1-3


 それは、喬之介が九歳の時の記憶だった。


 当時、喬之介は母親の故郷である海辺の町で、両親と生まれたばかりの妹と暮らしていた。家は祖父母の建てた古い物で、その祖父母はといえば、喬之介が生まれる前に他界し、北向きの薄暗い仏間にある写真でしか顔を見たことがない。世の中は憂う事ばかりだというような祖父の写真の隣りに、笑いを堪えている瞬間を切り取ったかのような、目元口元の柔らかな祖母の写真。二枚並び、天井近い辺りから、薄寒く胸に穴を開けるような藺草イグサの香りする畳の上に立つ喬之介を、見下ろしていた。

 また、普段は気にせず過ごしているが、遠く地響きにも似た、ごおおおごおおう、と頭の芯を震わせる低い耳鳴りのような海鳴りが常に、聞こえている家だった。

 雲ひとつない晴れた空の下、降り注ぐ雲母のような日差しを浴びていても、姦しく小鳥が囀っていても、雲がさっと太陽を隠し小鳥が飛び立つ寸の間に、影のように忍び寄り、針の穴のような静寂の間隙かんげきを突いて、忘れることはならないとそれは、不意に耳奥に触れる。

 そうやって海は、どれほど離れていても、突然、直ぐ傍にその姿を現す。

 特に夜ともなれば、喬之介は一人自室のベッドの上で目を瞑る度に、家が海鳴りの中へ沈んでゆくような気持ちになったものだ。

 ……違う。

 闇と一体になった海に呑み込まれるのだ。

 海は、ひとたび夜になると増殖する。

 ひたひたと、潮が満ちるように。

 月明かりさえもない夜は、特に。

 夏の終わりを告げる、嵐の夜には、更に。

 暗闇の中、絶えず雨戸に叩きつけられる波飛沫にも似た激しい雨音が、戸の僅かな隙間からは姿の見えない怪物の高く低く、這い出て来た海へといざなう唸り叫ぶ声のような風が、喬之介の眠りを妨げた。

 ……眠れない。

 妹が生まれたこともあり、単純な素直さで以って甘えられる年齢は、疾うに過ぎつつあると感じていた喬之介だったが、眠れないことに焦燥感すら覚える嵐の夜は、真実、母親が恋しいと思った。

 ここ何年か、父親は仕事で単身赴任のため家を留守にしており、平日は階下にある両親の部屋には母親しか居なかったが、今夜は珍しく、何の前触れもなく帰って来た父親の姿がある。

 もっとしっかりしろと、機会がある毎に喬之介の甘えを咎めている父親が居ては、怖くて眠れないからといって階下へ降りて行ったところで、雨や風の音くらいで何を怖がるのだ情けない、と憮然とした顔で部屋に戻るよう言われるだけだろう。

 暗闇の中、枕にぎゅっと顔を押し当て、つらつらと考える喬之介を嘲笑うように雨戸が風に殴られ、ひときわ大きな音を立てた。

 同時に、何かが割れる音。

 突然、外の闇が、漆黒の海が、中へ入れて欲しいというように執拗に繰り返し雨戸を叩き続ける音が、風の唸り声が、強くなった。

 生温い風が喬之介の耳を、すると撫でる。

 風が家の中を渦巻くように抜けたのだ。

 どこか窓でも破れたのだろうか。

 堪らずにベッドから身体を起こした喬之介は、自室の扉の下に細い隙間明かりを見つけると、身体に掛けていたタオルケットを乱暴に剥ぎ、床にずり落としながら立ち上がる。暗闇の中、足の裏にラグの境目を捉え、続くさらりとした床板の感触を確かめつつ明かりが、ちらちらと舌を覗かせる扉の前まで歩き、立ち止まる。

 その時、再び聞こえた。

 何かが、割れる音。

 隙間風と紛う、細く長い悲鳴。

 海鳴りとは違う、轟くような咆哮。

 ドアノブに手を掛けようとして、伸ばした腕が宙に浮いた。階下から怒鳴り声が、赤児の泣き声が、聞こえることに気づく。

 嵐の音に紛れて聞こえるのは、激しく争う音と声、だった。

 誰、だろう。

 行っては、ならない。

 見ては駄目だ。

 だが思えば思うほど、確かめたくなる。

 人、だろうか?

