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「あ、電気やっぱり点けっぱなしだ」


 茅花ちかは明かりが煌々と灯るリビングに足を踏み入れるなり、人の住む雰囲気が希薄な部屋を、ぐるりと見回して言った。

「喬ちゃんって普段しっかりしてるのに、電気だけは、いっつも消し忘れるよね。家に居たときも、部屋だけじゃなくてトイレもお風呂も……お祖父ちゃんと秋パパなんて呆れてたもんね、何度言っても直らないって」

 興味を惹かれたものを見つけては、時折り立ち止まり、くるくるとリビングを歩き回る茅花の様子は、仔犬を彷彿とさせる。

 

「あ、こっちの部屋も電気点いてる」リビングと繋がる扉を躊躇なく開け、六畳の洋室を覗く。喬之介きょうのすけが書斎として使っている部屋だ。


「ねえ、少し前に来たときと、全く一緒じゃない?」

「そりゃ、そうだろ」

「……まあ、遠巻きに言ったところで通じないとは思ったけど」


 そこでちらりと喬之介の顔を見上げた茅花の、言わんとしていることに気づいて「一人で、良いんだよ」と笑う。


「えー。だって、秋パパなんてさ、喬ちゃんが引っ越した後、言ってたよ? 二部屋あるんだし、喬ちゃんは近いうちに誰かと住む予定があるに違いないって。紹介してくれないなら二人で突撃しちゃおうかって、ウソ、冗談。えっと……半分くらいは? それなのにって……あ、えっと……そっか、そういうことか。なんか、ごめんね?」


 ようやくリビングを歩き回るのを止め、ソファに腰を下ろした茅花は、一人で喋り勝手に納得すると、少し決まりの悪そうな顔で喬之介を見上げた。

 少しも悪いと思っていないのに、それらしい態度をみせる、またしても仔犬のような茅花のその姿に、噴き出しそうになりながらも喬之介もまた、それらしい真面目くさった表情を取り繕うと言った。


「よく言うよ茅花。そんな相手、誰もいないって最初から分かってて来たんじゃないの?」

「そんなの分かんないよ。喬ちゃんは、そういうの何も言わないじゃん。ま、連絡しなかったのは驚かせようと思ってたら、わたしが驚いちゃったってのを、半分くらいは期待していたんだけど……無かったかあ。ま、そうだよね」

「全く、何をしたいんだか」

「え? なんだろう。改めて言われると分からないかも……あ、でも意外な喬ちゃんを見てみたい? とか?」


 家族の、意外な一面。

 

 果たして、誰しもが、そんなものを見たいと思うのだろうか。親しい人の、それも家族の、知られざる一面。その一面が、良い事ばかりとは限らない。もし、見たくない一面を知ることになったら……。見せてしまうことに、なったら? そんな事を考えながら、ふと茅花を見る。ある事に気づき、喬之介は茅花の隣りに座ると、ぐっと顔を寄せて覗き込んだ。


「茅花、ちょっとこっち向いて。真っ直ぐ」

「え? なに、急に。照れちゃうじゃん」

「目の下、その薄っすら黒いのくまじゃないな。泣いたんだろ?」

 ぎくり、とした顔を一瞬だけ覗かせた茅花だったが、即座に、むっとした様子で口を尖らせる。

「……喬ちゃんって、察するとか言う便利で、いかにもな日本語知らないの? 連絡もなく突然現れた妹を見た時点で、なんかこう、聞いちゃいけない何か、がありそうだな、とか泣いた顔をしているけど、ここはひとつ聞かずにおこう、とかそんな風に思ったりしないかなあ。そんなんで医師とか詐欺でしょ」

「患者に話をさせるのも仕事なんだよ」

「わたし、喬ちゃんの患者じゃないし」


 つい、と顔を背けた、何かを堪えているような茅花の横顔は、驚くほど母親に似ていた。幼い頃の喬之介は、いつからか、母親のそんな横顔ばかり見ていた気がする。

 微かな胸の痛みと共に、懐かしさを感じて思わず手を伸ばし、そっと茅花の頬に優しく触れた後すぐに下ろす。


「そうだよな、ごめん」

 茅花の横顔に向かって、喬之介は謝った。

「……わたしも、急に来てごめんなさい」

 横を向いたままだったが、小さな声で謝る茅花の声が聞こえる。

「いつ来ても構わないんだから、謝らなくて良いって言いたいけど、次からは連絡だけはちゃんとしてからにしてくれる? いつ帰るか分からないのを待ってるなんて、危ないし、心配するから」

