2-1
「そういえば先生、ニュース見ました?」
午前診療を終え、昼休憩の前にカウンセリングルームを掃除していた看護師が、テーブルの上を拭く手を休めずに中腰のまま、デスクに座る喬之介を振り返った。
「……えっ? 泉田くん、ごめん。何か言った?」
カルテ整理に没入していた喬之介は声をかけられた方を向き、常勤看護師の
「先生。今いいかしら? 掃除機ロボットに、エラー5って」
表情ひとつ変えず、慌てているにも困っているようにも見えない顔で現れた池永は、どのようなクライエントの奇行を前にしても全く表情が面に出ない、喬之介が目にする度に、柳の木を思い起こされる姿の五十代のベテラン事務員である。
とはいえ何をもってベテランというのかといえば、彼女の年齢もさることながら、それはこの建物、鞠内心療クリニックの前身にあった。
鞠内心療クリニックがある場所は以前、五十嵐皮膚科医院として何度かの代替わりを経るなどして長年に渡り、小規模ながらも、この地域に密着した皮膚科医療を施していた。だが寄る年波には勝てないと、奇しくも最後の代となった五十嵐院長が医院の廃業を決意した際に、偶然にも独身で後継者のいなかった彼女と喬之介の祖父が旧知の仲という関係から事務員の池永を一緒に引き継ぐという条件の下、その古い建物を譲渡してくれたのだった。
その後、建物をリノベーションし看板を掛け替え、現在の鞠内心療クリニックとなったのであるが、一見すると無愛想で受付業務に不安を感じさせるかと思われた彼女の存在は、無くてはならないものだと程なくして喬之介は知ることになる。
現に、共に働いてみれば池永は、小さな医院というものがどういうものか知り尽くしており、急場に於いても動じる素振りは見せず、そつなく細々とした雑務までをこなす。開業したばかりで、勝手の分からない喬之介にとって、実に頼りになる有能な相談役を兼ねる事務方であった。
つまり五十嵐院長は、喬之介の為に建物だけではなく、いちから探すとしたら困難を極める優秀な人材までもを、与えてくれたのである。
身体を起こした泉田が、大股で池永の元へ「エラー5なら多分、車輪の不具合じゃないですか?」と歩み寄るのを、ちらと見た喬之介は再びカルテの方へと顔を戻した。
「あら泉田くん、詳しいのね」
「ウチにも同じのが、あるんです」
「じゃあ、任せていいかしら」
細い腕で重そうに抱えていた掃除機ロボットを池永から、軽々ひょいと受け取った泉田は車両と本体を覗き込むようにしながら「何か挟まったのかもしれません。ここの掃除が終わってから見てみますよ」と言ってそのまま扉近くの足元に置いた。
「妙な動きをしたあとに止まったの」
さっと目線だけを動かした池永が、足元にある掃除機ロボットを見下ろしながら言うその声には何の抑揚もない、ともすれば冷淡とも取れる仕草だったが、長く一緒に居ると分かることもある。池永が、軽くもない掃除機を思わず抱えて持って来てしまうといった行動がその答えだ。全く以ってそのようには見えないのだが、実のところ、彼女はひどく動揺していたのである。
「池永さん、思わず心配になっちゃったんですね? 分かります。たかが機械ですけど、なんか健気なんですよね。オレなんて最初のうちは何とも思ってなかったのに、ずっと一緒にいるし、掃除とはいえ部屋をウロウロしてるの見てたら可愛くなっちゃって。家にあるやつ名前つけてますよ。帰ったら、ただいまとか言っちゃうし」
「ペット飼えばいいのに」
「や、それは無理かな。池永さんは?」
「コザクラインコを飼ってるわ」
話題が移り、インコについての話で盛り上がりながら……とはいえ盛り上がって見えるのは泉田ばかりではあったがカウンセリングルームの掃除をする間も喬之介は、二人に構うことなく黙々とカルテの整理を続けた。
池永のインコが淡いブルーをしたオスであることや、何よりも愛情深い鳥だということを興味深げに聞いていた泉田だったが、鳴き声が意外と大きいと知るや、今の賃貸住宅では鳥を飼うことすら無理そうだと首を横に振ったところで喬之介がカルテの整理を終え、徐に立ち上がって思い切り背筋を伸ばす。
「そうだ。泉田くん、さっき僕に何か言いかけてなかった?」
