幕間

幕間 ―中学時代の洋ちゃん、さっちゃん―

 最初は何の面識も、繋がりも無かった。



 テニスコートを取り囲むフェンスの向こうに、グラウンドがある。

 女子サッカー部や男子サッカー部、野球部などが交互に使っているそこは、私にとっては関わりの浅い別の世界だ。


 私はいつも部活の休憩中にその練習風景を横目で見ながら水分補給をする。

 今日は女子サッカー部が野球部の横で練習をしていた。


 ボールを蹴ってゴールに入れる、程度の知識しか持たないので、正直練習も何をしているのかは分からない。

 よくもあんな広いグラウンドを、飽きもせずに走り回れるよね。


 そう思うと、この間友人に「よくあんなちいさなテニスボールを飽きもせずに追いかけられるわね」と言われたことを思い出した。

 私も人に言えたことじゃないか。


 そんなことを考えながら、またテニスの練習に戻る。

 中学2年生の頃の私は、部活に勉強に遊びに恋に、とそれなりに充実した毎日を送っていた。




 その人をその他大勢の中から「個」として認識するようになったのは、たまたまだった。


 ある日、他の部員が帰宅した後に居残り練習をしていると、どこかから物音が聞こえてきた。

 辺りを見回すとグラウンドでひとり、まだボールを追いかけている姿がある。


 こちらから遠目に見ると豆粒程度の大きさにしか認識できないので、背格好ぐらいしか分からない。おそらく女子サッカー部だ。

 そもそも女子サッカー部に知り合いはいないから、顔が分かったとしてもどうもしないけど。


 それでも日を重ねるうちに、徐々にその「人」を覚えていった。


 私の他にも、残って練習している人がいる。

 それが何だか心強かった。


 西日が差してどんどん影が長くなるグラウンドで、ゆらゆらと私とあの子の影だけが動き回る。

 砂埃と自分の汗が混じった少ししょっぱい匂いと、橙色に染まるグラウンドが、今でも鮮明に記憶に残っている。




 個人として認識したその人の名を知ったのは、2年生の夏の終わり頃だった。


「あ」

「ん?」

「あ、何でもない……です」


 各部活の代表の集まりに出席するため、集合場所の教室に入ると、その人がいた。

 思わずあげてしまった声を取り繕う様に頭を振り、目を逸らす。


 パイプ椅子を引いてその人の隣に座ると同時に、どこかの部の部長が開始の合図を出した。


 その日の議題は、部室の使い方や備品の取り扱いについての注意喚起だった。

 参加者は今日の話を次回の部活ミーティングで伝達しないといけないのだ。


 いかにも退屈な集まりを、周囲に悟られないよう欠伸を嚙み殺しながら聞く。

 だらけている、と思われたら後で先生や先輩に呼び出しをくらうかもしれない。

 そんな面倒なことはごめんだった。


「退屈だよねぇ。それよりはやく練習したくなる」

 その言葉に弾かれた様に振り向くと、隣から「ね?」と同意を求めるように首を傾げられる。


 その時の私は、周囲の目を気にしながら無言で頷いただけだった。



「ね、女子サッカー部の子だよね」

 集まりが終わった後、後片付けをしながら隣の席の子に話しかけてみる。


 怪訝な顔をされるかと覚悟していたけれど、案外相手は親し気に「そうだよ」と答えてくれた。

「私は村山紗智さち。そっちはいつもテニスコートで居残り練習している人でしょ」


 驚くと同時に嬉しくなった。

 存在を認識していたのは、こちらだけではなかったみたいだ。


「そうそう。私は水上洋子ようこ。宜しく~、村山さん」

 それから私と村山さんは、少しずつ話すようになっていった。




 冬が来て春になり、私達は中学3年生になった。

 4月、玄関ロビーに集まる人だかりのなかに、その姿を見つけて駆け寄る。


 その隣に立ち、貼り出されたクラス発表の掲示を見ると笑みが零れた。

 隣を見ると、その子も笑っている。


「1年間、同じクラスでよろしく、洋ちゃん」

「よろしくー、さっちゃん」


 その頃には、私達のお互いの呼び名も「洋ちゃん」「さっちゃん」へと変わっていた。


 さっちゃんは、とてもさとい人だった。

 ひとりっ子で兄弟もいないのに面倒見が良くて、女子サッカー部の部長としても信頼されているのが周囲の部員の様子からも伝わって来た。


 お互いに部長なので何かと相談することも多くて、さっちゃんには助けられることが多い。

 そしてよく自分の周りの人を見ている。


 だから、もしかしたらいつか気づかれるかもしれないとは思っていた。




 中学3年の秋、引退試合も終わって受験勉強が本格化してきた頃。

 私とさっちゃんは毎日日が暮れるまで教室で居残って勉強していた。


 巡回に来る先生からは「部活の時も受験生になっても君らは学校に残るのが好きだね」と笑われたものの、悪い気はしない。

