1-2
その後、再びカウンセリングルームに移り、次の面談の約束を男から取り付けると、部屋を出て受付カウンターに寄る姿を見届けた
部屋の真ん中のテーブルに、男が創り上げた箱庭が、静かに置かれている。
カメラを片手に近づき、箱庭の前に立つ。
男との二回目の箱庭療法に向け、現状を残しておく為、写真を撮ろうとカメラ越しに箱庭を覗き込んだ、その時。
……おや?
カメラから顔を離した喬之介は、あらためて目の前の箱庭を眺めた。
木造の小屋の前に置かれていた、背中に赤児を背負い込んだ着物を着た人形が、横倒しになっている。
こうも簡単に倒れるような格好で、設置されていただろうか。男は几帳面な質で他の造型物を見れば、みな、倒れないようにと砂に半ば埋め込まれるように置いてあった。
この人形も同じように、砂の中に足元が埋まっていた気がしたのだが……。これだけは、たまたま不安定な置き方をしていたのかもしれなかった。有り得ない、と言い切れる自信は、制作者ではない喬之介には無い。その為、離れる際に何かの衝撃……気づかぬうちに、テーブルに手や足を僅かに引っ掛けたことなどで、人形が倒れたのだと考えるのが妥当なところである。
だが、仮にそうだったとしても喬之介が勝手に箱庭に手を入れ、人形を立たせることは出来ない。
カメラを構えようとして、再び躊躇する。
……なんだろう。
それとない、この違和感は。
じっと、人形と同じように頭を倒し、赤児を背負い込む無表情なその顔を見つめる。
喬之介の記憶の中にあるこの人形は、全ての物から背を向けるように立ち、ぽつねんと小屋の前に置かれていた。ところが、横倒しになった今、目の前の人形は茅葺き屋根の家の方へ顔を向けている。
それが、違和感の正体だった。
喬之介の記憶どおりに、人形が全ての物から背を向けていたとするなら、このような向きで倒れているのは辻褄が合わない。
人形は本当に全ての物から背を向けていたのだろうか?
また、そもそも、どちらを向いていたにせよ、意図せず倒れた場合、背負っている赤児の重さで砂に顔を埋めるように俯せになる筈だから、今のように完全な横向きであることにも違和感があるのだ。
とすれば目の前の、人形。
最初から横倒しの格好で、茅葺き屋根の家の方を向いて置かれていたようにも見える。
しかし……。
確かなことを思い出そうと頭を捻るが、時として記憶と云うものは、実に曖昧なものだと喬之介は知っていた。
全ては喬之介の勘違いということもある。それに部屋を出る前に男が急に思い立ち、喬之介の知らないうちに人形を横向きに置いたのかもしれない。
だが、箱庭から離れたのも、部屋を出たのも男の方が先だ。喬之介の目を盗んで、そのようなことをする隙は、無かった。
……まさか、な。
人形が、ひとりでに動いた?
馬鹿な……考え過ぎだ。
男の奇妙な話に引き摺られたのか。
苦笑いと共に喬之介は、首を横に振る。
気を取り直しカメラを構え、箱庭を写す。
普段なら正面から見下ろす形で一枚撮るだけなのだが、奇妙と云えば何を思ったのか、喬之介は自分でもそれと分からないうちに、無意識に反対側に回ると中腰の姿勢でもう一枚、カメラに箱庭の様子を収めるとその場を離れたのも、奇妙なことだった。
クライエント氏名(年齢):
主訴(診断):酷い頭痛、体調不良により様々な科を受診するも一向に異常は見つからず、精神科を勧められ迷った挙句、心療内科を掲げる当クリニックへ。現在休職中、情緒不安定、人を殺す悪夢を繰り返し見る。自分が未だ見ぬその人を、殺すのでは無いかと不安。小さい頃から勘が良く、最近ではじっと人を見るだけで、その人の部分的な過去や未来が頭の中で再生される。(不安障害または統合失調症の可能性)
統合失調症の可能性……。
ふと、カルテに入力していた手が止まる。
あの男……須見が、統合失調症である可能性は低いと喬之介は考えていた。
創り上げた箱庭を見る限りテーマはあり、人物も用いられている。
喬之介が知る限り、これまでの統合失調症のクライエントが創り上げた箱庭には、人物の造型物を使われることは稀で、テーマらしきものも無かった。仮にあったとしても、本人にしか分からないものが多い。いわゆる支離滅裂といった感じを受けるが、須見の場合は、そう云うことも無かった。箱の枠に沿うような、特異な何重もの柵や川や道が不自然に存在することも無いし、空白領域も多いが過ぎるほどでも無い。
ただ、造型物や色彩の少なさから、想像力や表現力が乏しいのが分かる。
そして箱庭の中の世界に目を向ければ、本人に模した人形には家族……両親と祖父母がいることから類推するに、現状の須見は孤独ではないようだが、只それだけ、だ。何故なら、それらの人形はどれも、赤児を背負った人形と互いに背を向けており、その結びつきは弱い。
また、箱庭の中に血縁家族以外の人間や動物が見られないことから、現実社会に於ける須見の人間関係は希薄であることが窺える。
独創的なテーマではないことから、一見すると過去の生活場面を模写し表現しているのかと思われたが、カウンセリングで聴き取りした家族構成によれば、須見に弟妹は居ない。更には須見が物心ついた頃からずっと、母子家庭で父親は不在だった。
それなのに須見は箱庭の風景にはモデルがあり『子供の頃、よく行っていた父親の田舎』だと言っている。その田舎に『今は父親がたまに、一人で空き家を管理するために行く』とは、まるで現在も、これまでも、父親と暮らしているようだ。
やはり全ては妄想、なのだろうか。
そう考える一方で、幻覚や妄想では片付けられない何か、があると喬之介に思わせる須見は、実に奇妙なクライエントだった。
