつ閉店してもおかしくないし」
「白餡を挟んだのとか珍しいですよね」
「あら、泉田くんも食べたことあるのね? 日によって違うし、数も種類も少ないから今日は何があるかしら……私は甘納豆がパン生地に練り込まれた甘納豆コッペが好きなの。小学校の給食で出てたのよね。あると良いんだけど、久しぶりに食べたいわ。先生は?」
「甘いのと塩っぱいの、一つずつ二つ、見てから決めようかな」
席を立ち、最後に残った喬之介が、賑やかな話し声を閉め出すように扉に手を掛け、今一度、誰も居ないカウンセリングルームを一瞥し、ふと何気なく視線を壁に向けた。
そのとき、デジタル時計の数字が音も無く変わるのを目撃した喬之介は、一瞬、聞こえる筈のないその音が聞こえたような気がしたのだった。また、同時に、目蓋を閉じるような音が聞こえるのだとしたら、喩えるならそれはきっと、このような音に違いないと出し抜けに思ったものである。
しかしながら白衣から腕を抜く頃には、そのように感じたことは早くも忘れ、池永とクリニックの外に出たその後は、言うまでもなく、喬之介が目蓋の音について考えたことなど、どこかへ過ぎ去ってしまったのだった。
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