幕間―これは春休み中の出来事で、次のお話が始まる前のちょっとしたお話―
第1話 吉谷は、杞憂する
高校2年生の修学旅行。
その旅の最中、どうしても欲しくて堪らなかったものが、手に入った。
有住愛花。私が好きになった人。
クラゲの水槽前で告白された時の興奮は、多分ずっと忘れない。
夢みたいだと思ったけれど、修学旅行が終わっても有住は私の傍にいて、その関係性は明らかにこれまでと変化していた。
ふたりの間に流れる空気が変わった。密度が変わった。世界の色が変わった。
好きだよ、と囁くように有住は言ってくれるようになって、私は照れながら、私も、と答えるのがお決まりになった。
毎日が凄く幸せで、それは春休みに入った今でも続いている。
嬉しくて嬉しくて、そして――私の中で有住の存在がどんどん大きくなっていくごとに、この関係性を失うことが怖くなってきた。
それは多分、今のところ
有住が私のことを好きだと言ってくれた。それは凄く嬉しい。
でも、大好きだって気持ちを伝え過ぎたら、引かれてしまいそうで、少し怖い。
これまで気にしていなかった、有住の視線が気になる。
何を考えて、どうしたいのか、私のことをどう思っているのか、気になる。
両想いにはなったけれど、こんなことをして嫌われないか、こんなことを言って嫌な気持ちにしてしまわないかと、言動を気にするようになった。
有住のことが好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
私と話す時に時折甘くなる声も、ふと柔らかく微笑む表情も、抱きしめられた時に私を包み込む有住の匂いも全部ぜんぶ。
私が有住のことを好きだということを、有住にはちゃんと知っていて欲しい。分かっていて欲しい。感じていて欲しい。
そして、私だけを見ていて欲しい。
だけど、そんな事を言ったら多分、有住を困らせるだけだ。
だから私は、少し我慢をすることにした。
「私が行きます」
チリン、と軽快な音が鳴り、お客様からのお呼び出しがかかる。
私がバイトしているこの喫茶店は昔ながらのレトロ感を大切にしている。
だから、店員を呼び出す時には各テーブルに設置されているちいさなベルを鳴らしてもらうことで、合図することになっている。
このバイトを始めた時は何かの作業に没頭していると聞き逃していたこの音も、今ではすぐに気づくようになっていた。
それに、いまこのタイミングで鳴らすのは多分。
「お待たせ致しました」
「ふへへ、吉谷だぁ」
嬉しそうに笑う、この人だから。
「17時にバイト終わりだよね」
「うん、ごめんね。待たせちゃって」
「ううん、良いよ。私が自分から、迎えに来て待っとく、って言い出したんだし」
今日はこの後、有住とふたりで夜までファミレスで勉強する約束をしていた。
座っているからいつもより低い目線で私を見上げて覗き込んでくる彼女は、「バイト、あと1時間、がんばってね」と甘い声と表情で微笑む。
「……」
「よしたに?」
なんでもない、と誤魔化して注文を促す。
あんなに可愛い顔で可愛いことをされると頬が緩み過ぎて、人前でだらしのない顔を
……まあ、今までにもだらしのない顔はしてきている自覚はあるので、もう遅いかもしれないけど。
それでもなるべく有住の前では、可愛くいたい。
「バイトしてる姿、凄く可愛いし、カッコいいね。ぎゅっ、てしたくなる」
「……もう、何なのさ……」
不意打ちで投げられたその言葉に、一気に顔が熱くなる。
恥ずかしくてまともに有住の顔が見れない。
付き合いだしてからの有住は、本当にどうかしている。
この子は、こうと決めたら切り替えが早い。
あんなに嫌がっていた演劇に出演が決まった時も、私がさっちゃんにヤキモチを妬いて泣いた時も、有住が私の事を好きだと言ってくれた時も。
それまで悩んでいたり駄々を
つまりはとても極端なのだ。
特に、付き合うようになってからの有住の言動の変化は、私の心臓がもたないという点で、タチが悪い。
この間だって。
『ちょ、ちょっとありずみ』
『ん~?なぁに?』
私の部屋に来た日の、勉強の合間。
少し休憩しよう、とふたりでお喋りをしている時にふと、伸びてきた手。
そのまま引き寄せられると、ぎゅっと抱きしめられて、頬に柔らかいものが触れた。
それを皮切りに、ちゅ、ちゅ、と頬や額、瞼にどんどん有住の柔らかい唇が触れていく。
私はそのくすぐったさと心地よさに段々と頭がぼーっとしてきて、ただされるがままになっていた。
でも、有住がくい、と私の
『ちょ、ちょっとストップッ!』
『え、え、なに』
『だ、だって、口は、その、まだはやい…』
『あ、ごめん。夢中になってた。吉谷に触りたくて』
可愛いからつい、なんて言われてまた額にちゅ、と口づけられたのを最後に、有住の腕の中から解放される。
離れていく体温に寂しさを感じていると、『そんな寂しそうな顔しないでよ』と苦笑いされてしまった。
思わず有住の制服の裾を控えめに摘まみ、
『ごめんね。私、その、有住に触られるのは好きなんだけど…だけど…口へのちゅーはまだ、心の準備が…さ…』
というと、目を丸くした有住が『あー…もう…うん、いいから…』と、ぱっと目を逸らした。
少し耳が赤いようだったけれど、気のせいかもしれない。
その後も、ちらちらと有住は私を見てきたけれど、その日はもう触ってくることはなかった。
『我慢するのって、こんなに難しいことだったんだね……』と呟いて。
何か気に障るようなことをしたのかな。
気になって聞いてみたけれど、その日は曖昧な返事しか返って来なかった。
有住に
そう反省しながらキッチンに注文を伝えに行くと、「あ、吉谷さん、丁度良かった」とマネージャーに呼び止められる。
その後、話を切り出したニコニコ顔のマネージャーから、私は一つの仕事を仰せつかることになった。
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