喬之介が腕を回しながら肩の周りを解しつつ泉田に向かって首を傾げてみせれば、急に話を振られて一瞬、訳の分からない顔を見せたものの、ややあって眠たげな細い目をはっと開いた。
「あー、そうですよ。話しようとしてたのは、あの事件のことなんです。先生、ネットとか見ました?」
「え? どの事件?」
聞けばそれは、以前、茅花が喬之介の部屋に泊まりに来たときにも話題になった、近郊で起きた、殺人事件である。
あの日から一週間を過ぎた頃、被疑者死亡という形で事件は幕を閉じたのだった。
「犯人は妹をストーカーしていた人だったとかってなら、私もニュースで見たわよ? その人、自殺しちゃったんでしょ?」
「それそれ。池永さん、その他にもなにか知ってます?」
「SNSで話題になっていたのは、知ってるわ。ちらりと読むには読んだけど……ねえ」
言葉を濁しながら頬に手を当てる池永に、喬之介は「何が書いてあったんですか?」と尋ねた。
「真偽のほどが不明なのは、ネットには良くある話なんですけれど……」
「まぁた、そんな池永さん。そんなことは誰でも分かってますって。実際のところSNSなんて虚妄の切り貼りなんですから。真実の方が少ないですよ」
「あら? じゃあ泉田くんは、これが真実とするのは、どうして?」
「いや、真実としてるというか本当だったら面白いなって思ってるだけですよ」
「全く話について行けないんだけど」
喬之介が当惑ぎみに二人を見る。
「あら、ごめんなさい。なんでも殺人事件の……被害者の……姫野さん? お姉さんの方ね、その人が殺される随分と前に警察に事件に関する手紙が届いていたって話なの」
「そう。しかも、今どき手紙ですからね。逆にすごくないですか? 監視カメラとか指紋とかに気をつけて郵便物に紛れ込ませることで、もしかしたら、今はそっちの方が個人を特定しづらいのかもしれませんよね。ネットなんて足跡だらけでしょ?」
「事件の前に? ふうん。犯人は逮捕前に自殺してるし、つまりそれは予告殺人とかいうやつ? だったの?」
泉田が顔の前で大きく手を左右に振った。
「違うんだなあ。先生も、そう思ったでしょ? それが違うんです。誰だれを殺します、殺人を犯しますってやつじゃないんですよ。なんでも関係者によると、匿名で送りつけられたそれは、近々こんな殺人事件が起こるから気をつけろっていう予言めいたやつだったみたいで」
「気をつけろって……まあ、そうは言っても、そんな内容の悪戯なら結構あるんじゃないの? 今回は、
思わず失笑してしまった喬之介を、泉田がちらと横目で見る。
「……なんか、つまんないっすね」
不貞腐れた顔をしてみせる泉田に、喬之介は無言で首をすくめてみせた。
「あらまあ、泉田くん」
「池永さんなら分かってくれますよね?」
口を尖らせた泉田に、話の矛先を向けられた池永は、頬に当てていた手を下ろして胸に置く。
「え? 私?」
「予知とか予言とか、そういうのって気になりません? どっちかって言えば女性は、男性よりもそういうの好きですよね。よく聞くじゃないですか。暗号を解いたら山にのぼれみたいな、地震が来る……って」
興奮ぎみに泉田が捲し立てるのを、喬之介の落ち着いた声が遮る。
「2062年。また随分と古いのを……あれは予言や予知とは言えないんじゃない? 本人曰く、未来から来たと言ってたし。しかも……まあ当たり前だけど、偽物だったと話題に……」
「なんだ、ほらやっぱり先生も嫌いじゃないんじゃないですか」
勢い込み、前のめりになった泉田の細い目をぱっくりと見開いた様子に喬之介は、苦笑ぎみに答える。
「……いや、好きとか嫌いとか、そんなことは言ってないよ」
「未来が分かるって……予言というか夢で見るとか言う予知夢? そういうのもあるわよね。それは漫画家さんだったかしら?」
「ほら、ね? 池永さんだって、実は興味があるでしょ? もちろん、その人ならオレも知ってます」
もはや鬼の首を取ったの如く興奮を隠さない泉田に、池永は淡々と話を続ける。
「まあ、確かに興味がないと言うのは嘘になるわね。だからこそ私も、気になって読んだわけなんでしょうし」
「で、なんて書いてあったの?」
二人に比べれば、たいして興味のなかった喬之介だったが、泉田ではなかなか話の進まないことに少し焦れて、池永を見る。
