みっつ
次の日から、老婆——おばあちゃんとの二人暮らしが始まった。
おばあちゃんがどこからか貰ってきたTシャツと短パンを身に着け、おばあちゃんが作る味噌汁と白米がメインの質素な食事を摂り、暗くなったら布団でおばあちゃんと一緒に寝るという日々を送った。
日中はほとんど家の中で何をするでもなく過ごしたが、家の裏手で畑仕事をするおばあちゃんのお手伝いをして過ごすこともあった。
どこかに出掛けることはなく、僕もどこかに行きたいと願うこともなかった。ただひたすら、物静かに過ごした。
僕は相変わらず言葉を発することができなかった為、何かあれば身振り手振りで伝えていた。おばあちゃんはそんな僕の拙い仕草の意味を、いつも寸分違わずに汲み取ってくれた。箸の持ち方や椀の並べ方、物の名前や物書きなども、おばあちゃんから少しずつ教わった。
僕は初めて人と触れ合いながら学ぶことを知り、ほとんど瓦解していた人間らしさというものを少しずつ取り戻していった。それはまるで、僕の中に欠けていたものを、温かい指先でひとつひとつ与えられていくような、そんな感覚だった。
それを表情に出していたかは分からない。でも、僕が見つめる度に、おばあちゃんは皴だらけの顔をより一層くしゃくしゃにして微笑んでくれた。僕は、それがとても嬉しかった。
そんなある日、僕は家の裏手の畑で、オニヤンマが飛んでいるのを見つけた。
僕は、ちょうど数日前におばあちゃんが買ってきてくれていた虫取り網を手に取り、捕まえようと追い回した。しかし、オニヤンマは僕の振り回す虫取り網をひらひらとかわし、畑の外へと飛んで行ってしまった。
「これで、何か捕まえてみんね」
そう微笑んで虫網をくれたおばあちゃんを喜ばせようと、僕は夢中で追いかけた。気が付くと、家からやや離れたあぜ道に来てしまっていたが、恐怖心よりも冒険心や好奇心の方が勝っていた僕は、構わずにオニヤンマを追いかけ続けた。
ジイジイとセミが鳴き喚く中、畑沿いのあぜ道を通り、小川に掛けられた丸太橋を渡り、鬱蒼と茂る竹林の脇道を駆けていると、ふと、追いかけていたオニヤンマが空中で止まった。捕まえようと虫取り網を振るうと、またしてもオニヤンマはそれをひらりとかわし、竹林の方へと飛んで行った。懲りずに、それを追いかけようとすると、目の前に奇妙なものが現れた。
「……?」
それは、門だった。
鬱蒼と茂る竹林の中へと続く小道の入り口に、石造りの門が設けられていた。
門といっても、道の両脇に大人の背丈くらいの丸い石柱が建っているだけの粗末なものだった。しかし、それを奇妙たらしめていたのは、その丸い石柱に施されていた装飾だった。
その時の自分の、つまり子供の腕ほどもある太い藁紐がグルグルと巻き付けられていて、それにいくつもの木札が括り付けられていたのである。
よく見ると、木札には何事かが書かれていたが、読むことはできなかった。ほとんどのものは朽ちてしまっていたし、辛うじて残っていたものも字体が古すぎて何の文字かすら分からなかったからだ。
この門は一体———。
子供ながらに疑問に思っていると、その門の向こうでふよふよと空中を漂うオニヤンマを見つけた。なぜか、あれだけ逃げ回っていたオニヤンマは門の向こうの空中を漂うばかりで、どこかへ飛んで行こうとしなかった。
———まるで、僕を待っているかのように。
躊躇っていたが、どうにか捕まえたいという好奇心に負けて門を通ると、足元でカサッと音がした。下を見ると、ボロボロに朽ちた注連縄らしき残骸を足で踏みつけていた。
しかし、いざ通り抜けてみると、どうということはなく、僕の目には空中を漂うオニヤンマしか映らなかった。
待てっ。
逃げるオニヤンマを追い、また虫取り網を振るいながら竹林の中の小道を駆けて行くと、辺りが急に薄暗くなった。上を見ると、伸びてしなだれかかった竹が小道の上空を覆い尽くし、トンネルのようになっていた。
……あれ?
