第一章
1-1
「箱庭療法、ですか?」
男の目が小刻みに左右に震えるのを見て取った喬之介は、自分の言葉が理解されるのを待つ間、脚を組み、両手を片膝の上で合わせ目の前の男をじっくりと、だがさりげなく、観察し始める。
年齢は四十代後半、きっちりと首元まで留めた白いボタンダウンのシャツの襟の上には、その男の、弛んだ皮膚がはみ出していた。じっとりと滲む汗が、襟の色を僅かに変えている。コーヒーテーブルと平行に並んだ男の両膝の上に置かれた手の爪は、短く切られ、汚れなどは見当たらない。穿いているカジュアルなスラックスにも、滲みや皺などはなく実に清潔である。ふと、膝を掴む手に目をやれば力が入っているのだろう、指の先が白くなっているのが見て取れた。
何を逡巡しているのだろう。
男と比べると、二十歳近くも歳下である喬之介の言葉を、おいそれと信頼は出来ないというのか、それとも。
「箱庭療法というのを、聞いたことがありますか?」
喬之介は、いっそ優しげとも言える声色で男に聞いてみる。男が喬之介に向けていた顔を逸らすと、間をおかず、まるで恥じるように俯き首を横に振るのを見て、やはりと思いつつ、自身の言葉の足りなさを詫びた。
「これは病気を治す、というものとは少し違います。箱庭療法とは、心の中にある言葉にならないものを表現したり、自分の奥底と繋がってゆく体験をする事で自己治癒力によって、自身の心理的な葛藤を解決する手助けの一つなんです」
今や喬之介の真正面にある男の耳の穴は、ぎょっとするほど大きく、一旦気づいてしまえば、そこから目を離すことが出来なかった。半ば無意識に、自然とそこに向かって吐き出される喬之介の言葉は、蛇行しながらも行儀良く列を成し、その黯く深い穴に次々と吸い込まれるのが見えるようだった。
現在二人が居るのは、落ち着いた雰囲気のリビングにも似たソファによって構成されたカウンセリングルームである。
この部屋は、喬之介が院長を務める
油断すれば自身さえ吸い込まれてしまいそうな黯い耳の穴から、無理矢理に目を引き剥がすと、さりげなさを装い、男の横顔や全身に視線を走らせ強張る肩や力の入った両手から読み取れるものを探す。
迷っている。
男は、自分の奥底にある黯いものを、目の当たりにすることを。
あと一押し、喬之介は努めて何でもない風を装う軽い声を出した。
「そうですね。見たほうが早い。実際に、どのような物を使うか、お見せしましょう」
それだけ言うと喬之介は席を立ち、説明の必要がある際にと、あらかじめ用意しておいたひとつの箱を取って来て見せた。木製で出来たそれは、内寸で縦 57cm・横 72cm・高さ 7cm、箱の内側の底板と側板は水色に塗られている。この大きさである理由は、人がその前に立ち、全体を一目で把握出来ることにあった。
「この箱を使って、その中を自分の小さな庭のように好きに作業をして貰うので『箱庭』と云うのです。まあ、盆栽や盆景と、似たようなものですね。遊びのような延長で、気負わずに出来るのが利点と言えます」
箱の中に砂を敷き詰め、人や建物、動物や植物、宗教的なものなどの造型物を配置してもらう。箱の内側の底板と側壁が水色に塗られているのは、池や川、海など水を表現するのに利用されたり、側面は空などに見立てて使用したりする為である。つまり『箱庭療法』とはその箱の中に、自由に世界を作ってもらうことで、心の治癒を促すことが出来ると考えられていた。
男に向かって喬之介が説明をする間、コーヒーテーブルの上に置かれた、まだ何も入っていない空の箱を、ぼんやりとしばらく眺めていた男だったが理解するに従い、ゆるゆると、肩の力が抜けてゆくのが見て分かった。なんだ、簡単ではないか。難しくも無い。怖いことなど無さそうだ。そのまま顔だけを喬之介の方に戻すと、ひとつ小さく頷く。
「……分かりました。やってみます」
その言葉を受けた喬之介は、先に立ち、続き部屋へと男を案内した。
二人が足を踏み入れた部屋の真ん中に、作業台としてひとつのテーブルがあり、その上には、すでに砂を敷き詰めた箱庭が置かれている。部屋に窓はなく、三方の壁、その一面は全てに棚が取り付けられ、中にはあらゆる種類の
普段から見慣れている癖に、日によっては何度となく足を踏み入れるのに、その度に、奇妙に片付き過ぎた玩具箱の中に放り込まれたようだと喬之介は、感じる。
テーブルの前まで
「ゆっくりと息を吸って……吐いて。何度か繰り返して下さい。緊張することは、ありません」
まずは、砂の中に手を入れてもらい、感触を楽しみながら自由に形を作ってもらうことを説明すると、男はシャツの袖のボタンを外し、きっかり三回ずつ右腕、左腕の順に両腕を捲り上げた。恐るおそる砂の中に手を埋めると、しばらく確かめるように、手のひら全体で砂を撫で回している。
大きく砂を持ち上げ山を作ってみたり、深く掘り下げ、底の水色を露わにしてみたりと、ある程度、慣れてきたのだろう男の手つきは少しずつ大胆に、やがて明確な意思を持って砂を動かし始めた。
ややもすると熱心な様子で、右上から左下に向かって、曲がりくねった川のようなものを作るのが見えた。
ぴたり、と手が止まる。満足がいったのだろう。男は両手についた細かな砂を払いながら、箱の中の出来上がりを眺めていたと思うと、ちら、と喬之介の方を見た。
「……この後は」
「そうしましたら、壁の棚にあるオブジェから好きな物を選んで、出来上がった地形の上に置いて下さい」