「言ってることは、まちまちなのよ。SNSだからというのもあって。皆んな好きなように喋ってるというか……共通してるのは、手紙が警察に届いたということくらいね。騒がれているのは、その手紙には起きてもいない殺人事件の殺害現場の状況が書かれていたんだってこと」
「つまり?」
「この間の殺人事件の現場は、手紙に記載されていたのとほぼ同じ状況だったらしい、というところを騒いでいるのよ」
「凄くないですか? だから、先生。その手紙を送った人は、殺人事件を予言していたって話題になってるんですよ」
どうも話が長くなりそうだと思った喬之介は、部屋の真ん中で立ち話をする泉田と池永の二人に、ソファに座るように手を動かすと同時に視線を使い、仕草でもって促した。
「ほぼ同じっていうのは、どの程度同じだったの?」
促されるまま二人、ソファに並んで腰を下ろしたのを見て喬之介も、普段から座り慣れた一人掛けの椅子に腰を掛ける。
しばらくもぞもぞとソファの上で座る尻の位置を細かく直し、ようやく落ち着いた池永が話し出したのを、喬之介は黙って頷きながら聞くのだった。
「ほぼ同じと騒がれていることに繋がるんだけれど……私が、まちまちって言うのは、そこなのよ。真実味が足りないというか信憑性がないのは、そういうのもあるのかもしれないわね……」
一般に知るところの報道された内容によれば、姉妹は二人で部屋を借りていて、殺された姉を発見したのは、いつもより遅く仕事を終え帰宅した妹だった。
姉の遺体は血だらけで玄関で俯せに倒れており、室内に荒らされた様子はなく、中に招き入れようと背中を見せたところを襲われたとみて、当初から顔見知り、または親しい人物による犯行ではないかと言われていた。
「共通しているのは、近く殺人事件が起こるということが書かれた手紙が、事件より前に警察に届いたっていうものね。これはどれに書かれているものを読んでも、そうなの。ただ、内容に関しては言っていること、書かれていることに違いがあるのよ」
それぞれに違う書かれていた内容というのを、池永が読んで知る限りに話して貰えば、大きく三つのパターンがあることが分かった。
一つめは、女性が玄関に血だらけの俯せに倒れた姿で発見されるというもの。
二つめは、殺された姉を妹が発見するというもの。
そして三つめは、玄関に背中を刃物で執拗に刺された女性が発見されるというもの。
「……なるほどね。その話題が出たのは、いつなの? 最近になってから?」
喬之介は椅子に背を預けると脚を組み、池永を見た。
「ええ、そうよ」
きっぱりと池永は頷く。
「どれも違くなくないですか? オレはみんな同じだと思うんで池永さんの言ってる違いってのが、分かんないですけど」
池永は泉田の言葉に何も返さなかった。
無言のまま表情を変えない普段の池永と、それを前にした泉田の訝しげな顔を交互に見ていた喬之介が、口を開く。
「つまり、警察に殺人事件が起こるという手紙が届いたのは本当かもしれないけど、内容までは分からないってところかな」
「まあ、そうなんでしょうね。私は手紙も怪しいと思いますけど」
自分だけ話についていけないことの不快さを隠さない泉田が、顔をこわばらせたまま喬之介の方を向く。
「二人で納得してないで、オレにも分かるように説明してくださいよ」
「そのまま、だよ。つまり現状、このことは予言だったかどうかは分からないってこと。まあ、もしかしたら手紙は届いたのかもしれない。どんなものか悪戯なのかどうかは知らないけどね。だから話題になってる。でも内容とされる方は、全て報道が出た後に追いかけているだけの事ばかりだから、池永さんは『真実味が足りない』って言ったんだ」
「分かんないっすけど」
泉田が、目の瞬きを繰り返した。
相変わらず、何の表情も浮かばない顔で池永は、泉田の顔を覗き込む。
「つまりね? 予言って言っているのに、後だしジャンケンを見せられているようだって言ってるのよ」
それを聞いた途端、ぽかんと口を開けた泉田だったが、少し遅れて「ああ、そっか」と声を上げたのだった。
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