「うん……そうする」

 もう一度、ごめんねと言いながら喬之介の方を向き直った茅花は、少し恥ずかしそうな笑顔を見せた。


「ねえ、喬ちゃん夕飯は食べた?」

「まだ、だよ。茅花は? 何か食べた?」

「食べそこなっちゃって……お腹空いちゃったな。ね、何か食べようよ。ある?」

「大したものは、ないから……食べに……」

「えー、もう出掛けたくない。乾燥パスタぐらいはさすがにあるでしょ? パスタ茹でて簡単に食べようよ」

 言うが早いか、ソファから立ち上がった茅花は、さっさとキッチンへ姿を消すと、間もなく戸棚を開け閉めする音に続いて、鍋類を取り出す音が聞こえてきた。同時に、茅花の照れ隠しを伴う息吐く暇もないお喋りが。

「うわ、喬ちゃん冷蔵庫これ、ほとんど空気を冷やしてるだけじゃん。単なる冷たい箱だよ。ペンギンでも飼うの? って、ペンギンも別に寒いところが好きなわけじゃないんだった。飲み物も水と牛乳って、何それ、わたしに喧嘩売ってる? あ、野菜室は意外と充実。さては喬ちゃんって、朝にスムージーとか飲むんだ。ふうん。まあ、確かに手っ取り早いよね。野菜摂らなきゃって義務感? 罪悪感? あれってなんだろうね。無理に摂るくらいだったらビタミン剤とデキストリンとかイヌリンで良いような気がしちゃうけど。でもさ、山の方に旅行とか行って朝とか、捥ぎたての瑞々しいすっごい美味しい生野菜とか食べると、身体中の細胞全部が、わああって叫んでるの感じるときあるよね。だからお祖父ちゃん田舎暮らしとか始めちゃったんだろうなあ。畑で、その日分の野菜を収穫して食べるのが最高に美味いんだって、やたら同じようなメッセージ喬ちゃんにも来る?」


 冷蔵庫を開け閉めする音、鍋に水を汲む音、茅花が身体を動かすたびに大きくなったり小さくなったりする声。

 普段、一人きりでいると時折、果てしなく広いと思うことさえある部屋が、急に狭くなったような錯覚。

 