そう思わせる偶因とも呼べる話を聞いたのは、箱庭療法に移る前の、カウンセリングでのことである。
椅子の背に寄り掛かり天井を見上げ、ブルーライトで疲れた目を閉じると喬之介の耳の奥、須見の声が蘇った――。
「……始まりは頭痛だったんです。日に日に酷くなる頭痛。原因を調べましたが、脳には何の異常もなかった。それどころか……おかしなことに、生活に支障を来すほど頭痛が酷くなるのと同時に……人を……誰か特定の人を、じっと見るだけで……その相手の、過去が……場合によっては、あれは、多分……そう未来……が、私の頭の中に再生されるようになったんです」
ソファに座った須見が、自身の膝の辺りに視線を落としたまま、まるでそこに何かの答えが細かな字で書いてあるかの如く、眉間に皺を寄せ目頭に力を入れ、一言ひとこと絞り出すように話すのを喬之介は、斜め前の一人掛けの椅子に座り、眺めていた。
きちんと整えられた頭髪、清潔感のある外見、初対面ということもあり緊張により身体の強張りは見えるものの、発せられる言葉は順序が立ち滑らかだ。
話は、いよいよ核心へと近づく。
須見の両膝の上に置かれた手に、力が入るのが見えた。
「そのうち、この頭痛は私に起因するものじゃないと気づきました。そりゃそうです。検査しても何の異常もないんですから……少し考えれば、直ぐに分かりましたよ。誰かの過去やら未来なんだかが、映像となって無理矢理に私の頭の中に勝手に入って来るせいで頭が酷く痛むようになったんだと……」
頭に入り込んで来る、映像。
それまで黙ったまま話を聞いていた喬之介が、考えていたことは、須見の診断だ。
須見が視ているのは、幻覚や妄想だろう。
環境ストレス因による精神病症状の出現、おそらく統合失調症の陽性症状と見るのが妥当と思われる。
だが、須見が持って来た紹介状には、脳に萎縮や病変は見られないことに加え、脳波にも異常は無かったと記載されていた。
「……今は、どうですか? その映像とは、じっと見ていると勝手に入ってくるというのなら、僕を目の前にした今、須見さんの頭の中に、何か視えたりはしないのでしょうか」
「えっ……?」
弾かれたように顔を上げ、喬之介に向けた須見の目の中には、困惑の色があった。
「何か視えたりしないか……?」
その言葉に、つられるようにして須見は、じっと喬之介の顔を見る。
顔を見る、いや、そうではない。須見の充血した目の焦点は喬之介の顔表面を通り越し、あたかも直接、頭の中心部を覗いているようだった。
須見の広い額に脂汗が、じわりじわりと滲み出て来るのが、橙色の混じる照明によって、傷口から出る黄色透明の滲出液のように見える。
「……視えます。ええ……先生のことだって……でも、それが過去の事なのか未来の事なのかは……なにしろ断片的ですし、そこまでは……答え合わせをするまで、私には分からないんです」
「答え合わせ? それをしたことが?」
「もちろんですよ。頭がおかしくなったんじゃないのかって不安の中で、確かめずにはいられないでしょう? お蔭で会社での人間関係は最悪ですよ。元から大したことのない付き合いでしたが、今となっては針の
吐き捨てるように言った須見の、その視線の焦点は、今は喬之介の顔にあった。声には須見の苦しみや怒り、それだけでなく、やるせなく哀しい思いがある。
「では、須見さんの頭の中に視えた僕を、教えてください」
須見は、喬之介をじっと見て、一寸言い淀むように開きかけた口を閉じたが、乾いた唇を舌で湿らせると、意を決したように話し始めた。
「最初に……炎が、視えました。渦巻くような……天井を舐める勢いの、炎。それから……美しい女性が、首を絞められているところも。締めている人……その背中から男性だというのは分かりますが……顔、顔は見えません……背中……力が入っている……盛り上がる肩、広い背中……。次に、血だらけの両掌を見下ろしているところ……言葉は分からない……何か……叫び声……」
須見が、唇を結んだ。
部屋に沈黙が、落ちる。
間接照明は、こんなに暗かっただろうか。
聞き終えた喬之介は、動揺を悟られまいと、平静を装うのが精一杯だった。
「……それだけ、ですか?」
問う自身の声さえ、自分のものではないようだと、喬之介は思う。
「先にも言いましたが、私の頭の中に入って来るのは、断片的な映像なんです。過去なのか未来なのかも分からない。ただ、これまでの答え合わせをしたことから私が言えるのは、映像は本物だってことです。ねえ、先生……答え合わせをしてくれませんか? 私の視えた映像は、確かに先生の目が見たものではないですか? そうでなければ、近いうちに……答え合わせが出来ると思います」
須見が、薄く笑う。
「どうして、こんなことが私の身に起きることになったのか、その原因は、私の中にあるのでしょうか。私の鬱屈した感情が……そのせいで、他人の何かに反応しているとか?」
「須見さんは、外我と内我の不一致が、原因だと思われるのですね」
勿体を付けたように、尤もらしいことを言いながら喬之介は一方で、全く違うことを考えていたのだった。
――目を開ける。
見慣れた天井が喬之介を見下ろしていた。
その後、箱庭療法へと話を持っていった喬之介は、須見の視えた映像に、ついぞ答えを返さなかった。
幻覚でも妄想でも無いのだとしたら。
須見は実際に、視えているとでも……?
答えは、喬之介の過去と一致していた。
首を絞められていたのは、喬之介の母親であり、その一部始終を幼い喬之介は過去、目の当たりにしていたのだった。
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