第5話 歩と愛花の、小旅行


 マークシートの楕円の枠をはみ出さないよう、丁寧に答えを塗りつぶす。


 全問回答を終えると机から身体を起こし、それと同時に大きく息を吸い込んだ。


 ほうっ、と息を吐きながら、顔を上げて教室の時計を見る。

 そのまま教室を見渡そうとして、自分が今は一番前の席だったということを思い出す。


 名字が有住、だから試験や模試の度に、一番前の席に移動になる。

 前しか見えない分、何だか教室にひとりきりのような錯覚に陥る。


 シャープペンを転がして、時計の長い針が一周するまで見届ける。


 もうすぐ模試が終わる。

 そしたら受験勉強は少しだけお休みして、歩と小旅行だ。


 居ても立っても居られなくて、何度も何度もニヤける顔を両手でおさえた。


 そうして、なんとか今回の模試が終わった。




 その連休、私達は予定通り電車とバスを乗り継いで片道2時間の、温泉街に来ていた。


「旅行の時に模試の復習する?」

 と半分本気、半分冗談のつもりで歩に聞いたら、

「単語帳は持っていくつもりだけど、リフレッシュする時はリフレッシュしたい」

 と血走った目で言われ、慌てて頷いた。


 どうやらここ最近、睡眠時間も削って勉強していたらしい。

 この間までダルそうに勉強していたくせに。

 モチベーションの上がり方が怖い。


 あと、単語帳は持っていく、という辺り、受験生っぽい。

 私もだけど。


 ふと、街に漂う硫黄の匂いに気づく。

 他にも、温泉のお湯が流れ込んでいるのか、所々で道路脇の排水溝から立ち上る熱い水蒸気が、明らかにいつも見ている街の景色とは異なっている。


 知らない街に来たんだな、と感じる。

 歩とふたりで、私達のことを知る人が誰もいない街に。



「大学生になったら、もっとふたりで旅行に行ったりできるのかな」

「うう、受かるかまだ分かんないけど……、そうだね、ふたりでいっぱい色んなところに行きたいね」


 歩がするりと私の手を取ったので、びくりと一瞬心臓が跳ねた。

 ちら、と横を見ると無邪気に微笑む顔があって、まあいいか、と握り返す。


 ここには知り合いは誰もいないんだし、誰に見られても構わない。

 ゆるく手を繋いだまま、親指でそっと歩の手のひらを撫でた。


 今度は歩の方がびくりと身体を震えさせ、少し赤くなった顔で「なに」とこちらを睨んできた。

 怒っているわけじゃないことは分かっている。


 分かっているから、笑顔で「なんでもないよ」と返した。

 ふたりとも、駅に降り立った時点からテンションはずっと右肩上がりになっていた。


 空は青く晴れている。

 空気は透明で、透き通っている。

 何もかもが完璧な旅行日和だった。




 宿泊するのはちいさな温泉ホテルだ。

 高校生ふたりの金銭感覚と経済力で泊まれるところなんてたかが知れているので、ビジネスホテルとそう大して大差はない。

 強いて言えば、源泉かけ流しのお湯がはられている大浴場があることくらいか。


 それでも私達にとってはふたりきりでの小旅行に変わりはなくて、部屋に足を踏み入れた後、少しだけ歩と顔を見合わせ、お互いにへらっと笑った。


 頬がどんどん緩んでいくのが、抑えられなかった。


 取り合えず、荷物を置いて街を歩いてみる。

 観光地によくある、食べ歩き用に一個ずつ販売しているコロッケ、カップに入った唐揚げ、ソフトクリーム、温泉卵を横目に見ながらぶらつく。


「受験前にインフルエンザの予防接種受けるー?」

「受けるつもりだよ。だって怖いじゃん」


 そんな話をしながらぶらついていると、無料の足湯スペースを見つけた。


 そのままふたりで浸かってみようということになり、お湯の縁に設けられた木のベンチに腰を下ろす。

 お湯に入れたつま先を少し上げて波立たせると、私を中心に波紋がゆっくりと広がっていった。


 足がじんわりとした温かさに包まれる。

 自然と力が抜ける。

 隣を見ると、歩もたいそう心地よさそうな表情をしていた。


「絶対また来ようね。受験が無事に終わったら」

「いま来たばっかりでそれ言う?しかもまだ受験も始まってないじゃん」

「私、この受験が終わったら、また愛花とここに来るんだー」

「それ、『俺、この戦いがおわったら結婚するんだ~』って死亡フラグたつやつじゃん。やめてよ」


 ぷっ、とふたりで吹き出しながら、何食べようか、と相談する。

 どんどん話題が移り変わる。

 中身のある話なんてほとんどしない。


 昨日まで学校と勉強と、配信と日常生活とで埋まっていた頭の中が、ふわりふわりとやわらかいお湯でほぐされて、流されていく。


「あー、温泉も楽しみだなぁ」

「ね。宿の大浴場はいつでも入れるから、今夜は隣の大きい温泉施設の方行ってみる?」


 先程、ホテルにチェックインした際、ホテル近くにある温泉施設の割引チケットをもらった。大きな銭湯、に近いが普段からそういうものに馴染みがない私達にとっては、わくわくをプラスする要素に他ならなかった。


「いいねー!行こう!」

「あー、ふたりで温泉。楽しみだなぁ」


 そうだねぇ、ふたりで温泉楽しみだね……と返事をして、私の思考は一旦、止まる。


 ふたりで温泉、ということは、ふたりで温泉に入るということだ。  

 ちょっと混乱している。

 つまりはふたりで、生まれたままの姿になって、お風呂に入るということだ。


 つまりはそういうことだ。


 想像しただけで顔が熱くなり、案の定、歩に「顔が赤いけど、足湯でのぼせた……?」なんて心配されてしまった。

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