ふと、さっきまでうるさいほど聴こえていたセミの声が止んでいることに気が付いた。
その時、初めて〝家から遠い場所に来てしまった〟という恐怖を感じた。思わず立ち止まり、振り返ると、あの石柱の門が遠くに見えた。
引き返した方が———。
そう思った瞬間、門の方からビュウッと風が吹いてきた。地面に落ちていた笹の葉を舞い上げ、両脇の竹林をざわめかせる風は、汗をかいた僕の身体を撫ぜ冷やすように吹き抜けていった。
———くすくす
不意に笑い声がして向き直ると、小道の向こうに誰かが立っていた。
それは、女の人だった。
小道の真ん中に、白い振袖を着た女の人が立っていた。振袖だけでなく、巻いている帯も真っ白だった。振袖の裾から覗く足には、白い足袋と白い草履を履いていた。
そこだけ竹が空を覆っていないのか陽が差しており、辺り一帯を優しく照らしていた。その陽の光に透かされているように、その白づくめの女の人は存在していた。
———誰?
疑問に思うと同時に、なぜか僕はゆっくりと歩き出していた。後ろからは風が柔らかく吹いていて、まるで背中を押されているようだった。
とうとう陽の光が差す一帯の手前まで来ると、女の人が僕に向かって微笑んでいるのが分かった。身に着けているものと同じく、肌も透き通るように真っ白で、唯一、長い髪の毛だけが真っ黒だった。結っていないのか、時折それが風に吹かれて、サラサラと背中の方で舞っていた。
———くすくす
女の人は不意に長い袖口から手を覗かせると、胸の前に掲げた。その、白くて細い綺麗な指先に、先程まで夢中になって追いかけていたオニヤンマがとまっていた。
———あっ。
思わず身を乗り出した僕に、女の人は小首を傾げて微笑みかけた。
———捕まえなくていいの?
まるで、そう語りかけるかのように、女の人はオニヤンマがとまった人差し指を、僕に向かって差し出した。
僕はその時、得も言われぬ未体験の感覚に襲われた。さっきまでオニヤンマに向けていた好奇心などではない、もっと本能的な、喉の奥や心臓の中、下腹部からせり上がってくる何かに命令されるように、僕は陽だまりの中へ足を踏み出していた。
一歩、二歩、その女の人に歩み寄って———。
———おばあちゃん。
その瞬間、僕は目の前に迫る得体の知れない脅威を感じ取り、咄嗟に踵を返した。背中に視線を感じながら、風の吹きすさぶ小道を喉を枯らして全力で走った。
———逃げなければ。
振り返る余裕などなかった。ただ、背後に存在する脅威——恐怖という概念から、全力で逃れようとした。なりふり構わずに、薄暗い竹林の中を、必死で走り抜けて———。
「はあっ、はあっ」
気が付くと、僕は門の外でへたり込んでいた。振り返ると、門の向こうの小道はやけに薄暗く、奥を見通すことはできなかった。
よろよろと立ち上がると、手に持っていたはずの虫取り網が消え失せているのに気が付いた。辺りを見渡したが、どこにも見当たらない。
まさか、門の向こうで落としてしまったのか?
その瞬間、また恐怖に襲われ、僕は全力でその場から逃げ出した。あの女の人が虫取り網を手に門の向こうからやってくるのを想像してしまったからだ。
竹林の脇道を駆け、小川に掛けられた丸太橋を渡り、畑沿いのあぜ道を走り抜けて家に戻ると、おばあちゃんが玄関先で村の人と話し込んでいた。
「わあああっ」
僕は泣き喚きながら、おばあちゃんに抱き着いた。そのまま、声を上げてわんわん泣いた。
おばあちゃんは初めて声を上げた僕に驚きながらも、
「どうしたね、何があったんね」
と、優しく訊いてきた。
僕は拙い言葉でさっきのことを伝えた。オニヤンマを追いかけていたら竹林に迷い込んだこと。そこで、虫取り網を落としてしまったこと。そして、そこで白づくめの女の人に会ったこと。
それを聞くなり、おばあちゃんは急に青ざめた。なぜか、隣にいた村の人は、慌てた様子で帰っていった。
僕は、虫取り網を失くしてごめんなさいと泣きながら謝り続けたが、おばあちゃんはそんな僕を優しく抱きしめ、
「大丈夫や、大丈夫やからな」
と、耳元で囁き続けた。
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