 海から這い出て来た怪物では、なく?

 小さな妹が、泣いている。

 まだ、引き返せる。

 何も気づかなかったことにして自室に戻ってタオルケットを頭から被り、目を瞑れば、いつもと同じ朝が来るに違いない。

 そうかな?

 

 嵐の夜は、海の悪意に満ちている。

 仄明るい階段を、ゆっくりと降り、煌々と照らされる光に溺れるように視界が狭まるのは、何故だろう。

 全ての音が、消える。

 見ているのに、はっきりと見えない。

 薄く開いた扉の、先。

 縺れ合うそれを。

 目にしたのは。

 たった、一瞬。

 広い背中に力が入り盛り上がる肩に伸ばされる腕の向こうで揺ら揺らと見え隠れする長い髪が縁どる斑らに朱く染まる良く知った顔は驚愕の、表情と恍惚を浮かべ半開きの口からは濡れてぬらぬら、と覗く舌から滴り落ちる涎は一条の糸、のように長、く伸び、て、落ち……、た。

 

 過去を彷徨っていた喬之介は、はっと意識を現在に戻し椅子に座り直すと、目の前の入力途中だった須見のカルテを軽く睨む。

 記憶というのは、全体、不確かなものだ。

 あの光景を何度も繰り返し思い出す度に、夢に見る度に、知らず少しずつ喬之介の感情が混じり合い、今となっては何が正しいのかさえ、分からない。

 確かなことが、あるとするなら……何を以って確かとするのかさえ分からないが、喬之介が、はっきり見たと自覚しているのは首を絞められる母親と、首を絞める男の背中と、それを止めさせようと伸びる二本の腕だ。

 ……その後の、空白。

 次に気づいたときには、嵐の中、巻き上がり翻弄され吹き荒ぶ炎の、漆黒の空を恐ろしいまでに染め上げる朱色を見ていた。

 どうやって外に出たのか覚えていない。

 誰かが助けてくれたのだとしても、誰がどうやって、いったい、の何も覚えていない。

 胸に抱いていた柔らかな塊は小さな妹だったと思うが、実際のところ、妹だったのだろうか。喬之介は、炎の踊り狂う様に、ただ魅せられていた。

 火の粉が舞う。

 風が唸る。

 炎の音は、海鳴りに、似ていた。

 誰かが耳元で囁く。

 

 『大事なのは、忘れることだ』


 ……それからの、暗転。


 瞼を閉じて、目頭を指先で圧迫すると、入力途中の須見のカルテを喬之介はそのままにして、待合室に残る本日最後になる患者を呼んだ。



 

 勤め先である鞠内まりうち心療クリニックを後にした喬之介は、駅を挟んで反対側、その東口から十五分ほど歩いた静かな住宅街にある、別段のことはない、ごく普通の八階建てのマンションの三階、2LDKの一室に向かって歩く。

 仕事を始めてから少しして、喬之介はそれまで家族と暮らしていた家を出て、その部屋で一人暮らしを始めた。

 一人暮らしであるのは、喬之介には同棲するような交際している人物も、伴侶となる人物も居ないからであったが、最もな理由は誰かと暮らすことなくからだ。

 それというのも、あの嵐の夜の火事で両親を亡くした喬之介と小さな妹は、県を跨ぎ海から遠く離れた父方の叔父と祖父母が住む家に引き取られることになった。

 海辺の小さな町から、政令地方都市である大きな街へ。

 幼かった喬之介には、その理由など知る由もないが、祖父母とはいえ、それまで密な付き合いもなく、どちらかといえば疎遠だったこともあって、彼らは肉親とはいっても喬之介にとっては他人のようなものだった。