「喬ちゃんも手を洗って、パスタが茹で上がる前に、ニンジン摩り下ろすの手伝ってよ。わたし玉ねぎ切るから」


 キッチンから顔を覗かせた茅花を見て、慌ててジャケットを脱いだ喬之介は、シャツの袖を捲り上げつつ「何を作るの?」と言いながら近寄る。


「ニンジンのクリームパスタ」

「ああ、茅花それ好きだよね」

「ニンジンの概念を覆す食べ物である」

「概念って、大袈裟な」

「まあね、でも材料が丁度あるし。小松菜とブロッコリーのオイルパスタと迷ったんだけど、ベーコンとか入れたくなるし。無かったから、ニンジンのクリームパスタで」

「ベーコンくらい買いに行くよ」

「今から? そんなことするなら食べに行った方が早いじゃん。喬ちゃんて、やっぱり抜けてるよね」


 言われ放題であるが、喬之介は苦笑いをするしかなかった。その通りだからである。

 今から買いに行くくらいなら二人で外へ出て食べた方が、合理的であるし手間はない。

 茅花は手際よく玉ねぎを切りながら、沸騰した湯の音に気づくと、中に塩と少しのオリーブオイルを入れ、パスタを投入する。

「あ、喬ちゃん、手を休めない。ニンジンは二本摩り下ろすんだよ?」

「彼氏と喧嘩でもした?」

 喬之介の言葉に、鍋の中を掻き混ぜていた茅花の手が止まる。

「……ってか、別れた。喬ちゃん反則」

「ごめん。理由を聞いても良い?」

「理由? 知らない。フラれたのは、わたしなんだから理由は向こうに聞かなきゃ」

「聞いてないの?」

「それってさ、聞く必要がある?」

「え? 茅花は気にならないの?」

「……気になるよ。でも、聞いたら教えてくれる理由なんてのは、後から付け足したものだよ。そうじゃない? 喬ちゃんだって、好きだった誰かが、突然に特別じゃなくなったこと、あるでしょう? 自分の気持ちが、ぱたん、と閉じちゃうあの瞬間。その理由ってすぐに分かるよね? どんな理由を探しても結局は、、ってだけだよ。尋ねたら教えてくれるとか、そんなのは理由じゃなくて、言い訳。だから、聞かされるのは言い訳だってこと」

 そんなの、聞きたくもないじゃない? と固く唇を引き結ぶ茅花に、喬之介は何も言えず、ただ手を動かしながら、実にと思っていた。


 茅花が、幼稚園へ通い始めて、しばらくした頃だった。


 大きくなったら、大人になったら、何になりたい? という質問に、茅花は、何を当然のことを聞くのだ、といった様子で答えたものである。

「大きくなったって、茅花は茅花だよ。大人になった茅花に決まってるでしょ? 違う人には、ならないよ?」

 その答えに、質問をした当事者である祖父と今は亡き祖母は、違うよ、そうじゃなくて、と大笑いをしていたが、傍にいて、聞くともなしに聞いていた喬之介は愕然としたのだった。

 茅花の、言う通りだと思ったからである。

 人は、何にも

 実に、真理だと思った。

 自分は、どこまでも自分の延長でしかないのだ。途中で誰か、あるいは別のものになることは、ない。

 その後、あらためて成長したらどの様な職業に就きたいのか、という問いにも茅花は少し考え、言ったものである。

「幼稚園でも聞かれたよ。お友達はね、幼稚園の先生とか、お医者さんとかって言うの。アイドルになりたいって言う、お友達もいるんだよ。すごいよね。でも、茅花は分からない。分からないって幼稚園の先生にも言ったらね『じゃあ、お花屋さんとかは、どうかな?』って。分からないとダメなんだって」

 詳しく聞いてみると、七夕の短冊飾りに、園児一人ひとりの願いを吊るすため、何になりたいかを必ず答えなければならないのだったということが分かるのだが。

 喬之介は想像したものだ。

 光沢のある瑞々しい笹の葉の間に、色とりどりの折り紙で作られた、提灯や貝飾り、網飾りに、吹き流しが風に揺れ、願いを書いた短冊が、ちらちらと見え隠れする。

 園児たちの願う、様々な、なりたいもの。その中にある茅花の短冊。風に、くるくると舞う紙の間から探しだし、見れば、大きく書かれているのは『鞠内 茅花』それだけ。

 願いでは、ないかもしれない。

 間違いなく、願い、ではないだろう。

 しかし喬之介は、なぜだか分からないが茅花には、当然として茅花のままだと言ったときの、あの鮮烈な瞬間を、笹の葉に吊るして、ひとつの願いのように残しておけたらと思ってしまったのである。

 言い換えるならそれは、喬之介の願い、だったのかもしれない。


 その年の園の短冊には『おはなやさんに、なりたいです』という先生の手書きの文字が並ぶ茅花の名前と一緒に、吊るされていた。


 喬之介の隣りに立つ茅花を、見る。

「大学は、どうなの?」

「ふふっ。楽しいよ」

 ちらと、喬之介に視線を移し、手元に戻す。玉ねぎとニンジンをバターで炒め、小麦粉を加えたところだった。

 茅花の長い睫毛と綻んだままの唇を、その口元を眺めながら喬之介は、尋ねる。

「何になりたいか分からないからって、今の美大を選んだんだよね?」

「うん、そうだよ。そういう人を歓迎しますって言葉で、あの大学を選んだからね。だから何になろうか、何になれるか考え中。何にも、なれなかったりしてね? 喬ちゃん、牛乳とって」

 茅花は大きくなっても茅花なんだから、何にもなる必要はないんだよ、と言いかけた口を喬之介は開くかわりに、牛乳を手渡す。


「茅花らしくて、良いと思うよ」

「ありがとう、喬ちゃん」

 








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