 それなら学校が閉まるまで残って勉強してやろうか、なんてさっちゃんが軽口を叩いたもんだから、ふたりで放課後の教室にいることが当たり前になっていた。




 どうしてそんな話になったのかは、もう覚えていない。

 夕暮れ時の教室で、その日も寒さに震えながら模試の復習をしていた時だった。


 休憩の合間のふとした拍子に、それはさっちゃんから切り出された。


「……洋ちゃんってさ、いつも皆で恋バナする時、自分の話になると逸らすじゃんか」

「うん……」

「それってさ」


 さっちゃんの落ち着いた声が耳に響く。

 ああ、やっぱりか――とその時の私は何故かそう思ったんだ。


「それって、――先生のことが好きだから?」


 言われた瞬間は、肯定も否定も出来ないまま、黙り込むことしか出来なかった。


 でもさっちゃんの言う「先生」と、いま私の頭の中で瞬時に浮かんだ「先生」はほぼ同じ人であることは間違いなかった。


「なんで……」

「うーん……、いつも先生と話す時、何か他の人と話す雰囲気と違うなって。あ、ごめん、踏み込み過ぎてるならもうこの話止めるけど」

「ううん、いい……大丈夫……」


「そっか……、でさ、それなら続けるけど、私、先生と話す時の洋ちゃん見てて最近思うんだけどさ」


 さっちゃんが言いたいことは、何となく分かっている。


 私のクラスの担任の先生は女子テニス部の顧問で、可愛い女の人で、そして最近、――婚約したらしい。

 その話を本人から聞いた時は、分かっていたのにショックだった。


「最近の洋ちゃん、見てると結構苦しそうでさ。……もう限界なんじゃないかな、って」

 さっちゃんの言葉をきっかけに、つん、と鼻の奥が痛くなり、慌てて机の上にうずくまる。


 声を出さないように歯を食いしばると、さっちゃんが「……洋、我慢しなくていいから」と私の震える肩に手を添えた。

 さっちゃんが、私のことを呼びすてにするのはこの時が初めてだった。


 途端に、嗚咽がこみ上げる。

 人前で声を出して泣いたのは、ちいさい頃に友達とケンカした時以来だった。


 ずっと誰にも言えなくて、もうひとりで抱えきれなくなっていた想いに気づいてくれたのは、やっぱりさっちゃんだった。


 その日は私が自然に泣き止むまで、ずっと傍についていてくれた。




 その時からだ、ふとした時にお互いが「洋」「紗智」と呼び合うようになったのは。


「吉谷ってほんと素直だよねぇ。有住のこととなると」

 ファミレスでふたりきりでの勉強会中、スマホを操作しながら、さっちゃんが呟く。


 お人好しで面倒見のいいこの人は、高校生になった今でも、また友達のために相談相手になっているらしい。


「私からすると、さっちゃんの面倒見の良さも凄いと思うけど。あの子らほとんど両想いの様なもんなんだし、さっさとくっつけーって思うけどなぁ」


 じとり、とさっちゃんから睨まれる。

「そんなこと言って、変に引っ掻き回さないでよ? 洋はそうやってすぐ面白がっちゃうんだから」

「はいはい、紗智がそう言うんならやんないよぅ」


 それより、と目の前の相棒に目配せをする。

「え、またぁ?」と呆れた様に声をあげるけど、結局は一緒に付いて来てくれることは分かっている。


 春休み中なら、生徒は学校にほとんど来ないし先生達の手も空いているかもしれない。

 卒業後も私は不定期に紗智を道連れにして、先生に会いに行っていた。



「ほんと先生のこと好きだよねぇ。もう卒業して2年も経つのに」

「先生、次の春は少し遠くの学校に異動だって言ってたからもう会えるの少ししかないんだもん」

「連絡先聞けばいいじゃん」

「……そこまではしない。諦めきれないじゃん」


 未だに会いに行っている時点でどの口がそれを言うか、とちいさな声でさっちゃんが言うので軽く足を蹴飛ばしてやる。


 少し不満気ではあるものの、「ほら、行くよ」と先に立ち上がってくれる。

「その代わり、今度何か奢ってよね」

「りょうかーい」


 ここのファミレス代を奢れって言わずに「今度」って濁すあたり、やっぱいい奴なんだよなぁ。



 ――初詣に神様にしたお願い、叶うといいなぁ。


 私は自分のことは自分で頑張るから、紗智や有住や吉谷みんなが、幸せな一年を過ごせますように。

 なんて、神様の前でしたがらでもないお願いごとを思い出して、また心の中で手を合わせた。






 幕間おわり


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 次回からは第8章の開始です。

 ここまでお読み頂きありがとうございました。

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