 彼らが心を砕けば砕くほど、喬之介はその気遣いに申し訳なさを感じ、却って殻に閉じ籠もってしまう。

 そうやって神経質な子供だった喬之介は、新しい環境に、なかなか馴染むことが出来なかった。

 安心できる場所を衝撃的な形で、しかも唐突に、失うことになった喬之介は、慣れない生活を送る中で事あるごとに苦手なイソップ寓話の田舎のネズミと都会のネズミの話を思い出し、自分と田舎のネズミなぞらえるようになる。

 喬之介にとって、イソップ寓話は、読み終えた後に苦いものが残り好きになれない読み物だった。読み聞かせをする母親にそう言ってみたところ「だって、教訓ってそういうものでしょう」と笑って取り合ってはくれない。なるほど、であれば大人になれば『そういうもの』として、内包できるようになるのだろうか、と喬之介は思ったものである。

 だが何年も経ち、海辺の町で暮らした日々が遠くなる頃、自分は田舎のネズミですらない、と喬之介は気づく。

 何故なら、喬之介には、帰る場所などないからだ。住む場所どころか両親という心の拠り所を失くした喬之介が、新しい場所で折り合いをつける為にしたことは、生まれたばかりの妹とは違い、それまでの自分を消し、忘れ去り、失うことが始まりであったから。


 『大事なのは、忘れることだ』


 大人と呼ばれる年齢になった今でも、未だにイソップ寓話を読めば、苦い思いに取り憑かれ『そういうもの』として捉えることが出来ない喬之介には、笑い飛ばしてくれる母親も、疾うにいないのだった。


 マンションの入り口に立つ、女性の姿を認めた喬之介は、まさかという思いと、須見の話を聞いたことで過去を思い出していたことから、やはりという観念にも似た何かが去来する。あの話が呼び水となったに違いない。


「喬ちゃん、お帰りなさい」


 喬之介が声を掛けるより早く、自分に向かって近づいて来る兄の姿に気づくや否や、手元のスマホからパッと顔を上げて笑顔をみせた。


「……茅花ちか、なんで……いつから待ってた? 連絡くらい出来なかったのか?」


 尋ねながら喬之介は、心配と苛立ちから思わず、眉を顰める。


「ごめんってば。急に思い立ったんだもの」


 不意を突かれる形で、喬之介を待っていたのは、もう小さくはない妹だった。

 あの時、生まれたばかりの赤児だった茅花ちかも、今年で十九歳になる。

 美しかった母親に似て、茅花もまた綺麗な顔立ちをした人目を引く女性に成長した。


「喬ちゃん、泊まらせてよ」

「ホント、急だな……良いけど、アキ叔父さんは知ってるの?」

「うん。秋パパは一昨日から、お祖父ちゃんのとこに行ってる」

「ふうん。その様子じゃあ、つまり予定が狂った、とかだろ」

「秋パパは、予定通りだよ」

「分かってるよ」

「喬ちゃんに予定がないのも、分かってるよ?」


 敵わない、と喬之介は苦笑いをする。

 そんな喬之介の様子を目敏く見て取った茅花は、離れて立っていた二、三歩の距離を飛び跳ねるように詰めると、喬之介の腕にするりと自分の腕を絡ませるのだった。


「ひとりは、寂しいんだもん」


 妹に、両親の記憶などある筈はない。

 未だ独身の叔父の高秋たかあきのことを、物心ついた時から『秋パパ』と呼び、祖父母にも叔父にも甘やかされ愛されて育った何の屈託もない茅花を前にすると喬之介は、もう少し歳が近ければ何か分かち合えるものがあっただろうかと、折に触れ考えても仕方のないことを思ったりする。

 また、そう思った後で、覚えていなくて良かったのだと、自分に言い聞かせるのだ。そして兄であるが故に、喬之介は、過去への郷愁などもなく素直に周囲の愛情を受け止め、少しも捻くれたところなどない眩しいほどの妹に、充分な安堵と、分かち合えないことの一抹の寂しさと確かな妬みを抱いていることに、後ろめたくなるのであった。




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