男はテーブルを離れ造型物の置かれた棚に近づき、ひとつずつ、ゆっくりと見ていく。様々な建物の造型物が置かれた棚の前で少し迷った後に、昔噺に出てくるような木で造られた小屋を最初に手に取った。
それを左上の角に置く。
また棚に戻り、人型の造型物から背中に赤児を背負い込んだ着物を着た人形、手縫いを被ってしゃがみ込む人形、年寄りの男性と女性の人形、スーツを着た男性の人形を次々と取る。箱庭に戻り、赤児を背負った人形を家の目の前に置くと年寄りの人形ふたつと、スーツを着た男性の人形は家から離れ、小川に近い空き地に置いた。手縫いを被ってしゃがみ込む人形は、木で造られた小屋、おそらくだがそれらの人形の住む家の右側だ。
男の手は確実に箱の中を創り上げてゆく。
しばらく箱の中を眺めていると、何かに思い立ったように、棚から5㎝四方に切られた人工芝生を持ち出すと、空き地に置かれた人形を一旦退かし、芝生を置いたあとその上に人形を再び載せた。
そこで喬之介の存在を不意に思い出した男は、はっとした表情で振り返る。
喬之介は、男に向かって黙って、ただ頷いて見せた。
何も間違っては、いませんと云うように。
その後、男は喬之介の方を気にすることなく箱庭の制作に没頭し始める。
男は、何かに憑かれたように部屋の中を歩き回り、一つひとつの棚を覗く。目的の物を探し出すと、大事そうに両手に抱え、箱庭まで運ぶ。手にしていたものを、置く。
繰り返される。
何度も、何度も。
右上の角、小川の脇に大きな木を植え、その根本には朱い祠を建てる。
小川の右側にも芝生をいくつか置く。
長い間空き地だった左下角に、茅葺き屋根の家を建てる。
茅葺き屋根の家を砂の上に慎重に置いた後、突然、憑き物が落ちたように男は、箱庭の前で立ち竦んだ。
出来上がったのだ。
充分な一拍ののち喬之介は、男を驚かすことの無いように、そっと話しかける。
「……それでは、完成した箱庭を見ていきましょう」
自分の世界に深く入っていた人間が、その中から、ぞろりと重い身体を引き摺り這い出て来るのを、喬之介は目の当たりにしながら、隣りに並び立ち、箱庭を見下ろす。
黯い淵を覗き込んでいたような男の視線を受けて、喬之介は質問を繰り出した。
「この中で、あなたはどこにいますか? あるいは、あなたに近いと思われる人はどこにいますか?」
男は、箱庭の中を見渡し、少し考えた後で赤児を背負い込んだ人形を指差す。
視線を箱庭の中から動かすことのないまま、喬之介は質問を続ける。
「ではこの人は今、どんなことを思っているのか教えて下さい」
腕を組み、首を傾げたまま男は答えた。
「新しい家には、誰が住んでいるんだろう」
「新しい家、とは、この木造の小屋ですか?」
違う、と男は首を横に振る。
「最後に置いた、この家です」
茅葺き屋根の家を示す男に、喬之介は、理解したことがはっきりと分かるように、大きく頷く。
「そうですか。他には? 何を考えているのでしょう」
「泣き止まない赤ん坊の世話は、大変だ……困る……かな?」
再び、喬之介は頷いて、男の答えを受け止めたことを伝える。
「この箱庭の風景に、モデルはあるのですか?」
「田んぼに囲まれた山里……子供の頃、よく行っていた父親の田舎です」
「子供の頃? 今は、行かないのですか?」
「もう随分と行ってないです。祖父母が亡くなったので、今は父親がたまに、一人で空き家を管理するために行くくらいですかね」
置かれた人工芝生の青々としたところから、箱庭の中は田植えの時期であり、祖父母と父親が田んぼで働いているのだという。
「そうすると、この家があなたの住む家ですか?」
いちばん最初に置かれた、木造の小屋を指差し、男に尋ねた。
「ええ、そうです」
男は箱庭の中から目を離さず、喬之介に答える。喬之介は同じように箱庭を覗き込みながら、時折り男の横顔を盗み見た。先ほどよりも近くにある大きな耳の穴が、目の前に、深く黯く佇んでいる。
何かに似ていると思っていたが、樹洞の入り口だ。一度、気づいてしまえば、日に焼けて
吸い込まれまいと視線を剥がした喬之介は、次に、小屋の右側に置かれた人形について尋ねる。
手縫いを被ってしゃがみ込む人形は、台所仕事をする母親で、常に忙しいのだと男は教えてくれる。
田んぼに置かれている人形は、それぞれ男の父親と祖父母、つまりこの箱庭の中は、男と両親、祖父母の暮らす村であった。
小川を挟んで向こう、小屋とは向かい合う位置にある、大きな木とその袂の朱い祠について聞けば、それは村の奥にひっそりとある祠で、どんな願いでも叶えてくれる御利益のある祠だそうだ。
どんな願いが、あるのだろう。
喬之介は、鋭い目で男の横顔を見る。
集中力が切れてきたのか、それとも質問によるものか、男の身体が今にも、そわそわと動きだそうとしているのを感じて喬之介は、最後の質問をすることにした。
「では、この茅葺き屋根の家、貴方が言うところの新しい家には、誰が、どんな人が住んでいるのですか?」
「うーん……誰、ですか? 姿は見えないんで、分からないです。どんな人、かも……でも、誰かが住んでいるんだと思います」
男が顔を上げ、喬之介をしっかりと見た。
二人の視線が、交わる。
これ以上、何も言うことはない、と告げるかのように、つと、視線は男の方から先に逸らされた。
それを見た喬之介は、この日の面談を終わりにすることにしたのである。
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